そこは暗いけど確かに海だった。静かな波の中でゆらゆらと揺れるそれは月の形をだいぶ歪にさせた、偽物だ。 「わー!海だー!」 「風がうざったい…」 「はあー?みょうじまじつまんねー女!海だぜ?東京じゃめったに見らんねえよこんなの」 「だってさあ、折角髪洗ったのにー」 「オレだってもう風呂入ったけど」 「高尾にはわかんないですよ、こういう海風って、髪の毛とかべたべたにしちゃうじゃん」 「そうなの?」 「そうなのー」 NaClで塩化ナトリウムだっけ。…なにが?海の成分。うん、塩分濃度約0,5%の、液体。やべー、すっげえな!海ってこんな雄大なのに、意外と身近だな、へへ。高尾が頭を腕の後ろで組んだかと思うとへらへら笑う。本当にこいつの表情は見ていて飽きない、という言葉が当てはまる程度にはくるくると変わる。高尾が海に行きたいと唐突に言い出したのはつい数十分前のことだ。 「てーか、なんで突然海?」 「え?だって俺ら、合宿でしか海なんか来れねーよ?しかも明日には帰っちゃうじゃん」 「でも、昼間、腐るほどここ通ったじゃない」 「うーん、でも、夏の醍醐味はやっぱ夜の海っスよなまえちゃん」 「そうっスか」 「そうっス」 適当な段差に二人で腰掛ける。四日前ここに来た時より幾分か黒くなった自分の太ももを見つめた。夜の海は昼以上に波がゆらゆらとたゆたっているのが分かって、正直なんだか気味が悪い。とろけるような、むせ返るような匂いがする。「みょうじ、ちょっとそれチョーダイ」手に持っていたサイダーを、高尾に手渡す。隣でごくごくと彼の喉が上下する音がした。「高尾、飲みすぎー」そう悪態をつきつつも、私は高尾の我儘にこうして付き合っているわけだし、甘いというかなんというか、結局私だって高尾の隣が、一番心地よかったりするのだ。高尾は飲みきってしまったスチール缶をぐちゃりと潰してぽいと足元に捨てた。おいおい、人のサイダーだぞ。てか砂浜掃除のボランティアの人だっているかもしれないじゃないか。拾え。 「いーじゃん、マネージャーさんは黙って選手に尽くせよ」 「うっわ、信じらんない。そんなこと言っちゃう?ありえなーい明日先輩にいっとこー」 「うわーゴメンゴメン!それはまじ勘弁!」 「せっかくあんたの我儘に付き合ってやってんのにさあ」 「はいはいアザース」 「適当すぎー。大体、なんで私なの。緑間とかもっといたでしょ、てかむしろ今頃あいつ部屋で孤立してるかも」 「…」 「え。何その沈黙」 「…もーなまえちゃんてば、野暮だなよあ」 「はあ?…どういうことよ」 「ええ、みょうじ、本当に、わかんねえの?」 ニヤリとした、猛禽類の目が私を見て笑った。同時にカラン、と音がして、何かが融解する。私の心の、ずっとずっと奥の、そのまた奥の方。大丈夫だ、芯はまだ残ってる、はず。この何かが融けてしまったら、私が融かしてしまったら、私はどうなってしまうんだろう。ううん、私だけじゃなくて、高尾は、どうなってしまうだろう。「ははっ、嘘嘘、別に他意はねーよ」そんな私を余所に、今度はやたらと快活に高尾がケラケラ笑う。 「ねえ、高尾。あのね、…私」 駄目だ、今はまだ、分かってしまったら。なのに、私の声を無視した声帯から出た震える声が簡単に空気を揺らして、音になる。波の音、ぐちゃりと潰して転がしたサイダーのスチール缶、それから潮風と頬を垂れてく汗、指先の距離はおよそ数センチ。見ないふりをしていられるのは、あとどれくらい? 融かしきれない気持ち 素敵企画黄昏さまに提出させていただきました! ありがとうございました! (120718) |