拝落 | ナノ
(人形と猫と隠者)
『朝浜辺を散歩していたら、昨日を知らない子を拾った。
銀色の仔猫を抱いていた、とっても美しい子。名前を訊くと首を横に振って、空虚な表情のまま顔を伏せる。猫の名前を訊いても反応は殆ど同じ。きっと名前はその容貌と引き換えに奪われたのでしょう。そう思ってしまうほど、その少女はきれいだった。人形や美術品を美しい、と讃える時の感情に似ていた。
行き先は無い、知る人もいないというので、もてなしは出来ないけれど家にあがってもらった。座ってていいと言ったのに、朝食を作っているとふらふらやって来て何かすると頑なに主張する。仕方ないからお米をといでもらった。仔猫はその間もずっと、構って構ってと彼女のスカートを掻いていた。どんな経緯でこの子達は寄り添っているのかしら。
一緒に食事をとっているとき、よく見てみれば彼女の瞳は色合いの違うふたつの青で、この町にはとても珍しいものだった。小さな口にお米を運んで時折猫に煮魚を与える姿は、人間のそれだけれど彼女には全く相応しくなかった。人間として違和があるほど、きれい。わたしには考えも付かないことだ。
この子を家に置くことにした。
本を与えてみると、黙って猫と本を膝にのせ読み始める。物静かな子だけれど、ごちそうさまと言ってくれた声はとても澄んでいて嬉しかった。一人きりの家に人と猫が来てくれたことがなんとも喜ばしいので、子供っぽいけれど日記を書いてみる。三日坊主にならなければ続ける。』
『彼女と暮らし始めて数日。やっぱり今朝も、目覚めた彼女はわたしに存在を尋ねた。昨日を知らないのではなく、昨日を憶えていられないのだ。これだけうつくしいとまぁ、そういうこともあるのでしょう。わたしも別段不便はないし、無理強いすることもないから、毎日名乗ることもなく呼びあうこともなく生活を続けている。誰かが見たら大層不気味だろう。
ちなみに、記憶がないなりに彼女の中に残るものはあるらしい。数日前と同じ料理を作ろうとすれば、前よりも多くの手順を担ってくれる。昨日読んでいた本と同じものを、ふらふらと本棚にとりにいく。クールなお顔からは何もうかがえないけれど、それで彼女がよいのならわたしもいいわ。仔猫は今日も彼女のお膝を特等席にしていて、彼女も仔猫を抱くときにはいとおしそうな顔をする。愛なのかしら。』
『きょうは月に一度の定期列車が来る。彼女と仔猫は朝から何か落ち着かず、本にも料理にも集中出来ないようだった。畳のお部屋で度々ふたり転がっては、数分しないうちに起き上がって窓の外を見る。わたしにはわからないけれど、空気が揺れたり匂いが違ったりするのかしら。こんなにうつくしいというのに、彼女は猫のように気まぐれに自然に生きていて、不思議と愛らしい。
定期列車が来る日は本屋も珍しく混みあう。普段お客さんかひとりはいればいいほうの店だから、混雑なんてのもたかが知れているけれど。華くんも来た。洋風のお料理本がほしいと言うので数冊おすすめしたら、全部買ってくれた。透さんも来たけれどあの人は花の本を冷やかすだけで、最後に「いい置物を拾ったね」と奥の彼女を指差した。苛立ったから帳簿で後頭部を殴ったら、大人げなく涙目で抵抗してきた。久くんを置いてなにしてるのかしら、ほんと。』
『仔猫ちゃんがわたしの髪の毛をぐいぐいと噛んで、その痛みで目覚めた。開けた視界で真っ先に見たのは仔猫のまんまるなおめめと、あの子のぼんやりした無表情。うつくしいものを二つも至近距離で見るとこっちの反応はうつくしくいれないようで、つい大声をだしてしまった。仔猫がぴゃっと飛び上がってしまったのが申し訳ない。つまるところ寝坊した。恥ずかしい。
