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誘拐された少女と出逢った三橋葵



 夜の公園。
 自販機で買ったばかりのミルクティーの缶は冷えた手にきびしい。その子は缶をだいじそうに両手でつつんでぽつり、「あつい」とつぶやいた。掌をきづかって指先で缶をもてないかと真剣そうな姿に、つい口元がゆるむ。
 顔をあげたその子がわたしの表情をみて、にぱりとわらった。

「ありがとう、おねえちゃん」
「いいのよ。お礼がいえるなんて、それだけでじゅうぶん」
「おねえちゃんものむ?」
「わたしはへいき。べつのお茶買ったから」

 レモンティーをかるくふってみせると、その子はじぶんがうれしいみたいな笑顔で「そっかあ」という。やわらかな声とはずむ笑顔ににあわない、気が狂ったような量の包帯とガーゼ。そのしたにみえる、痣と傷。こういう姿をわたしは知っている。まだいたいと泣けるならいいのだけど、わたしはどうだったろう。
 長袖のワンピースと、みじかい丈のコート。着ているものはよごれもなく、かぶったしろい毛糸のぼうしも毛玉ひとつない。だいじにされているような衣服から感じるのは、愛情よりもっといびつでこわいものだ。
 こっちに座ろうかとベンチを指さすと、彼女はおおきくうなずく。はねるようにかけてきて、わたしよりも先に腰かける。傷がいたまないのか心配だけれど、そう、もしかしたらいやな予感はあたっているのかなあ。わたしもとなりに座って、低い位置にあるその黒い目をみつめた。ガーゼと包帯にまみれた顔は半分もきちんとみえない。切りそろえられた黒い前髪が、左目を隠す眼帯にかかっている。

「いたくない?」
「ん、ん? ……むむ、」
「あ、かたいのね。わたしがあけるよ、かして」
「ありがとう!」
「いいえ」
「あのね、これ。全然いたくないよ」

 プルタブにかけた指は、きちんと自然にうごいていただろうか。
 なんとなく、そうかなとおもっていた。だからこの返答について、予想外の哀しみなどはない。「そっか」とつぶやきながら缶を返すわたしの顔も、とくにひきつったりしていないだろう。
 そういうこともある。
 わたしは知ってるから、そういうこともあると思うだけだ。
 どれだけ殴られても、血がでても、痣が濃くてもいたくない。
 ある日をさかいに、いたくなくなる。
 そういうことがある。

「いたくないからね、よかった」

 彼女は缶を両手で包んで、ミルクティーを一口。ちいさな喉をうごかす。
 そっか。と、答える以外なにもない。

「いつもおわってから、泣いちゃうから」
「……そう」
「あぁ、こんなんじゃだめだって。泣いちゃうの。わたしはいたくないからいいんだけど、……おにいさんはつらそうだから、やだな」
「おにいさん?」
「うん。わたしを誘拐したひと」

 強い北風がわたしの身体をうったように、ぶるりと指がふるえた。
 言葉は氷よりはるかに冷たい強さで、わたしの頬を叩いた。知らず、目が見開かれていただろう。その子はわたしを見上げながら、どうしたの? とたずねてくる。
 なんでもないと答えることにすら、すこし、とまどった。
 彼女はわたしを数秒じっとみつめて、それからまた一口ミルクティーをのむ。

「誘拐、してもらったの。
 おとうさんたちとはなれられて、よかった」

 途切れ途切れな言葉に、きっと困惑や悲哀はない。どんな言葉をえらぼうか、頭の辞書を引いてるだけだ。しずかな安堵のひとことに、わたしの指先も熱をとりもどす。
 今度はきちんと吹いた風に髪をゆらされて、右手でおさえる。左手のレモンティーは開けもしないうちにさめきってしまった。
 女の子はだいじそうにミルクティーを飲む。ちいさな喉がいくらうごいても、缶が揺れるとまだまだ重たい水の音がする。

「わたしね、わかるの。なんとなくだけど、きっともうだめなんだ」

「……だめなの?」
「うん」
「……そっか」
「うん。でも、わたしがしんだらちゃんとお墓にいれてくれるって」
「いったのはおにいさん?」
「うん。うれしかったの」

