生まれて初めて補食した相手を覚えてる?
新しく知り合った同族には、こう尋ねるようにしている。あなたが最初に人間に対して自ずから牙を剥いたのはいつですか、と。深い意味はない。感覚としては初恋やファーストキスについて訊くのと同じようなかんじ。覚えていない、と返されることが多い。笑って誤魔化されることもある。年齢の早さを自慢されることもあれば、この質問に対して無礼だと怒る者もいた。
「…お前はどうなんだよ?」
ニシキは少しの間考える素振りを見せた後、そう返してきた。覚えていなかったのだろう。ニシキとの付き合いは、彼の姉や私の両親がまだ生きていた頃からのものなので、もう随分と長い筈だが、私にとって最早お馴染みになったこの質問を投げ掛けたのはこれが初めてのことだった。出逢った頃の私たちは物心さえついていなかったので。
「覚えてるよ」
私は記憶を手繰り寄せる為に軽く目を瞑った。近所に住んでいた同じ年頃の女の子。こうすればいつでもあの娘の姿を思い描くことができる。長い睫毛が印象的なコケティッシュな顔立ちをしていたのに、男の子みたいに短い髪をしていた。子供特有のつるんとした細い頸。仄かに汗ばんだその窪みに、私は牙を立てたのだ。
「大騒ぎになったから」
確か、あの娘は行方不明として扱われたんじゃなかったかしら。誘拐や事故、果ては家出なんて憶測も出たけれど、不自然なことに、大人たちは誰も喰種に襲われたとは言わなかった。それが事実であり、最も有り得そうなことなのに。街角に潜む怪物の名前は禁句であるかのように、誰も口にしようとしなかった。そしてそのことが奇妙な諦観を醸し出していた。
残さずに食べなさい、と。母は私に厳命した。腹を減らしすぎて本能のままに人間を襲った娘に対する、彼女なりの不器用な優しさだった。結果的に、私はその言いつけを守れなかった訳だけど。
「そりゃ、なるだろ…つーか、呑気に駄弁ってる場合じゃねえだろうが」
私の追想を、ニシキは赫眼を剥くことで打ち破る。私は足元の血溜まりを見て、曖昧に首を傾げた。
一応、密集した建物と建物の間ではあるから、発見され難くはあるかもしれない。こんなところ、野良猫くらいしか通らないだろうから、運が良ければ二、三週間このままかも。でも、多分それ以上は無理だ。人間は異常に敏感な生き物だし、血痕も肉片も誰かが片付けない限り無くならない。さっき此処で喰われたのはサラリーマンのようだったから、家族なり同僚なり…いずれ誰かが彼の不在に気付くだろう。ものの数分で遺品と呼ばれることになってしまった書類ケースが恨めしそうに此方を見ている。
「この散らかし具合を見ればテメェの仕業じゃないことくらいわかる」
ニシキは偉そうに顎で惨状を示した。ご名答。ニシキがそのまま横を抜けて行ってしまおうとするので、私は彼の手を掴んで引きとめるはめになった。
「仲良くしようよ、ニシキぃ」
そう言って茶化してみたが、ニシキは嫌そうに眉根を寄せるだけだった。上手いこと手を繋ぐようなかたちになった左手は、せっかくだからその儘にしておく。
「誰がテメェなんかと」
憎まれ口を叩きながらも、私の手を振りほどいたりはしない彼の手を、信愛を込めて握ってみる。牽制と捉えたらしいニシキがこちらを睨み付けてくるのを、私は愉快な気持ちで見詰めていた。
「ここは俺の喰場だ」
底冷えするような、低い声。混凝土の上で乾いていく血の臭いが、いやに淀んだ空気に溶けて漂う。
「そう?私はリゼの喰場だって、リゼ本人からきいたけど…」
私は近所に越してきた、あまり友好的ではない同胞の美貌を思い出しながら言った。敵を作り易いあの娘。喰種の見本みたいな残虐性を秘めた麗しい怪物。冒頭の問い掛けに、リゼは「覚えているわ」と答えた。それは酷く「愛しているわ」に似た響きで、要するに甘ったるく耳朶に染みた。
私の挑発に乗ったニシキが、その名前すらも厭わしいと言わんばかりに牙を向こうとしたので、私は宥めるために、空いた方の手で彼の肩から二の腕にかけてを撫でた。私はこの近辺の覇権が誰にあるのかについて、あまり興味がないのだ。自分のものか、そうでなければすべからく他人のものである、シンプルな思想を売りにしているもので。
「ね、もう私がしくじったってことでいいでしょ?」
半分くらいは本音だ。この地区で生まれ育った私は、郷愁に駈られてよく散歩に出る。記憶とは随分と変わってしまった思い出の場所を、まるでそれ自体が義務であるかのように決まった順序で巡っていく。狩りの現場に居合わせたのは、ただの偶然だった。
「謝るから、許してよ」
私は許されるのが自分にくだされた当然の権利であるかのような傲慢さで主張した。ニシキは呆れたようだったが、最初からそれが狙いだ。