本屋のほうには夕くんがきた。車椅子をからからとまわして、簡単なお菓子の本が欲しい、と顔を真っ赤にして言った。華くんと一緒に作るの? と訊いたら、物凄い剣幕で叱られてしまった。照れ隠しなのはわかったけど、ちょっぴり本気で怖かった。
夕暮れには彼女を連れて海へ向かう。毎日続けているけれど、彼女と仔猫は厭きずに延々と赤く染まる海を眺めている。記憶がある、ない、ではなく何か感じるものがあるのでしょう。ロマンチストでないから彼女が海に取り込まれそう、なんて不安は抱かない。海の向こうも海の中も、意外なほど冷たくて、夢がないものだ。そんなところにこの子達が還るとは思えない。』
「何を、しているの」
声をかけられてようやく振り向くと、彼女はすぐ後ろからわたしの手元を覗いていた。腕に抱かれた銀色の仔猫が、眠たそうに額を掻いている。一日も抜かさず続けている日記だけれど、彼女には日々真新しい。だからいつも「大したことじゃないわ」と笑い返す。
青白い電灯が、すきま風でかたかたと揺れている。電球の替えを今度買っておかないといけない。
青い寝間着姿の彼女は、ならいい、とでも言いたげにすっと踵を返して、彼女の部屋の襖を開ける。小脇に本を数冊抱えているから、布団の中で読むのだろう。毎日寝床に入るのは早いけど、就寝自体はかなり遅いようだ。
ゆらゆらと長い黒髪を揺らして、薄暗い部屋の中に入っていく。……かと思ったらすぐに顔だけ出して、
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
小さくうなずいて、今度こそ仔猫と共に部屋へ引っ込む。今日も名乗らず、呼ばれず。名付けず、呼びもしなかった。質素な色の天井を見上げながら、滞りなく一日が過ぎたのを感じる。何にもないのがこの上ない幸せだ。
さて。彼女が部屋に戻ったので、わたしは日記に手をかける。今日の一ページを音が立たぬよう破って、膝にかけていたストールをそっと羽織る。
その部屋に声をかけることはなく、玄関へ真っ直ぐに向かう。見られても問題はないけれど、なんせ意味も理由もないことだけれど、逆にそんなことを見せびらかす必要もないと思って、毎晩一人でやっている。靴をはいて、向かう先は海辺。
「……この季節は焚き火がちょうどいいわね」
冗談を吐きながら、それらしく小さな炎に手をかざす。スカートやストールのはしっこが砂につかないよう、気を付けながら屈んで。
今日を記した一ページは、浜辺の砂に埋もれる塵になる。意味はないけれど、彼女の記憶が持たないことを知ってから、なんとなく続けている。彼女以外に今日を消し去るものがいれば、という、わたしの自己満足。寄り添えるなんて思ってもいないけれど、わたしはどうしても昨日を抱えたまま今日へ、今日を刻んだまま明日へ生きてしまうから。
小さな炎は希望と言うにも、罪と言うにも心もとない頼りない光を揺らして、あっという間に消えていく。子供じみた湿っぽい夜遊びもおしまい。家に帰って寝なくてはね。
立ち上がると、海風が前髪をなびかせた。何の気なしに空を見上げれば、満月が煌々と夜を照らしている。その光を何かが横切ったような、……なにか。
蝶?
満月に比べるとはるかに淡い光だった。過ぎていったほうを見るけれど、それらしいものは何もない。ロマンチストでないなんてとても言えないほどに幻想的な幻覚だ。眠気のあまり先んじて夢を見てるのかもしれない。
「早く寝ないとね」
今日の燃えかすを一瞥して、わたしは家に帰る。
明日も彼女はわたしを見て、首を傾げるのだろう。
今はもうそれが楽しみだなんて、思っているのだった。
20161201
Copyright © 2009-2018 Tohko KASUMI All Rights Reserved.