微笑みながら「秘密だ」といった涼野さんが忘れられない、という少女マンガじみたことも別になく、気がついたらあの日から一週間経っていた。カレーに入れるためのにんじんを切りながら、わたしはうーんと首をかしげる。家で出来てノートを使う仕事、ってなんだろう。画家とか?でも涼野さんのノートは絵よりも文字の洪水で、となるとやっぱり……?

「いったあ!!」

 ぼんやりと考え事をしながら料理していた罰か、人差し指をさくっと切ってしまった。一人暮らしを始めて大分経つものの、この自炊ってのがなかなか難しく、朝昼晩三食ご飯を作ってくれていたお母さんのすごさを、改めて思い知った。最近ではお弁当も手抜き気味だし、これじゃいけない、なんて思ったのが間違いだったかもしれない。水道水で傷口を洗いながら、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。涼野さんについてあれこれ考えていたからこんなことになるんだ。なんか腹立つな。

「さっさと作っちゃお」

 独り言にしては大きな声で呟いて、わたしはざかざか鍋に材料を入れてカレー作りを再開するのだった。





 その日は一日ハードスケジュールで、バイトが終わったのは深夜零時を少し回ったくらい。うっとりするような可愛い顔でもはっと目を引くような綺麗な顔でもないけれど、一応麗しき女子大生としては、夜道を一人で歩くのは怖い。使い古したヒールの低いパンプスをはいた足を急がせアパートが見えてきた時、控えめなライトの下に見慣れない男性が立っていることに気付いた。

「短編集を作ることになったから!」

 少しよれたスーツの上着はだらしなく腕に引っかかっていて、ワイシャツはくるくるとまくられている。おお、わたし好みの腕かもしれない。遠目からではよく見えないものの、なかなか鍛えているんだなあ、ということがよくわかる。
 電話中らしく、携帯電話を右肩と耳の間に器用に挟みながら、手元の手帳っぽいものを慌ただしくめくりつつ、まくしたてるように何かをしゃべっていた。「とりあえず開けろよ」イライラした表情が伺えるまで距離が近づいた時、なんとも間抜けな音を立ててガラス扉が開いた。

「何個か書き下ろしも入れるから」

 わがアパートは、セキュリティーが万全であることを売りにしている。ああして扉が開いたということはきっと、チューリップみたいな赤い頭をしたあのひとは誰かの知り合いに違いない。管理人さんの手を煩わせるのも悪いので、その後ろに続いて扉が閉まる前に身体を滑り込ませた。

「おい、聞いてんのか?先生!!」

 先生、という単語をやけに強調させながら、荒々しく階段を上っていく男のひと。どうやらわたしのことなんて微塵も視界に入っていないらしく、ひたすら携帯電話の向こうにいるだろう人物に話しかけている。そろそろ、何時だと思ってるんだ、と注意した方がいいんだろうかと思案しだした時、そのひとはスピードを落として廊下をまっすぐに進むと、ぴたりと誰かの部屋の前で足を止めた。壊れてしまうんじゃと心配になるくらい強く電源ボタンを押したのを見て、ちょっとびびったわたしはそれ以上階段を上るのをやめて息をひそめた。なにあのひと元ヤンなの?こええー!

「ったく……」

 悪態をつきながらインターフォンを押して、玄関から覗いたのはあの涼しげな色をした特徴的な頭である。「っ?!」思わず口から声が漏れるのを慌てて抑え込むと、二人はわたしに気づいた様子もなくさっさと部屋の中へ入っていった。





「なんだったんだろう、あれ」

 これでもかというほどにゴミ袋の口を縛りつけながら、昨夜見た光景を思い出す。類は友を呼ぶというのを地でいく感じがした。髪型的な意味で。「よい、しょっと」すっかりデフォルトになった独り言に構う気もなく、わたしはゴミ捨て場へと向かうべく、玄関を開けた。ら。

「あ」
「……ああ、君か。おはよう」
「おはようございます」
「…………」
「…………」

 同じくゴミ袋を手にした涼野さんと鉢合わせた。き、気まずい……!お互い特に仲良くもない間柄なので、気まずいことこの上ない。しかも起きて間もないわたしはメイクはおろか眉毛すらないんですが。慌てておでこに手をやろうとするも、別に涼野さん相手にそんなことをする必要がないじゃんと思い直し、結局ぺこっと会釈するにとどめた。

「君もゴミ捨てかい?」
「あ、はい」
「奇遇だな」
「そうですね」

 ていうか涼野さんってちゃんとゴミ捨てとかするんですね、とは言えなかった。なんとなーく一緒にゴミ捨て場に行く雰囲気になったようで、なんとなーく並んでエレベーターを待ち、なんとなーく二人で歩く。もちろんずっと無言である。なんの罰ゲームだよこれは。ちらりととなりを盗み見れば袋の中はカップヌードルとアイスの箱ばかりで、救急車を呼ぶ覚悟をしておこう、と思った。

「…………」
「…………」
「ゴミ捨て場、見えましたね」
「うん」
「捨てましょうか」
「そうだな」

 そうしてそそくさとゴミを捨てて、それぞれの部屋の前に戻ってきた。もう一刻も早くこの雰囲気から抜け出したかった。なんでわたしが気を使わないといけないんだいやそんなに使ってないですけれども!なんとなくふてくされながらドアノブに手を伸ばして、そこではたと気が付く。このまま無言で部屋に入ってしまえば、めちゃめちゃ礼儀のなってないヤツみたいじゃないか。それこそ初日の涼野さんのようだ。二秒だけ迷った挙句、わたしはドアノブから手を放して涼野さんに向き直った。

「それじゃあ、わたしは学校があるので」
「ふうん」
「失礼します……」
「行ってらっしゃい」

 行ってらっしゃい?!涼野さんの口からそんな言葉が聞けるとは思ってもおらず、自分の耳を疑ったものの、その言葉は間違いなく涼野さんの口から、涼野さんの声で、涼野さん自らが発したものだ。ちゃんとそういうことも言えるんだな、と感動しているわたしをよそに、涼野さんはいつも通り無表情でとっとと部屋に戻っていった。早すぎだろ。

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