私が通りすがった時、まだ襲われている男性には息があるようだった。喉元に噛みつかれながらも、助けをもとめるように片腕が虚空をさ迷っていた。雲ひとつない快晴の下にあって、その蛮行の現場だけがマンションの影中に沈んでいた。命懸けで抵抗する男に乗しかかり、血肉を撒き散らしながらこちらも死にもの狂いで文字通り食らいついているのはまだ十歳にも満たないであろう少年である。遠目には子供が大人に甘えているようにも見えた。獲物の体液と土埃で汚れていることを差し引いても、少年の身形はお世辞にも良いとは言えなかった。少し近付いただけで、小児特有のすっぱい汗の臭いがした。不自然に乱れた、ほつれて固まった髪。見るからににちゃついた皮膚。親を失った子供の喰種だということは一目瞭然だった。
しばらく夢中で肉を貪る少年を観察していたら、その内に相手も私に気が付いた。怯えた眼を私に向けながらも、肉を千切る手は止まらない。概ね下半身だけになった男の太股あたりから、覗く骨の存外に白いこと。
「生まれて初めて補食した相手を覚えてる?」
新しく知り合った喰種には、これを尋ねるのがマイルールである。相手が子供でも例外はない。私が喋り掛けてきたことで、敵ではないと判断したのか、それともその逆か。少年は乾いた唇を歪めて、精一杯媚びるような表情を浮かべた。
「ほしょく?」
私が見積もっていたよりも幼いのかもしれないと思わせる、舌ったらずな喋り方。私は彼に近付いて、その姿をよく見ようと思いついたけれど、靴底が汚れそうなのでやめておいた。
「狩りをして、食べるってこと…ほら、丁度君が今やってるやつ」
指をさして教えてあげながらも、私は油断することなく周囲に気を配っていた。目撃者は勿論、私が一番警戒していたのは、此処を自分の縄張りだと主張して憚らない同種、要するにリゼかニシキの存在だった。彼等は私ほど、この子供に優しくないだろうから。
「それなら、これがはじめてだよ」
少年は何故か誇らしげに胸を張った。アニメのキャラクターが書いてあるTシャツはすっかり変色していた。
私は今日まで人を狩ることなく、親の庇護の元で暮らしていたにも関わらず、理不尽にそれを奪われたであろうこの少年に不思議な縁を感じていた。今日のことを、この子供は忘れないのではないか。大人になるまで繰り返し繰り返し思い出すのではないか。そんな気がしたのだ。そして、その感覚は年長者として私にほんの少しのお節介を焼かせるには十分過ぎるものだった。私はこの子供と出会ったことを相手がリゼだろうがニシキだろうが隠し通すと心に決めて、その垢染みた背中を見送ったのだった。
「お前に謝られたからって何?何か得すんの?」
こちらを小馬鹿にした表情を浮かべるニシキを、さて、どうしてくれようか。どちらともなく離すタイミングを見失って、繋がれたままの手。こうしていると安心できるのはぬくもりだとかそんな他愛もない理由じゃなくて、どちらかが物理的に攻撃をしようと思ったら変な具合に力むのですぐにそれと知れるから、だ。
「小さい頃、このマンション無かったんだよ」
ニシキの手を引いて、歩きだす。悪い冗談みたいな血溜まりから距離を取るのは、もうこの件は終わりにしましょうね、という端的な意思表示だ。
「そーだっけ?」
当時の私はよくここの空き地で遊んでいたけれど、ニシキにとっては馴染みの場所ではなかったらしく、腑に落ちないというようにまじまじとマンションの白い壁を眺めている。建築から十年以上の歳月が流れている建物に真新しさは皆無だ。
「ここの空き地に宝物を埋めたの」
私は再び目を伏せる。お気に入りの水色のハンカチに包んだ、小さな欠片。硬くてみずみずしくて、怖いくらいだった。「残さずに食べなさい」と言われていたから、飲み込んでしまわないように注意しながら、口の中に隠しておいたことを覚えている。
「気が付いたらこれが建ってて、掘り出せなくなっちゃった」
土に返した方がいいことは疑いようもないけれど。
「馬鹿じゃねーの」
ニシキはもうあの惨状のことは自分とは関係のないこととして割りきって、機嫌を直したようだった。口は悪いが、粘着質ではないのは彼の美点。
「本当にねぇ」
あの娘は私が喰種であることを知っていた。秘密を共有することで、友情を永遠たらしめることが出来ると信じた私が自分からばらしたのだ。そして、幼い子供がその実態を知らぬが故に残酷な行為に身を窶す常で、彼女は私の耳元で甘く囁いたのだ。「わたしのこと、たべていいよ」って。
「それで、何埋めたの?」
「え?」
「宝物っていうくらいだから、大事なモンだったんじゃねぇの?」
目を開けたら、意外なほど近くにニシキの顔があった。誰かとこんなに長い間手を繋いでいるなんて、それこそあの娘とここで別れて以来じゃないだろうか。それを意識すると急に胸が苦しくなった。
「さぁ?…何だったかな、もう忘れちゃったよ」
肉は食い尽くし血は飲み干したというのに、どうしても最後の一欠片を嚥下することが出来なかったあの日の私の弱さを愛しく思い出す。口の中に残っていた白い塊。もう二度とこの手にかえることなく朽ち果てていくあれは、もしかしたら誰もがいずれ失っていく「こころ」というものと同義なのかもしれない。

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