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花宮くんは、綺麗だ。顔が綺麗とかじゃなくて、いや、もちろん顔も綺麗なのだけれど、所作というか動作というか、彼を取り巻く全てのものは美しかった。花宮くんを見るたびに私はほお、と息をつく。恍惚というものはこういうことを言うのではないかと思った。周りの女子がきゃあきゃあと黄色い声を上げる中、私だけが黙っていた。そんな恐れ多いことはできなかった。花宮くんの姿を見ると、触ってはいけないような、たとえば美術館にあるジオラマを見たときのような、気持ちになるのだ。
「なまえ、こっちにおいで」
夢の中で、花宮くんが私に手招きをする。それについていきたいと体は主張するのに私を止めるのはやっぱり心だった。行ってはだめだよ。行ったら戻れなくなるよ。そんな声がする。紛れもなく私の声だった。花宮くんがもう一度優しく手招きする。花宮くんの声なんてちゃんとは覚えていないのに彼本人だと確信できた。もし彼に近づいたらその優しげな手は私の頭を撫でてくれるだろうし、抱きしめてくれるだろうし、誰にも触らせたことのない部分にだって触れてくれるだろうと思った。だけど足は動いてくれない。心の鎖は重厚だった。花宮くんは、硝子細工みたいに繊細で遠い人。私が均衡を破りたいのなら、あるいは。
「みょうじさん、なにをしているんだい?」
「花宮くん、あのね」
抱いてほしいの。私がそんなことを言うと、花宮くんはひどく驚いた顔をした。私も自分の口から出たその言葉があんまりすんなり空気に乗るんで、少々驚いてはいた。しばらくすると、いつものように美しい顔に戻っていたけど、どうして?と聞いてきた。聞いた後にすぐにそれを取り消した。いや、違うな。そんな野暮なことを聞くのは止めておこう。花宮くんの右手が私の左手をとる。それは夢の中ではどうしたって触れないものだった。私は均衡を、崩したのだ。抱かれている間ぼんやりと考えていた。私はなんでこんなことをしているのだろう。散々考えてたどり着いた結論はやはり短絡的なものだった。捨てなくちゃいけなかった。それは処女かもしれないし、もっと別の、いうなれば心理的な何かかもしれなかった。だけれど短絡な私の頭ではなにも考え付かなかったのでとりあえず何かを変えるために行動に出た。初めてのそれは、存外あっさりとしたものだった。
「私、花宮くんのことが好きみたい」
「本当にか」
「本当に」
「…蜘蛛のような、男だぞ」
鉄平くんに事実を告げると、それだけ言って鉄平くんは悲しい顔をした。やめておけとも行くなとも、なにも言わなかったけど本当はそう思っているのだなあと思った。なんとなくだけど、鉄平くんは泣き出したいのだろうと理解できた。私なんかのためにそんな顔をしてくれる鉄平くんを、私は置いていこうとしている。罪深い女だ。残酷な女だ。けれどもそれを少しも申し訳ないと思っていない自分に少しだけ驚いていた。今まで私はいろんなものを吸収しすぎていたから。いろんな人の思いを受け止めて、いろんなものを押し込めてきたのだから。そして私はもうずいぶん前からそれに気が付いていたのだから。きっと鉄平くんも同じように、わたしのそれに気づいていたのだろう。景色が霞んでいく。鉄平くんはやっぱり悲しそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をするの。そんなことを聞く厚顔無恥な少女にはもう戻れない。私は女になってしまったのだ。
「ごめんね鉄平くん、」
鉄平くんにゆっくりと背を向ける。彼がどんな顔をしているのか、もう見えなくなった。不思議なことに彼がどんな顔をしていたのかも、すぐに思い出せなくなった。私をとりまく全てのものを捨てて、私はようやく走り出した。パンも、ランプも、父の熱い想いも母の眼差しも何も持っていない。そんなものはすべて置いてきてしまったのだ。捕らわれたかったのだ、今度は花宮くんの蜘蛛の巣とやらに。結局私はどこに行ったってなにがあったって、誰かに縛られていたいだけなのだと気付く。静かに涙をこぼした。人間を人間と思っていないのは私の方だった。私は、私を縛るものが欲しかったのだ。いつだって。昔は周りの主張が、鉄平くんの物言わぬ眼差しが。そして今度は花宮くんの糸が。だけどもう遅い。私はもう少女ではない。今更足は止められなかった。走りながら笑う私は、ぼろぼろと大粒の涙を零した。どうして泣いているの。そんなことを聞く厚顔無恥な少女には、もう、戻れない。ただ、人間はそんなに簡単には変われないのだなあと思った。それから私がした行為も全て無意味な気がして、えづきそうになるのを必死でこらえた。失くしてしまった。失ってしまった。全部自分で捨てたはずなのに、泣きながら笑う私を花宮くんは笑うだろうか。それともどうして泣いているのと、不思議そうな顔をするだろうか。どちらであっても構わない。一寸先も見えない真っ暗な道だったけれど、たとえこのまま花宮くんに辿り着けないまま転ぶことになってしまっても、辿り着いて失望することがあっても、追いかけようと決めた今こそが至上の幸福なのだと、浅はかな私は必死に思いこもうとしていた。




純潔の葬



title by 金星
(120827)