「卵がない」
涼野さんのイメージが少しいい方に向かい、一人暮らしにもだいぶ慣れてきた。ちょっと凝った料理を始めてみたりおとなりに気を使いながらも友達と飲みながらお喋りしたり、そんな感じで楽しい毎日を送っていたとある晴れた日の夕暮れ時のことである。冷蔵庫を開けてみたら、卵がなかった。唖然。よく見てみれば、お米やミネラルウォーター、ソーセージなんかも残りわずかになっている。食費節約のためにお弁当を作っているわたしとしては、これは大変に由々しき事態だ。
という訳で、近所にあるスーパーにこうして足を運んでいるのだった。カートを押しながらスーパーの中をうろちょろさ迷う。卵とお米とソーセージの他にも、食パンやらジャムやらお豆腐玉ねぎじゃがいもニンジン鶏肉、とりあえず必要そうなものをぽんぽんとカゴに入れ込む。もちろん、一番安いものを選りすぐってだ。給料日まであと一週間もあるんだし、ちょっと贅沢してみようかな〜なんて考えたらたちまち恐ろしいことになってしまう。
今日の夜はオムライスでも作ろうか。カゴに並ぶ食材たちを見下ろしながら、頭の中で一通り手順を思い浮かべる。せっかくだから、ケチャップでなにか書くのもいいかもしれない。女子力が3くらい上がりそうだなあ。
「あとは……」
と一人呟いたところで、はっと我に帰る。わたし今、ものすごくナチュラルに独り言を口にしていた。一人暮らしを始めると独り言が多くなるって本当なんだ、そう言えばバラエティー番組を見てる時なんか普通に笑ってるし、テレビにツッコミを入れたこともあった気がする。そんなちょっと切ないことを考えつつ、レジへと足を運ぶ。
その途中で、見てしまった。驚くほど似合わない買い物カゴに、たくさんのカップ麺を詰め込んだ隣人──涼野さんを。なにかを一生懸命見つめて思案している様子だった。あまりの似合わなさに思わず口端がひきつるが、すんでのところで自分を叱咤しどうにか抑える。そうだよね涼野さんだって人間なんだもんね生きてるんだもんね多分一人暮らしなんだもんねそりゃスーパーくらい来るよね。……。ぶふっ、と口から息が漏れた。わたしも大概失礼なやつである。
なんとなく気づかれないように、ただの客Aを装って涼野さんの後ろをゆっくりめに通る。声をかけるほど親しくはないが、ほんの少しだけ彼がなにをそんな真剣な目で見つめているのか興味をそそったのだ。ちらりと涼野さんのカゴの中身を見やると、本当にカップ麺ばかりが並んでいて、いよいよ自宅警備員説が真実味を帯びてきた。ご飯を作ってくれる彼女もいないんだろうか。第一印象の涼野さんだったならそりゃそうだと思ってしまうけれど、セカンドコンタクトの時はわりと普通な人だったから、可哀想にと同情してしまう。そういうわたしだって今彼氏いないんですが。
「やはりこちらの方が……」
「……」
「いや、いっそどれも買ってしまうか」
なにやらぶつぶつと呟きながら彼が熱い視線を送っているのは、箱に入ったアイスクリームたちだった。ソーダ味と、フルーツ味と、バニラ、チョコレートヨーグルト抹茶エトセトラ。「……よし、全部買うか」その言葉に驚いて芸術的な髪型をした後ろ頭を省みれば、いそいそと冷たい空気の中へと手を伸ばしている。本当に大丈夫なのかこのひと。一人で生きていけるの?女子大生凌辱の可能性は低くなったけれど、今度は栄養失調で倒れて新聞に二十代男性孤独死なんて取り上げられてそうだよ?冗談抜きでなく!
「場所が足りない」
カップ麺とアイスクリームで一杯になった買い物カゴを見下ろしながら、ぼそりと涼野さんが呟く。駄目だ、もうこれ以上見てられない。もしも一ヶ月以上おとなりから生きた気配がしなかったら、その時は救急車を呼んであげよう。そう決意をしながら、わたしはレジへと歩みを進めた。これが無駄な決意になることを祈るばかりである。
運動がてら三階の自分の部屋まで階段で上る。調子に乗って買いすぎてしまったなあ、と一人重い荷物をえっちらおっちら運びながらちょっとだけ後悔しても、まあ買ってしまったことは仕方がない。給料日まで一週間生き延びられるように、よ〜く考えて消費していかないと。若干息を切らしつつ、ようやく三階にたどり着く。わたしの部屋は階段から一番近くにあるから、あともう少しだ。
「よっ、と」
荷物を持ち直して顔を上げれば、きらきら輝くブロンドの髪がふわりとなびいているのが見えた。え?こんな綺麗な人ここに住んでたっけ?見間違いかと思ってまばたきを繰り返す間に、すらりと伸びた長い手足を優雅に動かして、その綺麗な人はすうっと部屋の中に入っていってしまう。絵に描いた天使みたいな女性が、まさか駅から徒歩十分の住宅街にあるマンションの廊下で見られるなんて、誰が考えるだろうか。ラッキーだなあと綺麗な横顔を思い出しながら、部屋の鍵を開けるべくポケットに手をやって、ふと疑問を抱く。
あの人、今どの部屋入ってった?
わたしの見間違いでなければ、階段から二番目に近い部屋のドアを開けていた気がする。一番近いのはわたしの部屋。必然的に二番目は隣である涼野さんだ。しかも涼野さんはわたしがスーパーを出た時まだアイスクリーム売り場にいたから、イコール今の女性は合鍵で中に入ったことになる。つまり、導き出される答えは。名探偵ばりの推理をした結果、
「……マジで?」
涼野さんまさかのリア充疑惑が浮上してきました。