魔が差したのだ、…多分。
いつも狭い箱庭に閉じ込められて、いつも呼吸がし難くて、だから、魔が差したのだと、呆然と理解した。きっとそうして、わたしはわたしを見捨てようとしていたのかもしれない。
だから、そういうことにしておいてくれ。
喉元まで出かかった言葉は、けれど朝、教室に入ってきた岩泉のその切なそうな瞳を見て わたしの中から姿を消した。
… 事の始まりは、昨日の放課後のことだった。
わたしはいつも、放課後は教室に残って勉強をしている。べつに家に帰りたくない理由があるだとか、誰か待ち人がいるだとか、そんな大層な理由はない。ただ、放課後の教室がいちばん落ち着いて勉強できるから…それだけのことである。
数学のワークと向かい合って、今日授業でやったばかりの数式をノートにびしりと書き並べてゆく。この作業は、嫌いじゃない。
そうするうち段々と調子が出てきて、次、また次、ページを捲る手は淀みなく流れてゆく。その感触が好きだった。
やがて、辺りがすっかり暗くなって、そろそろ帰ろうかと伸びをしたとき ガラリ、教室のドアが開いた音。それから、「…あ」低い男子の声。
腕を伸ばしたまま顔だけ後ろへ向けると、そこには部活終わりらしきジャージ姿の、岩泉の姿があった。
「…岩泉、」
「おう。残って勉強か?」
ズンズンとその180近い身長で、一番後ろの――岩泉自身の席へ近づいてゆく。
「まあね、そんなとこ。岩泉は部活終わりでしょ?お疲れ」
「おう、さんきゅ」
どうやら忘れ物をしたらしい、「っし、」机を覗き込んでいた岩泉は教科書を手にして、そんな掛け声と共に立ち上がる。
「それ、数学?」
「おう、明日授業あんの忘れててな」
岩泉の幼馴染、有名人の及川 徹は嫌いだけれど、常に一緒にいる岩泉だけは、どうしても嫌いになれなかった。
「岩泉、」
カバンを肩にかけ、教室を出る準備を済ませる。パチンと電気を消して、ドアの外に律儀に立っている岩泉の名前を呼んだ。
「おう、なん 」
ジャージの襟を掴んで、思い切り引き寄せる。そのままの流れで近付いてきた岩泉の、驚いた顔ったら、もう。
「ッ」
微かに触れた唇は仄かな熱を宿して、わたしは、居た堪れなくなって走り出した。
「ッあ、おい!?」
焦ったような岩泉の声とか、きゅうきゅうと煩い喉元とか、縺れそうになる足とか、全部、全部全部鬱陶しい。
振り払うように走って、走って走って走って漸く唇の感触がなくなった頃 気付けば今日になっていた。
…そうして話は冒頭へ戻る。
だから、魔が、差したのだ。
「なあ」
朝のSHRが終わって、岩泉がわたしの席へとやって来た。やって来て、机に手をついて、わたしの顔を覗き込んだ。
また、喉の辺りが、きゅうとなる。
「い、わいずみ、」
「昨日のアレは、なんだ」
カンカンカンと頭で警報音が鳴り響く。鋭い視線に射抜かれて、身動き一つ取れなくなった。迫り来る何かから逃れるように走り出そうとして、岩泉に手を掴まれていることに初めて気付く。
「怒んねぇから、言って」
優しく丸みを帯びた声。岩泉、こんな声も出せるんだ。いつも及川徹に対して怒鳴っている声ばかり聞いているせいか、なんとなく新鮮だ。
「ま、魔が差した」
「……は?」
怒らないと言ったのに、岩泉はぎゅんっと顔をしかめた。怖い。怖いのだ、この男のことが、ものすごく。
もうすぐ一限の開始のチャイムが鳴るはずなのにざわざわと煩い教室、わたしと岩泉だけ別世界に隔離されたように静か。
暗い海の底に沈んでいくようなそれに、わたしは辛うじて意志を持ちながら、岩泉の真っ直ぐな視線を、真っ直ぐ真正面から見返した。
「お前は、俺のことが好きなのか」
手が震える。ぎゅん、と強い瞳。吸い込まれそうに透明なソレは、岩泉らしいと言えば岩泉らしい。
「そ、そうなのかもしれない」
ああ、心の中で思うほど、現実は優しくない。
「ならそれで十分だろ」
意味のわからない言葉、ぐるぐる回るそれに、わたしはぱちぱち瞬きをして。
ああ、もう、完敗だ。
青い春は平等じゃない