「苗字さん、3卓さんのオーダー取りに行って」
「はーい」

 チーフに言われ、休憩室から顔を出す。3卓は死角になっているから、ここからは見えない。平日の2時過ぎなんて混んでいるわけもなく、今いるお客さんはお昼時から居座っている主婦の集団と、大学生らしきカップルが一組。ここはあまり大きな店舗でもないから人の出入りもゆるやかで、お昼と夕方以外は大抵空いているのだ。こういうゆるさが、なんだかんだでもう三年もここで働き続けている理由である。

「ご注文うけたまわ…あ」
「…こんにちは」
「こ、こんにちは」

 驚いた。オーダーを取ろうとしてポケットからハンディターミナルを取りだし顔をあげたら、目を見開いた凉野さんが一人でボックス席に座っていた。この人が表情を変えているところを初めてみた気がする。会うときはいつも、眠そうな顔かすこし不機嫌そうな顔をしているばかりだったから。きっと表情の乏しい人なのだろう。

「アルバイトかい?」

 ふと無表情に戻った凉野さんは、無感情にそう尋ねた。本当にそれを疑問に思って口に出したのかと不思議に思ってしまうくらい、心底興味のなさそうな声音だった。そういえばこの人、出会い頭からこんな調子だったな。つくづく損な話し方をする人だ。

「はい。ここ大学から近いので」
「そうか。そういえばうちのマンションからも近いな」
「涼野さんはここによく来るんですか?」
「まあ。たまには外に出ることもいい刺激になるからね」

 刺激?家にひきこもってばかりではいけないということだろうか。だとしたらその心がけ、とてもよいと思います。…なんというか最近、凉野さん="ろくに外出もせず家の中にひきこもってばかりいる"というイメージがわたしの中で定着しつつあるので、この人が外界と接触しているところをみると、なぜか我が子を思う母親のような妙な心境になってしまう。
 テーブルには空になったコーヒーカップとなぜか大学ノートが置いてあって、そこから凉野さんは結構前からここにいたということが読みとれた。いつからいたんだろう。今日は11時から入っているけど、まったく気が付かなかった。

「えっと、ご注文は」
「ん、ああ。コーヒーおかわり。それとからあげ定食」
「(お昼まだだったのか…)かしこまりました。ご注文を繰り返させていただきます」

 マニュアルどおりの言葉を口にして、ハンディの蓋をぱちんと閉めた。なにか話をするべきなのかと迷ったけれど、結局何も言わずにスタッフルームへ戻る。この人とわたしがそこまでするほどの仲なのかと聞かれたら、正直首を傾げてしまうからだ。凉野さんはあまり人付き合いが好きそうに見えないし、ここで下手に話しかけたらかえって迷惑かもしれない。話題だって特に思い付かないし。この間の彼女疑惑の真相でも確かめてみようか。…いや、いきなり「そういえば、彼女いたんですね」なんて、いくらわたしでもそこまで図々しくは突っ込めない。

 そんなことを考えているうちにからあげ定食はできあがって、コーヒーと共にわたしが持っていくことになった。今ホールにはわたしとチーフしかいないから、当然といえば当然である。けれど、そこまで親しくないおとなりさんにふたたび会いに行くのはなんだか気恥ずかしい。しかたない、これは仕事なのだから。気持ちを割りきってお盆を運ぶ。
 わたしがからあげ定食とコーヒーを持っていくと、凉野さんは、さっきは放ってあった大学ノートに、真面目な顔をして何かを書き込んでいた。使い古された大学ノートには細かな文字がびっしり書き綴られていて、ときどき上から二重線で消されている部分があったり、ひとつの単語がぐるぐると濃い丸で囲まれていたりと、かなり書きこまれているようだった。そして、その黒で塗りつぶされたノートのまだきれいな部分を、凉野さんは殴り書きのような早さでさらに黒く塗りつぶしていく。思わず声をかけるのをためらうくらい、真剣な横顔だった。

「…苗字さん?」

 名前を呼ばれてはっと我にかえる。気付けば凉野さんはもう手を止めてこちらをみていた。慌てて料理をテーブルに並べる。

「あー、すいません」

 へらりと笑いながらコーヒーとからあげ定食をテーブルの上に置いた。すると、なぜかわたしの顔を凝視している涼野さんと目が合う。

「な、なにか?」
「…いや、なんでもない」

 そのまま、ふい、と視線を逸らした涼野さんは、ひとり長考に入ってしまった。…一体なんだというんだろう。その一連の行動をわたしが不思議に思っている間に、涼野さんは今度はそらした視線を自分のおなかに向け、ちいさく首をかしげる。…次はなんなの。最近ちょっと腹の肉が肥えてきたな…とか?からあげ定食を頼んだことを密かに後悔しているのだろうか。もしそうだったらすこしかわいいけれど、訊きかえしていいのか正直よくわからない。わざわざそんなことする必要もないし、なによりめんどくさい。眉間に皺を寄せ、考え事をしているのか怒っているのかいまいちよくわからない涼野さんは、それ以上声をかけてほしくなさそうでもあった。しかし、気になることがまだひとつだけ残っている。テーブルの端に置かれたままの大学ノートだ。割り箸を割ってさっそくからあげに手を伸ばそうとしている涼野さんには悪いが、すごく気になる。とうとうたまらなくなって、わたしはずっと胸に渦巻いていた質問を投げかけた。

「あの、なにしてたんですか?」

 大学ノートに視線をうつして、それ、とあごで指し示す。わたしの目線の先を感じ取った涼野さんは箸を止め、ああ、と納得したように呟いてからノートをすくい上げ、「仕事だ」と答えた。仕事?自宅警備員ではなく?

「なんのお仕事ですか?」

 新たに浮かんだ疑問を思わず口にする。もしかして、これでようやく涼野さんのニートの疑いが晴れるのだろうか。密かに期待をして返事を待っていると、涼野さんは「これは…」といったん何かを言いかけてから口を噤み、すこし考えるような素振りをみせてから楽しそうな笑みを浮かべてこちらを見上げた。

「秘密だ」

 …あ、この人、こんな顔もできるんじゃん。意外とかわいいところもあるんだ。
 涼野さんのいろんな表情が見れた今日この頃、ついでにガチニート説にもようやく否定要素がみつかり、わたしの一人暮らしも広い意味で順風満帆だ。でも、家で出来てノートを使う仕事って、一体なんだろう。

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