思えばわたしの人生は、今のところすべて親の都合というもので動かされている。まあ子供は成人するまで親の所有物だと法律でも定められているわけだし、子供は親に振り回される生き物だと高校の頃の数学教師も言っていたから、不満はあれど今までは「まあ仕方ない」で済ませてきた。しかしこれは、一体どういうことだろうか。

「名前ちゃん、突然だけど引っ越すことになったわ」
「え、どこに」
「コトアール」

 ……は?







 部屋は片付いた。荷物もすべて届いた。近所の地図もあらかた頭に入った。もう一人暮らしの準備は万端である。…あとひとつの重大なイベントを除いて。はあ、と深いため息を吐きながら母が置いていった和菓子の山に目をやる。これを全部配って回れというのか。
 転勤族ではないはずの父親の転勤が決まり、わたしは危うく日本から離れるはめになるところだった。大学だってあと一年半ほど残っているというのに。わたしを連れていく気満々だった母を説得し続け、ごねる父を宥めまくり、結果、なんとか新しくマンションを借りて一人暮らしするということで合意してもらえた。心身共に本当に疲れた。一人娘ゆえか、うちの両親は結構過保護だ。わたしももう今年で21だし、まわりの友達で一人で暮らしている子も少なくない。いくら子は親の所有物と言えど、さすがに二十歳を過ぎればそれも無効だろう。

 せっかくなので、新居は大学から徒歩五分の場所にした。いままで二時間もかけて登校していたのが本当にばかみたいである。

 まだ見慣れない自分の部屋から出ると、これまた見慣れない景色が広がった。左隣には誰も住んでいない。部屋自体がないからだ。ということはやはり、はじめは右隣から。荷物を片付けるのに手間取り挨拶が遅れてしまったけれど、むしろわたしが荷物を運んだりしているのをこの階の住人には何度も目撃されている。ああ、近頃バタバタ聞こえていたのはそれでなの?まだ若いのに一人暮らしなんて大変ねえ困ったことがあったらなんでも言ってちょうだい。なんてトントン拍子に話が進む可能性もなきにしもあらず。

 隣の部屋のネームプレートには、手書きで『凉野』の文字。教科書の字体のようなその字を眺めながら、何度も練習した言葉をゆっくりと脳内で繰り返す。ご近所付き合いの基本は第一印象だ。これでもしも「感じの悪い入居者」のレッテルを貼られてしまったら、快適な一人暮らしにはまず辿り着けない。「マンションなんて団地とそう変わらないんだから、荒波を立てないようにうまくやらないとだめよ」団地歴20年の母は語る。都会のマンションと田舎の団地をいっしょにするのはいかがかと思うが、まあ慎重にいくに越したことはない。

 チャイムを鳴らすとしばらくしてガチャリと鍵のまわる音がし、ドアがこちら側に開いた。中から現れたのは20代半ばの男の人。わたしは、となりの部屋の主が男だということに少なからず不安を覚える。ほのぼのお隣ラブストーリーやハートフルご近所物語ならまだいいが、下手したら隣人女子大生凌辱ものという、まるでエロビのネタでありそうな自体になりかねない。警戒しすぎ?いやいや、危機感は持ちすぎるくらいがちょうどいいってお母さんも散々言ってた。

 わたしが頭の中でそんな想像を巡らせているとはつゆ知れず、目の前の隣人はまるで強風に煽られたかのような芸術的な髪をがしがしと撫で付け、けだるそうに目を細める。

「…なにか。」
「今日となりに越してきました苗字です。これ、つまらないものですが」
「…どうも」

 …こいつ、ひきこもりか?最低限の言葉しか発せずに紙袋を受け取った凉野さんに思わず訝しげな視線を向けてしまう。ひきこもりだったら尚更キレたら何をするかわからないではないか。そのうち新聞に大きく『20代無職の男、隣の女子大生監禁のち殺害』という見出しが載ってしまうかもしれない。ごめんねお母さん、都会はやっぱり怖いところでした。そもそも平日の真っ昼間に寝間着同然の格好でうちにいることでもう、ニート予備軍か失業者決定だ。

「学生?」
「え?そうですけど」

 わたしが返事をすると、凉野さんはならいいか、と呟いてまた髪を掻いた。どうでもいいけど、そんなに痛めつけてるとハゲるぞ。

「私は仕事柄、普段家にいることが多い。君は昼間は学校へ行っているだろうからいいが、帰ってからくれぐれも喧しくしないでくれ。気が散るんだ」

 …なにこいつ。仕事ってなんですか自宅警備員ですか。しれっとした顔でそんなことを言いのけて扉を閉めた凉野さんを扉越しに睨み付ける。お母さん、さっそく問題発生です。おとなりさんと仲良くなれそうにありません。

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