「ずっと溺れていたいって思うの」


間近から響いた声にゆるりと意識を向けると、目の前にあった彼女のうなじと濡れた髪、それを拭いていたタオルが目に入る。
手を休めつつ、それって俺に?と返せば、振り返った彼女が首を振る。
俺も彼女も笑わなかった。
ぽたり、とまた一滴が髪を伝って落ちる。


「確かにこうして臨也と居る時間に浸るのはしあわせだけど、少し違う話で」


また一つ二つ、落ちては彼女の肌の上を転がり落ちる水滴を拭き取った。
彼女はきちんと髪を拭いて風呂から出てきた試しがない。
こういう役目がいつから自分に当てられたのか、はたまた自分からやろうと思ったのか、きっかけは朧気だ。
実際、あまり気にかける必要もないと思う。


「私のお風呂が長いのは知っているでしょ」

「ああ、うん」

「あれ、暇あれば沈んでるからなの。髪とか身体とかを洗うのは最低限の時間で済ませて、息が続くかぎり浴槽に身を沈めて、酸素を補給しては繰り返し」

「へえ、おもしろいね」


彼女は至って真面目な調子だったし、別に嘘とも思わなかったのにそう返してしまった。
茶化したつもりじゃないと弁解しようと思ったけれど、彼女の表情を窺う分には憤りが見られない。
何故だか、彼女は俺の本気の揶揄とそうでないものを見分けられた。


「泳ぐのが好きな人って水が好きでしょう。それと同じでね、温かいお湯の中に沈んでいるとすごく落ち着くの。時には息苦しさも感じないくらい」

「ちょっと、そのまま溺れると俺が困るよ」

「大丈夫。だって溺れ死んでしまったら、あの気持ちよく世界から遠ざかる感覚が二度と味わえないじゃない」


何が大丈夫か分からなくて言いたいことは尽きなかったけれど、開きかけた口を閉じた。
あまり口うるさくしても野暮ったい。
それよりは彼女のささやかな趣味を容認しようと思った。


「海は塩辛いし、何より底がなくて怖い。プールは底があるけれど、少し塩素臭いね。やっぱり家のお風呂が一番」

「ふーん?」

「生まれ変わったら魚になりたいなんて贅沢は思わないようにしてるの。水にふやけない身体は羨ましいけれど」


そういえば彼女は昔から水辺のある場所を好んでよく出掛けていた。
単なる好き嫌いの問題だけではなく、そこには懐古の気持ちがあるんじゃないかと思う。
その昔、人類を辿った祖先は水の中に棲む生物だったと聞く。
水の中で生きられたら。
それは少し、いやかなり俺が困る気がする。
彼女の髪を乾かす役目もなくなってしまうだろう。


「名前って、水泳やってたの?」

「ううん、全然。学校の授業には申し訳程度に参加したけれど。どうして?」

「少し変わってるくらい、水が好きみたいだから」

「うん、なんだかもう理屈じゃないの」


やっぱり、と呟いたのに対し名前は嬉しそうに微笑んだ。
多分自分の気持ちが分かってもらえたと思ったんだろうけれど、少し違う。
俺はそこまで水に帰郷本能が働かない。
憶測を言い含めて、当たったらそれを噛み砕いて、彼女を理解しようとしているだけだった。


随分と、前の出来事のように思える。
名前が川に溺れた姿で見つかったのはそれから一年と少し後だった。
思い返せば随分と長く思い悩んでいたんだな、と感じる。
彼女の周りは口を揃えて言った。
自殺するだなんて、とてもそうは思えなかった。
俺だってそうだ。
前日にまで会っていたというのにそんな素振りを全く俺に気取らせなかったという事実は少なからずショックだった。
驚いたし、悲しかったけれど、訃報から一カ月ほど経てば彼女に関していろいろ思い返せるようになった。
自殺と言われたが、分からない。
彼女は俺の生死論にいたく賛同していて、死の先には天国も地獄も輪廻も転生もないと信じ切っていた。
少なくとも、魚になりたくて身投げをしたとは思えない。
単に事故という可能性もある。
だとすれば、彼女は浴槽に飽きてより回帰的なものを求めて川辺へ沈みに行ったか、自らの願いを水中で死ぬことで昇華させようと思ったかの二択だ。
推測はできても納得はきっと一生できない、と思う。
彼女の願いと俺の望みは叶える形が違ったのだ。
(人としての君を愛していた。もっと側に居たかった)




20111130
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