 彼女の言葉に深い感情はない。
 10歳だといっていた。自分の傷や痣に、それほど深い意味を求めないでいられる時期だ。ただいたくて、わからなくて、なにが起きているのか見当もつかないまま、朝起きると腕が赤い。顔があつい。そんな日を繰りかえしていたのだろう。
 いや。繰りかえして、いる?
 自分が10だったころの感覚が、そのままこの子にあてはまるとは思えない。なにせわたしの身体には、わたしの身体にも傷と痣がいくらかあるけれど、誘拐されたことはない。きっとだめな人間の証拠なのだろうけど、逃げたいと思えたことがなかったから。
 さがしにいこうとだけ、決めていたから。

 逃げたらしあわせになれたのかなんて、わからない。
 この子がわたしにとって不幸にみえたら、この子にとってのわたしも、不幸なおねえちゃんであるのだろう。わたしはこの子の幸福をはかりかねる、どうしても決めつけは出来ない。おなじようにこの子にとってのわたしは理解しえないふらふらした存在だろう。
 選ばなかったものの結果を、他人が推しはかっていいことはない。

「――あ、おにいさん!」

 彼女が顔をあげて、わたしがミルクティーを買いあたえたときのような笑顔で手をふる。視線の先に目をやると、背の高い、黒いコートを着た男がいる。街灯の光がうまくあたらず顔の判別はしにくいが、若めの青年だ。20代そこそこなのだろうけど、憔悴しきったようなきつい陰が瞳にかかっている。
 ――あぁ、なんだか要さんみたいだ、と
 一瞬思ったけれど、すぐに違うと気づく。青年は百日紅の匂いなんて欠片もしなかった。
 白い、花の匂い。しにきれなかった花の遺骸。夏の。
 山茶花だ。
 むかし、誰かにもこの匂いを感じたことがある。

「――誰だ」

 強ばった声。ただ、わたしを射貫く瞳に敵意はない。おそらく、意識しないうちに他人を殺せる人間なだけ。そのことを特別に悔いたことはない。まだない。
 黒いコートの裾が、風にすこしはためく。

「おねえちゃん、ミルクティーくれたの」

 わたしの代わりに女の子がこたえて、ベンチから彼のもとへかけていく。青年はわたしを見据えながら女の子の頭を撫でる。その手つきはおそろしくやさしげだ。いっそ気持ち悪くなるほど。
 ベンチから立ち上がると、青年をぐっと見上げる形になる。よほど背が高いのだ。彼の呼吸は浅くかすかだけど、苦しそうにはみえなかった。当たり前に空気が足りない人間のように、息をついていた。

「……誰に殴られた?」
「……わたしですか? いいえ、おはなしすることじゃ」
「父親か」

 言葉を聞き取った瞬間、左の頬の感覚が酷くブレた。足元がもつれる。
 殴られたとすぐにわかったけれど、その意味に思い当たるところはない。服が汚れるといけないから鼻にふれたけど、とくに液体っぽさはなかった。
 女の子がなんで、といいながら青年の腰にしがみついている。
 わたしを見下ろす青年の瞳は、悲しげだ。

「どこにもいかなかったのか」


 彼の声を聞いたのは、それが最後だ。
 すぐに少女のだめだよ、だめなんだよ、という呼びかけに反応して、彼女と手をつないで去っていった。彼女が一度だけ振り向いてちいさく手をゆらしたので、笑って手をふりかえした。きっとひきつったりはしていないだろう。

 ――どこにもいかなかったのか。

 そんな簡単なことをひとつ言うにも、彼は人を殴る必要があった。
 言葉ひとつに、誰かの傷ひとつが必要だった。
 だからもうだめなんだと、彼女は思った。
 起きたのはそれだけだ。それだけのことだ。


「……いやほんと、ディスコミュニケーション」

 頬をさすりながら、ベンチに置いた鞄をとる。一瞬おどろきはしたけど、この分じゃ2日も腫れはしないだろう。
 鞄の横に置いていたレモンティーをとって、冷えきったそれを飲む憂鬱さを想う。

 青年が立っていたところに何気なく視線をよこした。
 転がったミルクティーの缶からこぼれた紅茶が、土混じりのきたない色を街灯に照らされていた。



「誘拐犯と少女」
dear まことさん
from 彼住遠子
20171019



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