「キミはいつかオレの前からいなくなってしまうんだろうな」

 尽八はいつもそういって、目に見えないなにかに怯えているようだった。ひかりの透けるまつ毛を悲しげにふせて、切望と哀願に濡れた声音を吐き出しながら。

「あっさりと、そう、あっさりと。キミは振り返りもせずに去ってしまうんだ」
「……あなたでもそんなこと言うんだ。驚いた」
「こんなオレは嫌いか?」

 そう、あなたは不安でたまらないといった表情を作って言ったけれど。わたしには「そんなことない」ということばしか残されていなかったし、尽八の婚約が決まったという知らせを受けたのは、それから二ヶ月後のことだった。


▽▲


「婚約おめでとう」
「……久しぶりに会った恋人に対する第一声がそれか」

 「配慮が足りないんじゃないか」と憤慨する彼は最後に会ったときよりいくぶんも疲労に侵されているようだった。苛立たしげに流れ落ちる長髪をかき上げる。
 出会ったときには既にトレードマークとして定着していたカチューシャを外し始めたのはいつからだったろうか。最初は落ち着かん、慣れん、と愚痴ばかりをこぼしていたのに、今となっては、カチューシャを目にするたびに苦笑をしてオレも若かった、と仕方なしにつぶやくだけ。だから、わたしが彼にプレゼントとしてあげた藍色の無地のカチューシャも、今では遠い引き出しの中にしまわれている。
 尽八が乱雑に脱ぎ捨てた背広を拾って、クローゼットから取り出したハンガーにかける。外の店を選ばず、ありふれたビジネスホテルを指定したのは、過去の思い出を語り合うためではないからだ。今日と、そして未来の話をするために。

「何か飲む?」
「じゃあワインを――……いいや、やはりやめておこう」
「別にいいのに」
「その表情を見るに、どうも明るい話じゃないようだからな。ならばアルコールを摂取した頭でキミの話を聞くのは得策ではないだろう」
 
 ルームサービスで頼むワインくらいでは決して酔いに屈服するような男ではないというのに、今日はどうにも慎重だった。どちらでも構わなかったわたしは、ただ頷いてラウンジチェアに腰掛けた彼の向かい側であるベッドに腰を降ろした。きしりと、軽い音を立てて軋む。

「それで?」
「わたしの言いたいことの五割くらいは、察しがついてるでしょう」
「八割はな。でもキミは自分の口からオレに話したいんだろう?」
「ほんとうはあなたがわたしの電話に出て、たった一分話に応じてくれればそれで済んだんだけど」
「もっと怒ってるかと思ったが」
「それは、何に対して」
「すべてに対して」
 
 怒ったところで、受け流すだけのくせに。むっすりと口を閉ざしたわたしを見て、尽八はよくできました、と言わんばかりに笑みを深めた。
 本来ならばこの男はもっと焦るなり、憤るなり、するべきなのだ。しかしそういった当然の常識を盾にするにはあまりにも、尽八は研がれとびぬけている。それはたとえば彼の思考だったり、そのうつくしさであったり、これまでの生きざまであったり。いろいろだ。

「尽八こそ、謝ったりとか、しないね」
「すまなかった」
「…………」
「ほらみろ、そんな顔をするだろうから言わなかったんだ。オレの謝罪などキミは必要としてないだろう」

 どうかわからない。わたしは意外とベタなものを好んでいるから、彼の謝罪を心のどこかではきっと求めていた。ほんとうに、彼が心を痛め謝ってくれれば――あるいは違う道を示せるかもと。だけど期待はしてなかった。そうしてやっぱり、その通りになったから、なんてことはない顔をしているだけだ。

「悪いとは思ってる」
「ふうん」
「本心だよ。あんなのは周りが勝手に行った蛮行にすぎん」

 尽八は、煩わしさを振り払うようにひじ掛けを人差し指で数回叩いた。
 久しく会えないでいた恋人の婚約をよりにもよってその相手の婚約者から聞かされるなどという事態を、蛮行と呼ぶのなら正しくそうなのだろう。東堂庵の贔屓にしている取引先の令嬢ともなれば尽八にとってこれ以上ないほどふさわしい婚約者である。なんの後ろ盾もないわたしのような女などよりよっぽどそちらのほうが自然だ。彼の家族は一人息子の一時の戯れを許す程度には寛大であったけれど、同時に格式を重んじる厳かなひとたちでもあった。

「尽八は見当違いばかりね」
「ほう。たとえば?」
「婚約は蛮行なんてひどいものではないし、いつか言ってた振り返りもせずにあっさりといなくなるのはわたしじゃなくてあなたのほう」
「……そうか」
「そうだよ。でも、きっとこれがいちばんしあわせなことなんだと思う」

 本来ならば、婚約というおめでたいことはこんな重苦しい空気で語るようなことではない。これからの彼の未来が確約されたすばらしい出来事なのだ。だからわたしはもっと、ほんとうに、心から彼を祝ってあげたい。
 音もなくわたしの隣に座り込んでいた彼の、隈が幾重にも重なりあった涙袋をそっとなぞった。かつては山を駆け風を切っていた逞しい太腿に触れ、わたしは確かに、尽八との決別を口にする。

