欲したものが無欠で手に入ることなど絵空事。望んだものは決して与えられない。誰に教わるまでもなく、物心つくよりも先にそう悟った私は、無い物をねだることもなく、不相応な理想を掲げることもなく、ほんの十年そこそこの時間を遣り過ごしてきた。それが賢いということだと盲信してさえいる。こんな私の態度はある種の大人たちを苛立たせるらしい。やっぱり、家庭環境が…ね。そんな風に言葉を濁されることにも、すっかり慣れてしまった。
「あ、これうちの学校じゃん!…見て見て!新聞載ってるよ!」
やけに人工的な蛍光ピンクの唇をした友人が、ラインストーンで重たく飾られた指先をコンビニのラックに向けている。指差されたスポーツ新聞の見出しが「キセキの世代!連戦連勝!」だったので、私はギクリと肩を揺らし、私達から少し離れてジュースを選んでいる祥吾くんの様子を窺った。彼は一緒に来た男の子たちと何事か囁きあっては下品に笑っている。友人はわざわざ新聞を引き抜くと、彼等のところへ持っていった。祥吾くんが数ヵ月前にバスケ部を辞めたことを、まさか知らない訳ではないだろうに。
「写真で見たらカッコいいよね」
男子たちを引き連れて戻ってきた友人は、祥吾くんが露骨に不機嫌になっているのを無視して楽しそうに私に向かって新聞を広げて見せた。余程、自分の在籍する学校が掲載されているのが嬉しいのだろう。教室では不良と呼ばれる彼等が自らが所属する組織に見せるこの手の愛着は、私にはどうにも理解できないものである。
「私、結構黄瀬くんタイプなんだよね〜」
「えぇー、なんかナヨっちくね?」
黄瀬くんの名前が出たことで、何も言わない祥吾くんのテンションが更に下がったのがわかった。彼のお友達はそれを全く意に介さない。祥吾くんが気分屋なのはみんなが知っていることだから。
「ね、この中だったら誰がタイプ?」
写真の中には横一列に並んだユニフォーム姿の同級生たちが写っている。
「そこには写ってないけど、バスケ部だったらハイザキショウゴって子がタイプだな」
「もう辞めてるっつーの」
冗談めかして言ってやれば、不貞腐れた様子の祥吾くんが寄ってきて、私の頬を軽く摘まんだ。とりあえず、機嫌を直すとまではいかなかったが、場の空気がやや緩和されたので、よしとしよう。
「見せつけてんじゃねぇよ〜」
何が可笑しいのかわからないけど、これくらいのことでみんな笑う。だから、私も祥吾くんも笑う。まだ売り物であるはずの新聞紙に無残な皺が寄るのを、ただ眺めていた。褪せた紙面にあって、それでも私の目を惹く半色。とても背が高くて、誰よりもマイペースな同じクラスの男の子。タイプ、というのとは少し違うかもしれないが、私は多分ムラサキバラアツシに憧れている。他人事のように、私はそれを知っていた。今、祥吾くんが何気無くしたように、あの大きな手で触れて欲しい。選べるのなら、彼がいい。別に理由なんか無かった。衝動的に好きになっていた。強いて言うなら、そう、タイプなのだ。あの切れ長の目許とか。体格が良いのに愚鈍さを感じさせないところとか。突き刺すようでいて柔かな口調とか。全部。けれど、私はそれを他人に話す気は無かった。表向き、私の好きな人は祥吾くんで良いではないか。何の不都合もない。高望みなんて、するだけ無駄だ。傷付きたくない、なんて可愛らしい発想ではない。無意味なことに時間を裂きたくないと言っているのだ。幸い、祥吾くんは手の届く範囲にいたし、彼も私のことを嫌いじゃないみたいだ。きっと、お互いが妥協してる。でも、それを誰が咎めるだろう。どんなに叶わない夢をみても、どうせいつかは流れていくのに。

祥吾くんと付き合うことになったのは、何人かで遊んでいても、最後に残るのが必ず私達二人だったからだ。我が物顔で闊歩していても、夜の街は心細い。世界でふたりぼっちみたいな気がしていた。そう思っていたのは、私だけだろうが。手を繋いでくれたら良いのに、と思った矢先に、その願いは意識する前に容易く叶えられた。「俺と付き合ってよ」なんて。何の重みもない声で祥吾くんが言うものだから、私は安心してその手を握り返すことが出来たのだ。与えられたのならば、与え返さなければ。人間関係は等価であるべきで、それ以上でも以下でも宜しくない。
「あっ、ジャンプ読もうと思ってたの忘れてた!」
「あー…じゃあ、もう一回コンビニ寄るか」
ダラダラと、纏わりつくような速度で夜だけが更けていく。ほぼ毎晩のように一緒に居る私達は、思い付く娯楽は大体やり尽くしていて、だからもうぶらぶらしながら時間の経過を待つ以外大してやることもないのだった。私が何も望まない性質で良かったね、欲張りな祥吾くん。彼はコンビニの前で足を止めた。ともすれば遅れがちな私を待つことで、精一杯優しくしているつもりなのだ。

