天地万海


本編



「眠ったか。」

洞窟で、すうすうと規則正しい寝息を立てている集嶺と碧羽。二人を交互に眺めて、烏はうんうんと頷く。
年頃の子どもは、早寝早起きが一番だ。そして適度な食事。
そうしないと、背が伸びないからな。

「確か、集嶺はもう、十七であったか。」

聞けば、碧羽も齢は十七であると聞く。
この世では、十八になれば大人の仲間入りとなる。それを踏まえれば、もうすぐ大人となる今頃に、旅をしておくのは決して損ではない。
真剣に世界を憂い、兄を探そうとする碧羽には申し訳ないけれど、この件は、集嶺の成長にも結び付く、云わばチャンスというものであった。

「旅か。うん。旅は、いい。」

独り言を、烏は何度も一人で頷きながら呟く。

「旅はいい。とてもいい。色々なものを見るというのは、経験になるからな。俺も十八の時に、旅に出たものだ。」

まあ、旅というよりは、大規模な家出であったけれど。と、烏は呟く。

「――。」

そして、眠っている碧羽のすぐ横に備えられている、一方に傾いた、小さな天秤をちらりと目にやった。
こうしている間にも、金色の砂は擦り減り、黒い砂の量が増える。そして、ガコ、と、音を立てて天秤は再び傾いた。
傾きは浅い。微々たる変化だ。
しかし。

「む。」

ゴゴ、と、山が小さく揺れる。地震だろうか、と烏は顔をあげたけれども、逆を言えばそれだけで、すぐに揺れは収まった。
あまりにも小さな揺れ。小さな変化。
故に、未熟な巫女と世間知らずの少年は、そのような変化に気付くことなくすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
屈んで、両太ももに肘を乗せ、その手のひらに頬を乗せる。そんな体勢で、烏は二人を見つめる。
その姿が少し羨ましくて、烏は寝顔を眺めて、微笑んだ。

「極力、楽しい旅にしてみせよう。なあに、俺がついている。大船に乗ってくれたまえ。」

眠っている二人からの返事はなく、穏やかな寝息だけが、返って来た。


第五話 出発


ぴちょん。ぴちょん。と、水滴の滴る音を聞きながら、碧羽はゆっくりと目を開けた。
視界に広がる天上は相変わらずゴツゴツとした黒い岩々で、藁を敷いてシーツを乗せただけの布団は少し硬かったけれど、それでも不思議とぐっすり眠れたような気がする。
ゆっくりと身体を起こしてきょろきょろと辺りを見回すと、集嶺たちが見当たらない。
何処へ行ったのだろう。
そう思っていると、洞窟の外から、わいわいと、何か話し声のようなものが聞こえた。
膝をついて立ち上がり、そろそろと洞窟の入り口へと向かう。
入口からは光が差し込んでいて、すでに日は登っているのだと、空は明るいのだと、暗に伝えていた。

「こら。やめろ、くすぐったい。」

それは、集嶺の声だ。
洞窟の外に顔を出してみると、外は、緑色の平地が広がっていた。
風が吹けばざわざわと海が波打つように緑色の草が揺れる。空はまだ真っ白で、それを照らす太陽の位置が水平線に近いことから、まだ夜は明けたばかりなのだろう。
洞窟のすぐそばには、大きな生き物がいた。
毛むくじゃらで、薄く青みがかった銀色のそれは、まるで狼を彷彿とさせる。
しかし、狼と呼ぶにはその体躯はあまりに大きく、大きさは大人の馬に近い。人を二人程度であれば、容易く載せて走り回ることができるだろう。
その頭部から、鹿を連想させる頭部が生えており、この生き物は、普通の生物とは異なるものである。ということだけは、わかった。
集嶺の手にはブラシが握られていて、どうやらこの生き物にブラッシングをしていたらしい。慣れた手つきであることから、それが日課なのだろう。
大きな顔を集嶺の頬に寄せて、すり寄っている、甘えるようなその仕草から、いかにこの生き物が、集嶺に懐いていることか。

「起きたか。」

じっと見つめていると、碧羽の視線に気付いた集嶺が微笑む。
穏やかで、温かなそれを見て少し顔を熱くしながら、碧羽は何度も首を縦に振った。
そんな碧羽の行動がおかしかったのだろう。集嶺は、はは、と声に出して笑って見せた。
笑った顔は年相応の少年で、昨日のやけに大人びた喋り方をする彼とは少しギャップを感じてしまう。

「来てみろ。」

集嶺が手招きするので、近付く。
獣も碧羽の存在に気付いたのか、碧羽を見つめて、ぐう、と、小さく鳴いた。
銀色の毛から見える青い瞳は、その瞳にすっぽりと空を閉じ込めてしまったかのようで。
触れて良い、と集嶺が言ってくれるので、恐る恐る手を伸ばす。大きな顔。口も大きくて、きっと、ぱっくりと口を開ければ、食べられてしまいそう。
けれどその生き物は、集嶺にしてくれたのと同じように、鼻先を碧羽の頬にすりすりと寄せた。
鼻は少し湿っていて、くすぐったい。確かにこれは、集嶺も思わず笑ってしまうだろう。
そっと顎の下に手を寄せて、触れている。毛並みはふわふわ柔らかくて、温かくて、それでいて上品な艶もあった。
こんなコートがあったらきっと、温かいだろうなあ。とか、ちょっと思ってしまったり。