「尽八。今日まで、たのしかった。とっても。だけどわたしたちはここまでにしよう」
「…………」
「きちんと彼女のことをあいしてあげて。式には……呼びづらいかもしれないけど、でも、心から祝福する」
「…………」
「お互いの子供が産まれる頃には……また会えたらうれしい。そうして、今日のことを笑い話に」

 後腐れなく、穏やかに。それがわたしがずっと決めていたことだった。お互いを尊重し合って別れようと。おそらくもう二度と会うことはないのだろうが、口で言うだけならばタダだ。
 悲しみも苦しみもない。わたしの胸の内は凪いだ海のようにゆるやかだ。

「それじゃあ」

 立ち上がり、微笑みを交わして部屋を出ようとしたときだった。

「     」

 沈黙を連ねていた尽八の唇がわたしの名を模った。
 と同時に、視界がペンキをぶちまけたかのようにぐにゃりと歪む。ひどい頭痛と酩酊感をごちゃまぜにしたかのような感覚に耐え切れず、立ち上がったばかりのそこに座り込んだ。

「ああ、ああ。キミの気持ちはわかったよ」
「っ」
「ところで、立ちくらみかな? さきほどからずいぶんと顔色が悪いようだが体調が優れないのかい」
「、ここのところちょっと、風邪気味なだけ。あと二日もすれば……」
「――さあ。それはどうだろう」

「ああやっと――このときが来たのだな」

 再度立ち上がろうとしたわたしの腕を掴み――もはやそれは握りつぶそうとしていると言っても過言ではない力で――尽八は突如として高らかに笑い出した。むせび泣くかのように歓喜に打ち震える姿は、ただただ、おそろしく。

「しかし風邪、風邪ときたか、ハハハハ!」
「じん、ぱち?」
「なあ。あしたには病院に行くといい」
「病院……?」
「間違っても内科なんぞに行くなよ。二度手間になるだけだからな。キミが行くべきなのは産婦人科だ」
「どうして、」

「きっと先生が幸福の誕生を告げてくれる」

 おだやかであったはずのすべてが、今この瞬間、凍りつく感覚がした。

「オレは同席できないが、父親は間違いなく喜んでいると伝えてくれていい。母子手帳はちゃんともらって記入するんだ」
「は、あ……? ま、って、……待ってよ、尽八、なにを、いってるの」
「おっとそうだな、キミはすぐに勘違いをしてしまうからわかるようにちゃんと言葉にしなくてはな。
 さて。今月の生理はきちんときたかね?」

 思考回路がおぞましい感覚に囚われる。口元に明け方の三日月のような笑みを湛えて、彼はひとり混乱に陥るわたしを愉快でたまらないと見つめ続けた。

「まったく実に地味で、単調で、長く、沈痛極まりない作業だったよ。だがやっと、やっとだ。オレはどれほどこのときを待っただろう。ひとつきか、ふたつきか? いいや、いいや! もっと前からだ! オレはキミと会ったときからどうやってその両足を絡め取り縛り付けこの身に縫い留めようかとそればかりを考えていたんだ」

 気付かなかったか、気付かなかっただろう。それはそうだ、なんたってこのオレが本気でキミに隠し続けていたことなのだから。毎回従順に約束を守っていたオレにキミは疑いもしなかったろうな。ハハ、あんな形ばかりのものを。キミは! これっぽっちも疑いもせずに!

「アクシデントはあったがそんなものは些細なよしなしごとだ。キミがオレの子を宿したことに勝る成果はない。ああ、中絶なんてもちろん許しはしないからな。ましてやオレから逃げるなどということも考えないほうがいい――もっとも。キミにはそんなことをする非情さも勇気もないか」

 狂気に、よどむ、彼の瞳は恍惚とした光を放っていた。しかしそれすらもがぞっとするほどにうつくしく、常人では手を伸ばすことさえ罪だとおもわせるような神聖さがあって。
 ひたと迫るそれに飲み込まれそうになりながらも、わたしは目の前が真っ赤に染まって行くのを止めることができない。

「……なにをしたか、わかってるの」
「もちろんだとも」
「……みんなに、なんて、っ伝えるつもり……!」
「みんな? それはキミとオレとその子のことか?」

 するりと、氷柱のように冷たく鋭利な指先がわたしの頬を撫ぜる。それはさながら錠に繋がれた受刑者に送るような生ぬるくも、無力さを嗤いいたぶるような仕草だった。
 まさか。そんな。ありえない。姦しくリフレインすることばをすべて見透かしたかのように尽八はきれいに微笑んで、いつもよりもずっとつよく、きつく、この身を抱き締めてくる。整った鼻でわたしの首筋をなぞる男は、無邪気な独占欲と執着心が満たされたことにひどく満足していた。

「わたしに、一生、あなたの慰み者であれというの」
「とんでもない! オレが愛してるのはおまえだけだよ」

 怒りのあまり白く血の気をなくした拳を振り上げ、暴れていた手首を掴み、尽八は「それに、」と蕩けた眼差しをまだ膨らみもなにもないうすっぺらなわたしの腹部に向ける。

「そんなに激しく動いてはならんよ。流れてしまうだろう?」
 
 かわいい、かわいい、オレたちの愛し子が――――
 そう、罪という罪を顔に塗りたくった男は、ともすれば見惚れてしまいそうなまでにうっとりとした微笑を受かべた。

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