――暇だ。朱肉を押したスタンプの裏側をなぞりながら、ふとそう思った。余分についたそれをなめるように取ってから、ゆうるりと瞑目する。天気は快晴、雲もなだらかに進むいい天気。ちいさな紙っきれのうえに拒否の判子を叩きつけて、真顔でその薄っぺらい紙きれを突き返すくらいには、とてもじゃないが暇で暇でたまらない日和だった。
はあ!?と途端に激昂しだす輩に営業スマイルを張りつけた、能面のような笑顔を返す。(この際笑顔だとか笑顔じゃないってのは関係ない。私は死んだ目で笑っているのだ、きっと)「すみません、にせ物ですよね、こちら」…棒読みなのはいつものことだ。
やがて慌てたように弁明し出す輩は置いておいて、この国のやたら分厚いパンフレットと観光名所が所狭しと並んでいる広告を添えて、てきとうにクリップで挟んでから突き返す。もちろん、にせ物の紙っきれ、もとい自国の入国審査書も忘れない。しかし自身の行動のなにがいけなかったのか、はたまた暴君な輩の癪に触ったのか、今にも噴火してナイフかなにかを取り出しそうな勢いだったもので、ゆっくりと気だるげに瞑目して後ろ手で内線を取り、かけた。こういう危ない奴には一発拳でも奮ってやりたいものではあるが、如何せん自身には力がない。男と女の差はつらいものだ。
じい、と激昂する輩の後ろに立っていた、何人かのグループに凝視される。珍しいことに、本日は二組も訪れる日であったようで、私の暇な日常にささいな香辛料を与えてくれることにはなんら違いがなかった。しかし香辛料といえども言うことも聞かない最低な輩ばかりなので、こうして内線を無言で取ったあと叫ぶ輩の声を聞かせて、あとはただひたすらに待つばかりである。まったく、もう。ふつうに帰ってくれたならば私はなにもする必要はなかったのだ。もちろん、今からやってくるであろう警官やどーでもいいお小言には耳を塞いで我慢するしかないが、こういった胡散臭げで脳みその足りない連中の相手をするのも中々に疲れるのだ。今日は帰ったら、寝よう。うん、そうしよう。
ふああ、とのんきな欠伸が漏れる。それを見てさらに怒りを爆発させる輩――たぶん、海賊だ。そしてそれをさらに見やるうしろの奴等……こいつらも、もしかしなくても海賊だ。だが今まで会ってきたような奴等ではない、どことなく「似た」雰囲気を感じ取ったような気がした。あくまで気がしただけではあるが、それをただ単に勘だけで終わらせてしまうにはどうにも違うような、そう、言うなれば同類ってやつなのかもしれないなあ、とぼんやり思った。入国審査官と海賊なんて、まったく関係ない話ではあるが。
「おら、痛い目見たくなかったらな、さっさとその紙に判子押すんだよ!分かるか、ああ!?」だなんて、案の定ナイフを取り出した罵詈雑言は左から右にスルーしたまま、うしろのもう一組に「次の方、どうぞ」なんて軽く口を開いた。次の方、って、ここは診察室かなにかか。自分で言っておいてすこしだけ笑いそうになった。
ゆるり、と目だけでこっちを見やった二組目の海賊達は、そう言われてから思い出したかのようにポケットから紙を取り出すと、至極適当にぽいとこちら側へ差し出す。その、なんたる適当さ加減。だが見る限りでは用紙は本物のようであったし、女々しく激昂しては脅しにかかる海賊サマよりはるかにましに見えた。
やるせない沈黙が辺りを包む。丁寧に、というわけでもないが、ゆっくりと時間をかけて紙に目をやる。最初のほうの海賊が「へへ…お前らもどうせ突っ返されんだ…」とかなんとか笑っているが、お前は一体なんなんだ。しばらく目を通してからポンとオーケーの意でもって判子を押しつけて、これまたざっくばらんに用紙を返した。すこし判子の位置がずれてしまったが意味などまったくないので気にしない、気にしない。
しかし当たり前のように目をかっ開き、審査書を渡した海賊と私とで目を行ったり来たりさせるこいつは一体なんなのだ。あと一刻もしないうちに王国の兵士達が派遣されてくるはずなので、めんどくさそうな顔を隠しもしないまま「捕まりたくなかったら回れ右して、どうぞ」と付け加えておいた。