「名前、あるの?」

碧羽が問いかければ、集嶺は頷く。

「ベルクだ。山で拾ったから、ベルク。」
「拾った?」
「その頃は小型犬並みに小さかったし、角も小さかったんだが、気付いたらここまで大きくなっていた。」

そうなんだ、と碧羽は呟いて、ベルクを撫でる。
あっという間に碧羽に懐いたのか、ベルクは撫でられると、ぐうう、と、また気持ちよさそうに鳴いた。
目はうっとりと細められていて、まんざらではなさそうである。
こんな短期間に仲良くなってしまうとは、集嶺としては、羨ましい気持ち半分と、安心半分であった。

「ベルクが懐いてくれてよかった。これからの旅に、こいつは欠かせないからな。」
「え?」

碧羽が首を傾げようとした瞬間、よいしょと言って集嶺はベルクの上に跨る。
手綱もなく、軽々と乗った彼は、成程、何年も一緒にいて、手馴れているのだろうと思う。
呆然と見つめていると、碧羽に手が差し出された。

「山を歩いて下るのは危険だからな。馬ほどじゃないが、乗り心地は保障する。」

つまり、乗れということだ。
碧羽は生まれてから一度も、動物に跨ったことがない。馬にすら、だ。
だから不安であった。果たして自分に乗れるだろうか、と。

「大丈夫だ。」

そう断言する集嶺は、穏やかに、しかし自信満々に、碧羽に微笑んだ。

「お前が落ちそうな時は俺が支える。俺が守ろう。だから、安心して、俺とベルクに身を預けてくれ。」

集嶺がそう言って。笑うから。
碧羽は迷いを放り出して、手を伸ばした。細く白い手を、集嶺の少し陽に焼けた、健康的な手が掴む。
集嶺がぐい、と碧羽の身体を引き寄せるように持ち上げると、まるで一瞬、背中に羽根が生えたのではないかと錯覚するかのように、ふわりと身体が浮かんだ。
僅かな浮遊感に、胸が高鳴る。
浮かび上がった身体は、そのままベルクの背に座るように、集嶺の目の前に身を置いた。

「きちんと、掴まっていろよ。」
「は、はい。あの、えっと……そういえば、烏さん、は。」
「ちゃんといるぞ。」

頭上から聞こえた声に、はっと碧羽は顔をあげる。
そこには、腰に荷袋をぶら下げて、空中でぴたりと立ち止まっている集嶺の姿があった。
まるでそこにだけ、見えない床があるように、彼はそこに立っている。けれど、当然だが、そこに見えない床なんてない。

「浮いてる……?」

浮いている。そう、浮いているのだ。
驚いている碧羽が愉快だったのか、烏は楽しそうに笑う。

「うん、うん、いいな。いい。集嶺は反応がありきたりと言うか、うん。慣れてしまっていたからな。こうして驚かれるのは新鮮でいいぞ。」
「烏。あまり人を驚かせるな。」
「いやいや、すまんすまん。」

そう言って、烏は浮かべていた身体を少し下ろして、集嶺と碧羽に目線を合わせる。
碧羽は驚いた顔のまま、目をぱちくりと丸くさせた。

「烏は、こういう奴なんだ。原理はわからないけど、まあ、きっとついて来てくれるから、気にしないでくれ。」
「え、ええ……」

大昔、妖や精霊と呼ばれる者がいた頃は、空をふわふわと飛ぶことの出来る者もいたという。
もし、この烏という男が、空の民のように、そういった類の存在を子孫に持つ人間であれば、多少の不思議な行動はあっても、おかしくはない。
うんうんと、そう、碧羽は自分を納得させていた。

「さて。碧羽はこれから見たことのない世界の旅だ。集嶺もそうだろう。大変だろうしキツいだろうけれど。まあ、なんとかなるさ。」

ふわり、ふわり。
浮かびながら、烏は得意げに、話している。まるで大冒険家の先輩の如く。

「旅はいいものだ。使命とか目的とか、まあ、重要なものがまず重要であるだろうが。それでもあえて言おう。楽しみたまえ。」

少なくとも、碧羽にとって、この度は決して楽しんで良いものではない。
何故なら彼女にとって、これは世界の存続が関わっているかもしれない、大事な旅なのだから。
でも、烏が碧羽を慮って言ってくれている。ということはわかったので。

「はい。」

と、はっきり頷いてみせた。

「よろしい。」

烏が笑う。無邪気な少女、無垢な少年を彷彿とさせる、中性的な笑み。
烏がまた少し高い位置へと浮かぶと、顔をあげた際に、集嶺と碧羽の目線があった。

「改めて言うが。しっかりつかまれよ。」
「はい。」

ベルクの首回りに手を添える。そんな彼女の身体を抱えるように、守るように、集嶺は少し、前へ屈んだ。

「行くぞ。」

その声と共に、ベルクが吼える。
それと共に、視界に映る景色が変わっていく。走っているのだ。ベルクが。風を切って走るから、ごうごうと耳に風の音が入り込む。
緑の絨毯が敷かれた平地が、木々の生い茂る森へと入っていく。
くるくると変わる景色に、自然と、碧羽の鼓動は高鳴った。

これから、旅が始まる。
不安と期待が入り混じる中、また、景色はくるりと色を変えていったのだった。

 


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