約束の花 02.

「ぇ…?」

「妹も出掛けてる。
今、俺と名前しかこの家にはいないよ。」

「…っ。」

「ふふっ。」



いつもと違う、どこか艶やかな雰囲気で言われ、当然私は息の仕方を忘れた。

ぼっと火を噴くように顔を赤くすると、精市くんは調子を戻して笑う。

ドキドキと跳ね上がった鼓動が恥ずかしい。

でも…そっか。誰もいないんだ。

そのことにほっと胸を撫で下ろした。

失礼のないように、しっかりしないとと言い聞かせたが、私にはまだ荷が重い。

やっぱり私、まだ子供みたい。

精市くんも私が緊張に弱いということをよくわかっているはず。気を利かせてくれたのだろうか。

無意識に身体に入っていた余分な力が抜け、気が楽になった。

視線を上へ上げると、微笑んだ精市くんと目が合う。

今まで緊張していた自分がおかしく感じ、精市くんににこりと微笑みかける。

精市くんは目を細め、不意に私に顔を近づけた。



「緊張はしなくていいけど……意識は、してほしいな。」

「えっ…ぁ、う…っ。」



その言葉に、また真っ赤になってしまう。

そうだ。この家には私達以外誰もない。それが示すことは、ふたりきりだということだ。

こういうとき、私はどうしたらいいのだろう。

今まで考えたこともないことを頭の中で考え出す。けれど何の案も思い浮かばず、結局は混乱してしまっただけだった。



「ふふっ、冗談だよ。」



精市は目でも回しているのではないかというほどの私を見てクスクスと笑っていた。

冗談だという言葉に、思わずぽかんとしてしまう。

それから笑っている精市くんを見て、あぁ。またからかわれたんだ、と気づく。

精市くんの全ての言葉を真に受け、反応してしまう私は精市くんからしたら面白くて仕方がないらしい。

何となく悔しくて、むっとした表情をすると、精市くんは柔らかく微笑んだ。

そしてまた自然な動作で私の手を握り、薄く形のいい唇を開く。



「部屋、行こうか。」

「ぅ、ん…っ。」



フローリング張りの廊下を歩き、階段を上っていく。

風通しのいい構造になっているのか、二階からすうっと涼しい風が吹いている。

前を歩いている精市くんの髪が微かに揺れ、その風に乗って香りが漂う。

誘われるように見上げれば、まだ発達途中だけれどがっしりとした広い背中が目に入った。

ドクン、と心臓が跳ね上がる。特に何もされてはいないのに、自分の中で気持ちが高ぶるのを感じた。

何の会話もないまま、トントンと階段を上っている足音を聞いている。

決して暑くはない。けれど、蒸し暑いような不思議な気持ちになった。

階段を上りきると、すぐ手前に見えた扉を精市くんの大きな手が押し開いた。

明るい光が差し込んでいるその部屋に、精市くんは手を引きながら入っていく。



「さぁ、入って。」

「っ、お邪魔します…。」



ここが、精市くんのお部屋なんだ。

大きな窓は開いていて、クリーム色のレースカーテンはふわりふわりと優しく風に揺れている。

窓台にはいくつもの観葉植物がいきいきとたたずんでいる。

綺麗な緑の葉は、見ているだけで清々しい気持ちにさせてきた。

広い部屋には、同じように大きなベッドが置かれている。

セミダブルほどの大きさはあるだろう。シックな柄と色の掛け布団は、とてもこの部屋の雰囲気に合っていた。

シンプルだが、まとまりのある部屋。色も統一されていて、落ち着いている。

きょろりと見回しながら部屋を観察していると、精市くんは手を離し、ベッドに自然と腰掛けた。



「名前。」



きょろきょろと落ち着きのない私に、精市くんは微笑みながら呼びかける。

その効果は抜群で、私はドキッと固まってしまった。

クスリと笑みを忍ばせた精市くんは軽く腕を広げてまた甘い誘いをかけてくる。



「おいで。」

「っ、ぇ?あ…。」

「ほら。」



おいで、と言われてもどこへ行けばいいのだろう。

精市くんが腕を広げているということは…。

答えは明瞭だが、うまく呑み込めず戸惑ってしまう。

しかし言い聞かせるようにもう一声かかったので、私は考えるのをやめた。

ほとんど無意識に、足が前へと進む。吸い込まれるように歩み寄っていた。



「っ…。」



精市くんのすぐ前に来た私は肩に掛けていたバッグを下へおろし、精市くんの開かれた足のわずかな間にちょこんと座る。

どうだ。これでいいのか。

そう言うように精市くんの顔を見ると、後ろから優しい腕が回されてきた。

びくっと身体が大きく反応する。後ろからの温もりに、息ができなくなってしまったかのようだ。



「っせ、いち、くん…?」

「ふふっ…名前がこの部屋にいるのが、不思議な感覚だよ。なんだか恥ずかしいな。」

「わ、たしも…精市くんのお部屋に来てるなんて、信じられない。」



それでも精市くんのお部屋には彼の香りが満ちていて、こんなにも居心地がいい。

微睡むように瞳を閉じていると、少し油断しただけで意識を持っていかれてしまいそう。

胸が温かく、駆け足に脈打っている鼓動にくすくすと笑ってしまう。



「精市くんは、やっぱり、お花が好きなんだね。」



精市くんは、いつも温かく優しい香りを纏わせている。そして、かすかな花の香りも。

家の花壇にも、部屋にも、いきいきと輝いているお花や観葉植物が咲き誇っている。

毎日手入れを続けているのは、もちろん精市くんなのだろう。

今日、それを改めて感じることができた。学校でも十分に感じていたけれど。

まだ十時から三十分も経っていない。それなのに、精市くんに対する気持ちは深くなっていく。

もっと彼のことが知りたい。もっと、精市くんのことが。

身体に感じる温もりに、胸が苦しくなってしまう。それは決して不快なものではなく、幸福なもので。

回された腕にそっと手を添え、ぎゅっと握る。引き締まった筋肉にトクンと鼓動が跳ねた。

この優しい香りに包まれていると安心する。穏やかな気持ちになり、自分自身でいられるようだ。

精市くんは微かに笑みをこぼし、私を優しく抱き寄せる。

首あたりに顔を埋められた感覚に、心音が耳元で響き始めた。



「あっ、ぅ…精市くん?」

「…名前には、花がよく似合うと思うんだ。」

「ぇ…っ?」

「少しずつ成長して、綺麗な花弁を広げて咲く。
見ているだけでも十分だけど…俺は貪欲だから、どうしても触れたくなるんだ。」



首元で話されると、息が掠めてくすぐったい。

ぶるっと震えると、精市くんは微笑んで顔を離した。

おろした髪を優しく梳かれ、ドキドキと胸が高鳴る。

精市くんの言っていることがよくわからないけれど、聞いていて恥ずかしいことだということは理解できた。

顔をうつむかせたまま上目で見返る。精市くんはあのカスミ色の綺麗な瞳を細めていた。

微かに首を傾けると、精市くんの顔がゆっくりと近づいてきた。瞬間、ぽっと顔が赤くなる。

ちょっと、待って。この雰囲気は、もしかして…。

そう思ってドキリとした。思わず、ぎゅっと目をつむって身構えてしまう。

けれどやってきたのは思っていたものではなく、額へのコツンという軽い衝撃だった。



「っふ、ぇ…?」

「ふふっ!期待、したのかい?」

「そ、そんなこと、ない…よ?」



額をつけたまま、お互いに見つめ合い言葉を交わす。

精市くんのカスミ色の瞳は優しく、深く、夜のようだと思った。

吸い込まれてしまいそう。目が、離せない。

それ以上に、包み込むような瞳を見つめているのは心地よかった。

ふたりして、同時に笑い出す。ほんわりとした雰囲気はとても安心するものだった。

精市くんは微笑みながら私に回していた腕を離し、後ろの方へ手をのばす。

どうしたの、と聞く前に、精市くんは私に何かを差し出した。



「これって…?」



淡い色の花。桃色と橙色と黄色、そして白色の花だった。

その中でも目を惹くのが、濃い色の綺麗な紅の花。いちごのようで、丸くて小さくて可愛らしい。

小さなその花達はちょうどよく小さいバスケットの中に収まっている。

とても綺麗に咲いているけれど、生花ではないことは一目でわかった。

艶がなく、いきいきとした華やかさがない。これはドライフラワーだ。

しかし生花でなくても、品のよさと味わいがある。

精市くんの手の中にあるドライフラワーと、彼の顔を交互に見比べる。



「育てた花で、作ってみたんだ。」

「っすごい…!こんなにキレイにできるんだね。」

「摘んですぐにやったからね。自分でもうまくできたと思うんだ。」

「うん!すごく可愛いっ。」



私がそう微笑むと、精市くんははにかむように口を綻ばせた。

その表情に、見とれたようにぼうっとしてしまう。

精市くんのこんな顔、そうそう見れないだろう。年相応の、可愛らしい笑顔。

そう思っていると精市くんはドライフラワーの入った小さなバスケットを私の手に渡した。

きょとんと目を瞬くと、精市くんは落ち着いた調子で口を開いた。



「そう言ってもらえると、作った甲斐があったよ。」

「この子たち、すごくキレイに咲いてるから。
精市くんに育ててもらって、幸せだったんだね。」

「ふふっ、そうだといいな。
…これ、名前のためのなんだ。もらってくれるかい?」

「っ、ぇ?」



意表を突く言葉に目が丸くなる。…私のために作った?

何の花か種類はわからないけれど、花が咲くのに手間と時間がかかるのはわかっている。

それを私にくれるというのだろうか。可愛らしいドライフラワーに胸がときめかなかったと言えば嘘になるが戸惑ってしまった。



「でもっ、…どうして?」



今日は何の記念日でもなかったはずだ。誕生日でもないし、付き合って何ヶ月という日でもない。

私が精市くんに何かをもらう理由になるものはひとつもないのだ。

首を傾げると、精市くんは照れくさそうにはにかんだ。精市くんのあいた腕が、また私を包み込む。



「感謝したいんだ。名前と出会えたことに…今までの日々に。
本当はもっとちゃんとしたものを送りたかったんだけどね。」

「っそ、そんなの…。」

「どんなに小さなことでも、俺からしたら奇跡なんだよ。
君には花が似合うから…名前にもらってほしいんだ。」



そんなことを言われると、もらうしかなくなってしまう。

大好きな人にそう言われて嬉しくないはずがない。

言葉を詰まらせた私は顔が熱いことを意識しながら小さく頷いた。

精市くんはほっと息を吐き、後ろから私を抱き寄せる。

顔を寄せられ、首筋に当たる息がくすぐったかった。



「約束するよ。君へ送るこの花と一緒に。」



約束の花

(精市くんがお花のことを言うと、なんだか意味深だね。)
(そうかな?まぁ、人より詳しいとは思うけど。)
(私なんて足下にも及ばないよ。このお花、なんていうの?)
(千日紅だよ。花言葉は、変わらない愛情を永遠に。)
(っ…ほら、やっぱり。)


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