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 台風が過ぎた次の昼だった。金をおろして銀行から出ると、息をするだけで汗ばむような熱気が肌にまとわりつく。砂絵が不機嫌そうに唇をとがらせて、なにか呟く。「何だよ」「蝉がうるさいって言ったの」「……あぁ、」その声を覆っていたのが蝉の声であることに、ここでようやく気づく程だった。砂絵に比べて大人の俺のほうが聴覚が衰えているとか、そういうことではないだろう。単に、興味と関心の差だ。
 銀行を途中に据えた坂道を降りているだけで、焼けたアスファルトが靴底を焦がす。坂の麓が陽炎でよく見えない、降りていれば辿り着くのは解っていたからアスファルトの脇にのびる緑地を眺めていた。森と言うには狭いが、木々と言うには群がった緑だ。こんなにいるのにまともに影すら作りゃしない。

「さっきのアイスキャンディー買いたい」
「屋台引いてたばあちゃんがまだあそこにいたらな」
「なんでちんたら銀行さがさなきゃいけないのよ、すっごく時間かかったし、暑いし最悪」
「暑いのは堪えろよ、夏だろ、……」

 視界の隅に何かがいた。いつもは死体があろうと気にならないだろうが、その時は珍しく足を止めた。隣で砂絵が「どうしたの、」と言いかけて口元に手をあてた。吹いた風がその臭いを運んだんだろう。
 腐ったものがある。
 台風の間は雨に、それが過ぎたあとはこの熱に、ずっと曝されていたのだろう。原型は残っているので猫と認識できるが、お世辞にも腐臭が隠しきれていない。湿って色濃い土と草にまみれて、点々と毛を赤黒くしていた。何で死んだか知らないが、死んだ後もまともな残り方をしないのは不憫なものだ。

「……なにがいるの」

 鼻と口を手で覆ったまま、砂絵が問いかける。

「猫。多分な」
「……しんでるの?」
「まぁそうだろ。お前が吐きそうにしてんのもこいつのせいだろうし」
「想人平気なの、におい」
「俺は、別に」
 足を止めたのも腐臭が鼻についたからじゃない。
 死んだ猫の色や形に、あるいは死そのものに。思い出すものがあったからだ。

 ――ばいばい、またね。

 華奢で幼い指先が真っ赤に濡れていた。
 まだ蝉が蠢きもしない、あれは六月はじめのことだ。思い出せる彼女の姿は殆ど全てその頃のものだろうが、これについては確信をもって記憶が蘇る。雨続きの土臭い公園で、彼女は濡れたベンチにランドセルを置いていた。



 俺の方は確か、面接の帰りだったと思う。自分についての記憶は確かでないが、葵に傾けた傘の透明を通して幼い背中を眺めていた。ビニール傘を持っていたことだけ断言出来る。
 いつも葵と逢っていた公園に入って、ベンチを見たら少女がいなくてランドセルがあった。茂みのほうに目をやると、小さな塊が動いていたので傘をさした。

 葵は手を赤く染めて、死んだ猫を埋めていた。

「おもひとさんだ」

 手で掘ったのだろういびつな穴の中で、目を閉じた猫は眠っているようだった。血塗れのくせに苦しんで死んだような顔はしていなかった。
 それを撫でながら、俺を振り向かず葵は呟いた。血と泥にまみれた白い手が、飼い猫をあやすように親しく愛しげな動きで猫の喉に触れていた。
 何を答えたか憶えてはいない。どうせ大したことは言わなかっただろう、俺のことだから。

「わたしね、この子となかよかったんだ」
「……ここにいた野良か?」
「そう」
「初めて見たな」
「ひとみしりだったんじゃないかな。まだちいさいし」

 単に俺のことはどうでもよくて、葵のことが好きだったんじゃないかと思う。茂みの内側で土に座り込む葵は、暗くて見えにくいだけで全身が土に薄汚れていた。アイボリーのワンピースの裾が泥だらけで、家に帰ってから家族に隠れてそれを洗う葵を想像していた。と、思う。
 雨がほどくから、血で毛が固まることもないのだろう。葵に撫でられる猫は安らかそうにも見えた。見下ろす俺がその時葵の表情を見ることはなかったが、哀しい顔はしていなかった気がする。

