今日は洗濯日和だ。洗い物もとっとと済ませ、清々しい気持ちで洗濯物を干す。「急に家族と離れて一人で暮らすなんて、きっと思っているよりずっと面倒も多いわよ」引っ越す前、母はああ言ったけれど、現時点でそれほど苦に思ったことはなかった。もともと家の手伝いは進んでやっていたから、勝手がわからず困ることもまずないし。朝起きて夜眠るまでに必要なことをすべて自分一人でやらなくてはならないのは、まあ大変なこともあるけれど、どうせいつかは通る道だ。わたしなんて、同年代の子とくらべたらむしろ遅いほうかもしれない。
 というか何より、学校が近くなったことがうれしくて、他の不便な点なんてあまり気にならなかった。

 今日は午後からしか授業がないから、もう少しゆっくりと過ごせる。家事はだいたいすべて終わらせたし、あとは何をしようか。そんなことを思いながらなんの気なしに部屋を見回して、ふとテーブルの上で目が止まる。そこには、きのう下の階の人から回された回覧板が置いてあった。回されてすぐに軽く流し読んだけれど、特に重要なことは書かれてなかったし、もう回しちゃっていいか。えっと、次の人はー、

 …あ。

 確認のためのハンコを押して、そこで気付いた。回覧板って大体部屋の番号順に回すから、ということはつまり。

「…はあ」

 ため息を吐いて右側の壁に目をやる。挨拶のとき以来、おとなりさんには会っていない。会いたくもなかったけれど。でもそんな心配は杞憂だったようで、あれから凉野さんをみることはなかった。それどころか、おとなりからは物音ひとつ聞こえず、まるで生活感を感じられない。いよいよ、仕事=自宅警備説が有力になってきた今日この頃である。
 あの凉野さんに、わざわざ会いに行かなければならないというのか。初対面の人間相手にひどく自分主体な言葉を放ったあの人に。あいにく、私には自分から厄介事に首を突っ込んで苦労する趣味はないのだ。憂鬱な気分になる。

 しかたない。腹を決めよう。もしかしたらいない可能性だってあるし。平日なんだからその可能性のほうが高いし。でも、本人いわく家でできる仕事をしているそうだからなあ…。重い足取りでおとなりへと向かう。黙ってドアに立てかけておくことも考えたけれど、そこまで敵意をむき出しにするのもどうかと思い直し、やめておいた。心なしか大きくそびえ立って見える扉の前で、ゆっくりと心を落ち着かせる。何を言われてもにこやかに返すための平常心よ、この手に舞い降りろ。サービス業三年目の意地をみせるんだわたし。考えすぎかもしれないが、ファーストコンタクト時のあの衝撃はなかなか消えてはくれない。

 チャイムを鳴らすと、すこしして扉が開き、眠そうな目をした凉野さんが顔を覗かせた。やっぱり家にいたのか。冗談じゃなく、自宅でできる仕事とは一体なんなのだろう。

「はい?」
「これ、回覧板です」
「ああ、どうも」

 また嫌味のひとつでも言われるかと身構えたが、予想に反して、凉野さんはなにも言ってこなかった。それもそうだ。わたしは凉野さんを怒らせるようなことを今までにひとつだってしでかしていない。家で一人熱唱するような奇行に走ったこともなければ、友達を家に招いたこともいまだになかった。後者は正直、凉野さんの存在のせいも少なからずあるのだけれど。無表情で回覧板を受け取った涼野さんに、ちいさく会釈をする。

「それじゃあ」
「うん。…あ、」

 扉を閉めようとした凉野さんは、そこで思い出したように小さく声をもらし、ふたたび扉を大きく開いた。その動作にわたしは思わず身構えてしまう。もしかして、昨日うっかりコップを落として割ってしまったときの音がうるさかった?おととい友達と長電話したときの笑い声がおとなりまで響いていた?…思い返せばわたし、凉野さんに嫌味を言われたって、文句を言えないのかもしれない。

「な、なにか」
「この間はありがとう」
「へ?」
「大福」

 言われて思い出す。そういえば、母から引っ越しの挨拶にと持たされた大量の"つまらない"品は、大福の詰め合わせだった。わたしの家の近所にある和菓子屋のもので、結構おいしいと評判のものらしい。あまり和菓子を食べる習慣がないわたしからしてみれば、あんなに大福ばかりを詰め込んで誰が喜ぶのかと思っただけだったけれど。

「お口に合ったなら何よりです」
「…まあ、食べたのは主に私じゃないんだが」
「はい?」
「いや、なんでもない」

 それだけだ。そっけなくそう口にして、涼野さんは今度こそ扉を閉めた。涼野さんが扉を閉めたあとも、わたしはその場に突っ立ったまま、しばらくの間呆けていた。だって、この前と態度が違いすぎる。最後に呟いていたことはよく聞きとれなかったけれど、なんだか、この間の印象よりもまともな人のように思えた。もしかしてこの間は特別機嫌が悪かったとか、そういうことなのだろうか。わたしはすこし、あの人に対して偏った先入観にとらわれすぎていたのかもしれない。

 そう、すこしだけ考えを改めた、とある平日の真っ昼間のことだった。…いやでも、こんな時間に家にいるなんて、やっぱり完全に信用はできないな。

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