既に白と呼ぶにはあまりにも薄汚れた廊下の壁に凭れた隣のクラスの女子二人が自分を見るなり声を潜めたので、聴こえないなりに内容を察した巻島は、僅かに眉根を寄せることでその不快感をやり過ごした。呼吸の一片すら乱すことなく、努めて気にしないふりで、長い脚を前へ前へと押し出す。この時、不自然に早足になってはいけない。自分のペースを守ることが結果的に相手を遮断することになるのだということを巻島はよく知っていた。彼の気にしていないふりはどうやら成功したらしい。巻島の意図的な無関心を信じ込んだ少女たちは、巻島の背中に、今度はあからさまな視線を寄越す。そこに渦巻く好奇と畏怖。
「…アイツが殺して埋めたって噂、マジなんじゃないのォ?」
少女の囁きは小さ過ぎて、巻島の耳には届かない。壁のシミの一つになった。

少なくとも、彼女との関係は良好だった。
誰かに言い訳するように巻島はそう思う。配布されたプリントの空欄を埋めていく退屈な作業。こういうのは勘弁して欲しかった。考えろと命令されている気がした。忽然と姿を消した彼女に。非在を貫く彼女のことを。
才色兼備という言葉は彼女の為にあるようなものだった。成績が良く、人望が厚く、人気も高い。進級して生徒会の仕事で表に立つことが増えたから、ますます顕著になった。朝礼等で体育館の左隅でマイクを構えて淀みなく進行役を務める彼女の姿は巻島にとって随分と眩しいものだった。綺麗だ、と思っていた。彼女を視界の端に捕らえるその度に。その日常の風景のすべてを。留めて置きたい一瞬、というものが存在し得ること自体、巻島には信じ難いことだった。彼にとって目に映るものはペダルを踏む毎にグングン遠ざかって然るべきものだったし、それでなければ面白味が無かったから。

付き合って欲しいと申し出たのは彼女の方で、それは中弛みと言われる学年にな って間も無くのことだったのだけれど、学園のマドンナと称しても遜色ない彼女が一年近くも巻島に片想いしていたのだという事実を周囲はなかなか認めたがらない。巻島の友人達に至っては、彼に恋人が出来たという事実を面白がって、服装のセンスは奇抜なわりに女の趣味は普通だ等と、好き勝手なことを言って散々からかった。すぐに別れるだろうという、羨みを多分に含んだ無関係な生徒たちの予想は残念ながらはずれた。別れる理由は見当たらなかった。好きだったからだ。巻島は彼女と二人で過ごした膨大なようで稀少な時間を目蓋に浮かべながらそんな風に思ったが、やはり言い訳じみていた。

表彰式の進行役は、今は彼女とは別の女生徒が務めている。慣れないのか、どこかたどたどしい。巻島は膝頭に顎を乗せて、目を閉じた。長い前髪が、痩せた頬に影を落とす。疎外感。違和感。なんだか、自分だけが取り残されているようだ。
彼女は完璧なようでいて、ところどころ綻びがあった。それが所謂短所と呼ばれるような類いのものなら、巻島はそこもまた恋人の愛敬だと思い、愛することが出来ただろう。彼は自分で思っているよりも他人に寛大だ。だが、彼女の欠点には形が無かった。どこか漠然とした奇妙な感覚。辻褄が合わないような。噛み合っていないような。不穏で不安な不和感。誤解を招くことを承知で断言するならば、彼女はどうしようもなく歪んでいた。特別な人間が自ら望んで特別でいる訳ではないのだということを巻島は学んだ。自分は好んで自転車に乗るが、彼女は好んで人を惹き付けているのではないのだ。その証拠に、一歩でも校門を出れば、彼女は巻島以外の誰もに対して平等にドライだった。彼女には取り巻きはいても、友人と呼べる程に深い関係の相手はいないのだということに、巻島は気がついた。周囲の人間は彼女が孤高であることを望んでいるようですらある。それもある種の友情だったのかもしれないが、巻島の知るそれとあまりにもかけ離れていたので、彼は違うものだと結論付けた。
「天気が良いなぁ、こんな日は私と裕介以外みんな死んじゃえばいいのに!」
「怖えぇこと言うなっショ…」
青空に向かって大きく伸びをする彼女の両腕を包む捲られた袖の目が眩むような白さは、どこが胸騒ぎすら覚える程健全であるというのに。二人きりであればあるだけ吐き出されるのは、毒ばかり。彼女の甘い声を聞くたびに巻島の耳は膿んだようにじくじくと痛むのに、それを制止する理由を彼は見つけられない。力無く口を挟むだけだ。いつも。
「じゃあ、私たち二人だけが死んじゃうなんて、どう?」
悪戯っぽく吊り上がる口の端。少女特有の残酷な微笑。嫌だと強く拒めない巻島だって、大人びた外観とは裏腹に少年の域を出ない。今はまだ。
「おい、いつまで寝てんだ?」
「………ショ、」
田所の大きな手が、巻島の肩を掴んで強めに揺さぶっていた。どうやら眠っていたらしい。いつの間にか、巻島とは無関係な表彰式は終わっていて、体育館は教室に戻ろうとする生徒たちで随分と騒々しかった。未だに腰を落としているのは巻島くらいかもしれない。
「先生、ずっと睨んでたぞ」
「クハッ…マジかよ」
ああいうのも白昼夢というのだろうか。