たまに、紫原くんと目が合うことがあった。私と彼は親しくないので、大体はとても遠いところから、ふとした際に。そういう時、彼はなかなか視線を外さないので、私も見詰め返すようにしていた。体育の途中コートを挟んで向こう側にいる彼や、テスト前の休み時間にポーズだけでも教科書を開いてみている彼なんかを。それだけで、十分だった。私は下目がちな楝色の瞳を瞼に焼き付けながら、まだあどけなさの残る男子たちの中で、白いブレザーが様になっているのは紫原くんだけだと考えていた。彼に話しかけられた時の為に私の鞄には常に飴玉が常備されていたが、残念なことに今日までそんな日は来なかった。自分から声をかけてみるなんて思い付きもしなかった。私は多くを望まないのだ。自衛の為に。
「…紫原くん?」
だから、その名前を呼ぶのは驚くほど勇気のいる作業だった。それも、教室ではなく、ゲームセンターで呼ぶことになるなんて。
「うん」
ほとんど地べたに座り込むようにしてクレーンゲームを操っていた彼は、折り目正しく頷いた。それが挨拶のかわりになるかのように。
「部活、休み?」
先日コンビニで見掛けた新聞記事を思い出しながら尋ねた。少し離れたところで耳触りな叫声が上がったと思ったら、祥吾くんを含む一群だった。先程まで自分もあそこに属していたことを思うと、急に恥ずかしくなる。
「違うけど、行く必要ないし…」
当然のことを説明する時特有の、気怠けな口調だった。
「そっか…」
私は頷いて、踵を返した。これ以上は平常心を保って居られそうにない。こんな短い一言を吐き出すことすら困難な程に、私の心臓は暴れ始めていた。
「髪、」
低い呟きが背中に投げつけられた。私の足は止まってしまう。
「前のほうが似合ってた」
恐る恐る、自分の髪に手を伸ばす。そこには祥吾くんの影響で灰色に染めたメッシュが入っている筈だった。

私が髪の色を戻したあたりから、祥吾くんとの関係は徐々に希薄になっていった。最初から、心が通いあっていたという訳ではないのだから、当然と言えば当然ではある。祥吾くんには常に沢山の女友達がいるし、このまま自然消滅すれば、その内の誰かが彼女の座に収まるのだろうと簡単に想像ができた。彼は寂しがり屋なのである。
「お腹空いた〜」
「飴ならあるけど…」
「じゃあそれ頂戴」
ゲームセンターで会った次の日にはメッシュを綺麗に落としてきた私を見て、紫原くんは何を思ったのか、時々話し掛けてくれるようになった。持ち歩いていた飴たちが陽の目を浴びる日が、ようやく訪れたのである。
「はい」
すぐに食べるだろうと気をまわして、包みを破ってから差し出した。甘い葡萄の香りが漂う。飴玉とよく似た色の双眸が、値踏みするように私を見た。
「あーん」
紫原くんは私の手元に唇を寄せる。どこか挑発的な仕草。私は震える指先で飴玉を摘まみ、その薄い唇の間にそっと運んだ。人差し指に艶かしく濡れた舌が触れる。確信犯の吐息が親指に掛かる。
「ありがと〜」
間延びした感謝の言葉。飴玉を口のなかで転がす音。その二つを耳にして、やっと私は自分が呼吸を忘れていたことに気付く。心も体も震えている。腹の底から欲望が目を覚ますのを感じた。欲しい。欲しい。欲しい。紫原くんが手に入るなら、もう何も望まないって具合に。
私の恍惚とした気分は、長くは続かなかった。派手に物が倒れる音。驚いたクラスメイトの悲壮な声。
「祥吾くん…」
私の彼氏はどうやら椅子を蹴り飛ばしたらしい。

祥吾くんは苛立ちを全身で主張しながら、進行の妨げになる机や椅子を蹴り倒しながら此方にやって来た。強欲な彼は私ですらも手離すのは惜しいとみえる。対する紫原くんは冷ややかに祥吾くんを見下ろしながら、飴を噛み砕いて飲み込んだ。
「へぇ…!そういうことかよアッシぃ」
祥吾くんは嘲りながら、絶妙に相手を不快にさせる調子で言った。上がりきった口角が、彼の得意とする挑発の表情を演出している。
「こんな女、好きにしろよ…オレのおさがりでいいならな」
露悪的な台詞。騒然とする教室。それらすべてを残して、私の目には祥吾くんが消えたように見えた。
「誰が誰の何だって?…もう一遍言ってみろよ」
先程に勝るとも劣らない嫌な音がした。床に赤い点がいくつも散っている。紫原くんが祥吾くんの頭を掴んで、その顔面を机に叩きつけたのだと理解するのに随分かかった。
「制服、汚れちゃったじゃん」
確かに紫原くんの制服の裾には、よく見ると赤黒い染みがついている。けれど、制服の汚れを気にしなければならないのは、顔の下半分を手で覆うようにしながら立ち上がった祥吾くんの方だろう。鼻から血が滴っているのがここからでもわかった。
「アツシ…てめぇッ…!」
怒りで目の色を変えた祥吾くんの怒声を、紫原くんは無視した。彼はまっすぐ私を見ている。首をかしげて、冷たく突き放すように、言った。
「ねぇ、どーすんの?この状況」
本当に、どうしようか。こんな惨憺たる有り様が、嬉しい、なんて。

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