「きょうきたら、この子がしんでて。横にカッターがおちてたの」

 言葉の意味するものがわからないわけはない。

「たぶん、だれかのきまぐれなの。そういうものだよね。どう生きてしぬかなんて、きっとまだえらべないよね」

 言葉の意味するものは俺が推し量っていいものではなかった。

「やったひとに同じことをしてもこの子はよろこばないから、お花をあげようとおもって」

 小さい手がそっと掬った土を、猫の身体にかけた。
 その時改めて穴の中を見て、俺が思っていたより深い穴だったことに気づく。葵は道具もなく延々と、猫に花を捧げるための洞穴を掘っていたのだ。
 幼い掌が一度にのせられる土の量なんてたかが知れていた。葵は延々と、俺がさしかける傘の中で土を動かしていた。「手伝うか」「ううん。いいの。傘のほうがうれしい」「そうか」「うん。この子もさむくなくてうれしいとおもう。ありがとう」何も考えていないから礼も不相応だったが、否定するのは誰より葵のためにならないだろうと口をつぐんだ。

 六月の雨はただ冷たいとも言えない、いやな湿っぽさを含んでいる。
 雨の日の公園に来る酔狂な奴はいない。ホームレスが住まうほど広い公園でもないから、ここにいるのは俺と葵と、土をかけられていく猫だけだ。
 時間が延々と過ぎていく。土は少しずつ猫の形をぼかしていく。
 一度だけ、葵が洟をすすった。

 誰かの余興で殺された猫を、人生に一秒の余裕もない少女が弔っている。
 傘を手向ける俺が、一番この場に不釣り合いだ。
 笑うことも泣くことも出来ないほど、何とも思えない。
 俺は、仮に葵が死んでもこんな風に花を手向けるだけの人間なんだろう。

 そのことに恥すら憶えない。

「――うん。だいじょうぶ」

 葵がかすかに膨らんだ土をぽん、と撫でて頷いた。膝の横に置いていた白い小花を、散らすように土の上に浴びせる。
 葵と猫に傘を傾けていた俺は全身痛々しいほど濡れていたが、寒い時期でもないし、震える出来事でもないのでただ黙って立っていればよかった。気が楽だった。
 花を散らして、葵はようやく俺を振り返った。ここで今日初めてその黒い目を見た。きのう真っ赤に腫れていた頬が、青紫色になっていた。

「ありがとう想人さん。もう平気だよ」

 猫にもよく見せた笑顔だったのだろう。いつも通りの子供らしい、子供らしからぬ、葵らしい表情だった。
 葵は立ち上がってワンピースの裾をつまむと、「あらわなきゃ、」とこぼした。その声は他人の介入を必要としていなかったから、とくに口を挟まなかった。葵は家族に隠れて、傷だらけの腕でワンピースを洗うだろう。それに文句を言うことはない。きっと。
 そういうものだからと。
 まだ、どう生きて死ぬかなんて、選べやしないからと。

 猫が眠っていた真新しい地面に向かって、葵は軽く手を振った。
 血よりも泥に濡れて、小さな爪に土がはさまっていた。

「ばいばい、またね」



 あのあと猫の墓標を見た日はない。
 俺が自分の意思で見にいくものではなかったし、葵も俺と話しているときわざわざ話題に出さなかった。俺が葵と逢わなくなるまで、あのアイボリーのワンピースを見た日もなかった。頬にあった青紫の痣は薄れていって、代わりに太ももが緑色に変色したり、目元に赤黒い印がついたりした。
 だから、あのあと猫のことを思い出したのも、これが初めてだ。

「……想人、なに、どうしたの。熱中症?」

 砂絵の無愛想な声が蝉の絶叫を裂いて耳に届く。
 腐臭のする猫、近くにカッターは落ちていない。

「……行くか」
「いいの? ねこ、気になるんじゃないの」
「別に」

 この猫に花を散らす少女はいない。俺は今日、手向ける傘もない。彼女がいない場所で、彼女のやさしさを模倣するほど善が似合う掌でもない。
 坂の麓はまだ陽炎でよく見えない。
 歩き出すと、砂絵は黙ってついてきた。あの猫はいつか腐りきって土になるか、それを待たずに誰かが片付けるだろう。そういうものだと思う。猫が殺されたなら警察に言えばいいし、埋めるなんて面倒なことをする必要はない。葵以外がやっていれば笑い話にもならないと無視するだけだ。

(ばいばい、またね)

 思い出すのは葵のことばかりで、あの猫がどんな色だったかすら記憶にない。
 ただ、もうそろそろ土に還っただろう。
 ともすれば彼女が散らした花の、養分にでもなっている。



「想人がふと葵を思い出し(または葵ちゃんとの夢を見て)、葵に対して独白する話」
dear アオイさん
from 彼住遠子
20170808



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