生物はいつか必ず死ぬことは、お利口さんだった幼少期の頃から知識として知ってはいるけれど、実感は伴わないままに、巻島はとりあえず今日も生きている。多分この後は部活に行くのだろう。そういう習慣だ。ペンケースに、ものさしをしまった。死。それはあまりにも遠いことのようでいて、意識してしまえばどこか無責任に恐ろしい、得体の知れないものだ。巻島にはただ悍ましいだけのそれが、あれ程までに彼女を惹き付けてはやまなかったという事実が、既に不気味である。体に傷こそないものの、彼女は立派に死にたがりであった。教室で堂々と読んでいた曽根崎心中は教養の一環では無かったし、初めてキスをした後に彼女が濡れた唇で呟いた、死んでもいいくらい幸せ…は比喩なんかでは決して無かった。彼女が後ろから抱きついて、首に腕をまわす度に、巻島は殺されるかもしれないと色々な意味で心拍数を上げた。彼女の最終目標は心中で、それを隠そうともしなかった。そうすることで愛は昇華されると信じていた。宗教みたいに。

速やかに部活に向かう、という巻島の簡単な目標は、担任教師によって妨げられた。彼女の失踪以来、自分を扱い倦ねている教師に巻島は同情的だったので素直に同行した。来賓室では神経質そうな線の細い中年の男が珈琲カップを見詰めていた。もう何度か顔を合わせているが、不思議と親しみは湧かない。いつだったか、男は彼女の名前を告げて父だと名乗った。血の繋がりが無いことを巻島は知っていたが黙っていた。彼の後ろには警察が控えていた。巻島の後ろに立っていた教頭が彼を彼女の特別親しい友人だと紹介したが、それがどういう意味か察したらしい男は露骨に顔を顰めたのだった。
「巻島くん、君は本当に何も知らないんだね?」
疲れたとでも言いたげな調子だった。巻島はいつもより小さな声で、はい、と短く答える。
「そうか…」
まるで予定調和のように男は頷き、胸ポケットを指でまさぐる。
「今日はこれを君に返しておこうと思ってね」
空の珈琲カップの横に並べられた細い指輪。それは初めてのデートで巻島が彼女に贈ったものだ。あまりにも無難なデザインなので、いつも奇抜な彼からの贈り物だと言っても誰も信じないかもしれない。受け取らなければ…と思うのに、巻島の指先は小刻みに震えて、ついに手を伸ばすことが出来なかった。

彼女の失踪届が提出され、小さい記事とは言え新聞にその名前が掲載されると、彼女の人間関係の気迫さを知る同級生たちは、すぐに巻島を疑った。それは教師を筆頭にした大人たちのように彼女の特別性ばかり着目するより、余程賢いことのように巻島は感じた。案外、正解に近いのかもしれない。彼女と最後に逢ったのはおそらく自分だ。不思議と確証があった。
だが、巻島には肝心のその部分の記憶がない。
矛盾するより、質が悪い。それは製本段階の落丁に似ていた。或いは、時計の三本目の針に。だから巻島は彼女を探そう等とは一度も考えなかった。誰に事情を
聞かれても、茫洋とした返答しかできなかった。知らないのだから当然である。家出だろう、というのが学校側の出した結論だった。行動力のある彼女くらいの年頃の子供にはよくあることだし、そうでなくても彼女の家庭環境はあまり良いものではなかったみたいだから。