◇◇◇◇◇

今日の分の報告書を役員に渡したあと、すっかりと暗くなった島をぶらつきながら食いぶちを頭のなかで数える。夕闇に溶け込んだこの島は相変わらず薄暗く、しかし店の灯りや街灯のせいで眩しかった。はあ、とため息を吐き出してから、すきっ腹のお腹をゆるりと撫でる。自身のみょうな観察眼で宝石商から一転、入国審査官なんていう訳の分からない職にはついたが、やたら滞在する時間が長いうえに給料は最悪。おまけにバブル絶頂期のこの島ときたら、ふつうのご飯ですらバカ高い始末。餓死、なんてありきたりな名目でもって、そこら辺で野垂れ死んでもいまの私にはなんらおかしくはない状態だった。今日も夜行の船で別の島に戻ったあと、やっすい飯を食べてから泊を取るのだ。前にいたところは追い出されてしまったから、しかたがない。
まっこと最悪な状況だ。野蛮な輩達ばかりのここではストレスばかり溜まる一方で、体も疲弊しきっている。腹も空いている。これなら前の宝石商でも続けていればよかったかも知れない、なんて馬鹿なことを考えて、瞑目した。昔はもっと届きもしない夢を追いかけて、地味な努力ばかりしていたというのに。今じゃ地に落ちたも同然であり、きっと昔の自身が見たらこうはなりたくないとさらに努力することだろう。いや、そんな柄だったかな、私は。
はあ、と二度めのため息。ぼんやり歩き続けてしまっていたせいか、島の隅にある酒場まで来ていたようだ。うしろを振り返ってから目線を戻せば、いつぞやか見たはずの海賊達が視界に入った。どうやら宴会でもしているのか、酒を片手に大量の飯を食べている姿が見える。それにぐぎゅる、とお腹が鳴り響いた。実に、羨ましい。既視感を覚えてじい、と見つめれば、とたんに目が合う。心臓が跳ねたような気がして、気まずさに思わず目を逸らした。あの「似た」雰囲気でもって何事もなく島に入り込んだ彼等は、海賊ゆえに財があるのだ、きっと。自身とは違う。
そう思い踵を返そうとすれば、とたんに、そうとたんに、後ろからの衝撃。――きつく手を掴まれて驚く。いつのまに近づいていたのか、振り返れば視界に映る長身の男。帽子を目深に被った、よく見れば隈がひどく目立つ海賊だった。目を真ん丸に見開いてからその男をまじまじと見やる。しんとしたような冷徹な目。まさかこんなことをする奴だとは思っておらず、ひどく困惑する。腕を振り払おうにもキツすぎて抜けなかった。男と女の差。それに眉を潜めたあと、ちらりとその男のそのまた向こう側を見やったが、仲間である彼等はちらちらと視線を寄越すだけで、見て見ぬフリなのかこちらなど見向きもしなかった。余裕。安心感。海賊団のなかでこの男の地位が高いことが容易に頷けて、反応的に気に留めるほどの心配事でもないようだった。降参だ、と軽く左手をあげれば、あれだけきつく握られていた右手が呆気なく解放される。「なんの用ですか?」と尋ねる声音も幾分か拍子抜けしたようなものになった。
海賊……であるはずの、隈がひどい男は、淡々と答える。感情が薄いのか眉ひとつ動かさなかった。かくいう、私も「似た」ようなクチだが、それとはどこか違う既製品にすら見えた。

「お前、ここの審査官やってた奴だろう」
「そうですけど、なにか」
「見覚えがある。……ジョーカー、って言えば分かるか?」
「っ!?」

思わずうしろにきゅっと一歩引いて、くるりと回ってから一目散に逃げ出しそうになった。ジョーカー、その名前を聞いただけで悪寒が走る。昔の話をむりやり引っ張り出して、ないまぜにされたまま嫌いなものだらけの料理として目の前に出される気分だと思った。だが、彼の言葉が追撃する。「安心しろ、俺も同じだ」と至極ふつうに言ってのけるので、ぴたりと足を止める。冷や汗に顔を歪ませながら彼の顔を見やる、も、自身には見覚えも糞もない輩であった。こんな特徴的なやつがいたら分かるものだろうが、如何せん記憶力には自信がない。取り引き先のなかで記憶からいくらも剥がれないのがジョーカーだとしたら、トラウマの近くにいた男なぞすぐに思い出せるというのに。ああ、とくに、ちいさな女の子がいたのは覚えている。紅茶を出してくれて、お礼を言えば嬉しそうに顔を綻ばせる子だった。しかし、こいつは見たことも話したこともない。