例えば、彼女に縋る少年、或いは少女の姿を巻島は何通りも見てきた。ある者は嘆願するように、またある者は激情と共に。同学年の生徒が多かったが、下級生や上級生もいた。大半が一方的な愛の告白で、その場に居合わせた巻島が指差されて罵倒されたことも一度や二度じゃない。逆恨みから、腕にものを言わせようとした奴もいた。泣き落としだって日常茶飯だ。彼等は見ているだけの巻島が同情的になる程、恥も外聞も無くどんどんエネルギーを消費した。対する彼女は落ち着いたもので、優しくその言い分に耳を傾け、聞くだけ聞いてあとは突き放した。お姉様お姉様と泣き出した太った女生徒の肩を抱き、慰める彼女の姿はさながら聖母のようだった。これが始まると長いので、巻島は暇潰しようにカバンに突っ込んでおいたカタログを捲ったり、数分前に着信してきた相手に折り返したりして、時間を浪費する必要があった。
「私を軽蔑する?」
幼稚園の頃からずっと好きだったのだと土下座した幼馴染みに握られた手を流水で洗い流しながら、そう尋ねてくる横顔はいつになく暗かった。四六時中薬指にはめられたままのシルバーリングが水を弾く。
「………いや、」
軽蔑、という言葉を自らの胸中に探しながら、巻島は注意深く首を横に振る。引いていないと言えば嘘になるが、目の前で三文芝居が繰り広げられることにはすっかり慣れてしまった。
「いいんだよ、軽蔑してくれて。…愛してくれても憎んでくれても忘れてくれても、裕介ならなんでもいいんだ、私」
女の子らしく整えられた指先が水滴を払う。そのおどけた仕草だけが彼女が不山戯ているのだと示していた。彼女の冗談はいつだって心臓に悪い。
「そんな言い方されたんじゃ、俺はどうすりゃ良いのかわかんないっショ…」
情けなく呟いて、巻島は降参するように乾いた掌を晒した。彼女が自分だけに執着しているのは先程の科白を聞くまでもなく、わかる。わかり過ぎるているくらいだ。だから巻島は萎縮する。特別な彼女の、特別な存在。そんな風になりたい訳ではなかったのに、彼女の関心がその他大勢と同じか、それ以下でしか与えられなくなったら、その時はどうしたらいいのだろう。
「裕介は何もしなくていいんだよ」
「そういう訳にもいかねェ…っショ」
彼女を宥める為だけに、巻島は細い首に手を掛けた。指の腹が頸動脈を探る。理由も無く悲しくなった。孤高のカリスマを演じ続ける風変わりな少女が、与えられた役割を演じきれずに瓦解しそうになっているただの子供であるという事実に、巻島以外の誰も目を向けようとはしないのだ。

部活動は素晴らしい。風を切っている間は、頭を空っぽに出来るから。先にお風呂に入りなさい、という母親の勧めに大人しく従って、巻島は家庭用にしては広くて立派な浴槽一杯にはった乳白色の湯に身を沈めている。日常の合間を縫うようにして忍び寄る彼女の幻影に溺れないよう細心の注意を払いながら。忽然と消えてしまった少女。心中を求められていた恋人。大勢の取り巻き。空白の記憶。失踪。誘拐。自殺。拉致。遺棄。ネガティブな想像ばかりが、どろりと湯船に沈んでいく錯覚。巻島は濡れた顔を、同じく濡れた手で力任せに擦った。そういえば、どうして彼女の義父はあの指輪を持っていたのだろうか。
「ねぇ、どうしてくれる?」
ふいに耳に蘇る呪いみたいに甘い声。水滴の滴る音。取り残されているような、違和感。ふと、足首に何かが触れた気がして、足を引き上げた。そこには自分のものではない髪の毛が、ごっそり巻き付いていた。



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