「すみませんが、どちら様で?私は会った覚えがありません」
「ああ、お前とは話したこともないからな。お得意様なんて呼ばれてジョーカーとよく取り引きしていただろ」
「……昔の話。ハァ、今じゃ、ああだよ。知ってるはずだろうけど」

同類ならば、とつい砕けた口調になってしまい、愚痴を溢すように指で島の入り口のほうを差す。ついでにため息も溢れ落ちた。さらに空きっ腹だったことも思い出す。伏せた目で拗ねたように突っ立ってしまうのは当たり前であり、長いこと歩いてしまっていたからか足もじんじんとした。だが、気にかけないのか彼が話し始める。せめて同類として話を聞いてやろう、とそんな面持ちで、なかば無理に意識をそっちに向けた。

「俺は遠目からお前を見てた。まあ、いつも色んな奴等がころころ変わってやって来るが、お前は長く取り引きしてただろう、だからだ」
「ああ、なるほど。たしかに、あんないっぱい人がいるとこじゃ一人二人分っかんねぇわ」

唯一覚えてたのもあのちびメイドちゃんだけだったからなあ、と思いつつ返答を返す。そうすればちいさく苦笑を漏らしていた。おや、と軽く目を開いて、こんな顔もするのか、と凝視する。
にやりとした悪どい顔。悪役に相応しいそれに不思議と嫌な気分はしないものだと感じる。しかし口から飛び出した言葉にむっとした。

「……意外と口が悪いんだな」
「悪かったね、粗暴が悪くて」
「いや?逆にあいつの時みたいに、ヘラヘラニコニコした顔を続けられても困り者だがな」
「残念なことにストレス溜まってるのよ、媚びへつらう環境でもないし」
「へえ、給料悪いのか」

そうよ、と朝の入国審査書を渡したときのように、至極適当に返す。興味深そうに笑う彼はだんだんとこちらの反応を伺っているように思えたが、冷たい目線などと言っていたあれは前言撤回、意外とよく笑うようだった。ただし、にやり、であるが。
だが唐突に、海賊であるはずの彼を見て、あれっ、自分ってなんでこんなところで道草食ってんだろうな、なんて思考がよぎった。いくら野蛮で略奪ばかりの海賊といえど、自身より立派な職を全うしているように思えたのだ。もしかしたら彼等だって夢があって、希望があるから海を渡るのかも知れないし――そう考えてしまったら、ふいに羨ましくなった。馬鹿で単純な私だ。それくらい現状が絶望的だからかもしれない。

「………そう、給料、最悪なの。もうお腹もぺこぺこ、明日食べる金も泊まる宿もないし」

そう言った声音は震えていた。これから私はどうやって、この島から抜け出して、またあの時のように夢を追いかけることができるのだろうか。分からない。未来のことなぞひとつも知り得ない。ただそれが、無性に怖くなってしまったのだ。
ちらりと彼の顔を見上げれば、案外深く考え込むような、しかしこちらを値定めするような双眼と目が合う。しばらく見つめ合ったかと思えば(しかし熱いロマンチックなそれとは違う、気まずい沈黙だ)、ゆるりとかぶりを振った。
「自業自得って言いてェところだが、…俺もお前と似た者同士だ、うまい酒くらいは一緒に飲めるだろうな」と、笑う。うまい酒、その言葉につい過剰に反応した。ついでに腹も鳴った。

「!えっ、ほんと?」
「クク、嘘は言わねェよ。ついでにジョーカーが見込んだだけある、お前の話でも聞かせてもらおうか」
「もちろん!ただのしがない宝石商よ、ただしとびっきり目がいい自信だけはあるんだから」
「宝石商、ねェ」

どうやら気に入ったのか、自身を一瞥したあと背中を見せて仲間の元へと歩いていく男。……もしかしなくても、海賊だ。しかし不安や嫌気なんてものはてんでなく、初めて会ったあの時のあの「似た」感覚というものは当たっていたのだと気づいた。
口説く台詞も考えねェとな、と呟いた彼のうしろを着いていきながら、うまい酒のお礼に口説き文句を一緒に考えてあげようと決める。きっと長旅続ける海賊であるし、かわいらしい嬢ちゃんでも欲しがっているに違いないのだ。そしたら、明日からどうするか考えよう。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -