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 俺は自分の名前を知っている。きちんとこの脳に持っている。
 恐らくは、きっと、確定的に他の奴らもそうだろう。本当の名称を隠して、聴き慣れぬ単語で覆うよう言われたんだ。俺より前からここにいた男と女は何も言わないが、確信はある。だって俺は自分の名前を知っている。俺以外の誰もそれを知らないだけで、名前はここにあるのだ。

「どうした、セカンド」

 白い兎耳が僅かに震える。怯えでは無く、怒りに近い感情か。瞳は冷たく見えるほどにしんとしていたけど。

「“こんなところ、他区画の人間が来る場所じゃない”んだろ? コートが汚れてねえのはいつも通り天晴れだが、お仕事はどうした」
「……私はあなたに仕事を持ってくるのが仕事でもあるので」
「ははは、あぁはいはい、悪かったって怒るなよ。何に怒ってるのか知らんけど、せっかく良い面してんだから顰めず笑ってりゃいい」

 目の前で白い耳を揺らす少女は、む、と不機嫌そうに眉を寄せたまま「アリスが来ているのです。いかにも性格に難がある物言いはお控えください」と呟く。向かい合うとあまりに小っさい存在の後ろに、なるほど確かにアリスの金髪が除いている。また好奇心旺盛なアリスを抱えてここまできたのか。それだけでここへ来る労力が3倍から5倍にはなるだろう。お疲れ様だ。
 いかにも真面目ちゃん! なむすったれ顔で俺に訥々と注意をする兎女。苦労人で生真面目な性格をしているのだろうことは明白だが、時折人が死ぬのを見たかのような危うい表情を浮かべている。大抵彼女が一人の時だ。
 朝焼けによく似た淡い紫の瞳を震わせ、何に息をつまらせているのか知らないが、いやに苦しそうな顔で震えている。死ぬまで息を止めているよう命じられた馬鹿みたいに、青ざめて立ち尽くしている。俺はどうとも思わない、悲哀も期待も興奮も感じやしないので誰にも言わないが、ちょっとお人好しの気狂いや、こいつに気がある阿呆が見ようもんならすぐさま声をかけるだろう。

「――あの、聞いてますか。芋虫」
「……あ、悪い悪い流れてたわ。もう一回聞かせてくれよ、セカンド優しいからどうせ二回は話してくれる予定だったろ?」
「……わ、私はそんな甘い人間じゃないです」
「でも仕事してもらえなくても困るのはセカンドだろ? 誰がやったって変わんないことをわざわざ相手ご指名してやらせる場所なんだ、自分でやりたくても出来ないのはお前にとっちゃストレスだろ」
「う、……そ、その通りですが」

 次はちゃんと1回目から聞いてくださいね、と言う彼女の声はどれだけ張り詰めさせようとしても隅が柔らかく、優しげに響いてしまう。性分なのか、きつそうに言おうと努力してもしきれない部分が透けて見える。そこをチャームポイントと可愛がられているんだろうな、金髪を振り回しながら木登りしようとしてるそこのアリスとかに。ってかおいおいあいつマジかよ。
 話を一通り聞いてるあいだに、アリスは木登りに三度挑戦し二回落ちて最後は諦めた。笑いをこらえるのがなんとも大変だったが、セカンドが「アリス」と振り向く頃にはにこにことそこに立っていた。葉っぱと土埃まみれだ。

「ファーストのほうには話し済みか? 俺は伝達役なんてめんどいのはごめんだぜ」
「すでに済ませてあります。私の仕事ですから」
「そりゃ結構。優秀な兎がいるのはいいことだ」
「しかもとんでもなく可愛いのよ!」
 何の関係もない言葉を何の関係もなかったお前が突然ねじ込むな。
 兎も困ったように眉尻を下げきっている。

「あ、アリスそれは関係ないです」
「関係あるわよ! 優秀でかわいい! 世界一かわいい! 最高じゃないもうしろがいるだけでそこがたちまち楽園になるってことよ?」
「は、はぁ」

 めっちゃ困ってんじゃねえかそこの兎。


 ◇


「ねぇ、ファーストって誰のこと?」
「はぁ?」

 兎が帽子屋のところへ行く、と言ったとき「わたし、残るわ」と言い出しやがったので、なんだ嫌な予感がすると思えば。俺のツリーハウスにもずかずか入ってくるし、人のクッションを占領した挙げ句がこの質問か。兎の前で聞いたらまずいことでもないだろう。
 アリスはクッションを数個積み上げたところに埋もれ、えらそうに脚を伸ばしている。早く兎は仕事終わらせてこいつ拾いに来い。
 冷やしていた炭酸をグラスに注ぎながら、姦しい声を聞き流す。

「セカンドってしろのことよね。何度もそう言ってたし。ファーストも考えたんだけど全然浮かばなくて」
「あー、帽子屋のこと」

 アリスは間抜け面でへぇ、そうなの! と声を上げる。人を疑ったことも憎んだこともなさそうな、芯からまっさらな声と目をしている。惨殺された人間の残骸など、見たことはおろか想像もつかないだろう。残酷や不条理とは無縁に生きてきた、ここが生まれて初めて“理解の範疇にない場所”。俺はそんなの羨むほど子供ではないが、見物の対象として面白い。
 知らないことを想像すれば、必然的に足りなくて易い。
 だから俺はアリスの人生について想像なんてしない。ただ、幸福だったのだろうと嘲りも蔑みもなく感心する。幸せなのは良いことだ。生まれつきそれが劇薬になるような人間でなければ。

「じゃあ、サードはいるの?」

 やたらと響くでかい声で尋ねる。
 無神経ではないのだろうが、不躾ではある。余程のことでなければ、自分の言葉で誰かが死ぬほどの苦しみを味わうなどとは思わないのだろう。何気ない、暴言でも否定でもないような言葉で。
 グラスを1つ手渡す。「ここ紅茶は無いの?」「ねぇな。我慢しろ」アリスはしょうがないわね、と言いたげに一口飲んで、けふ、とまるっこい息を吐く。

「“サード”はいねえよ」
「あら、そうなの」
「強いて言うなら俺になる」
「どうして?」

 身を乗り出して尋ねてくる。
 隠す話でもない、口止めもされていないので話してもいいのだが。アリスが余計なことを言って、兎が余計なことを考えないとも限らない。
 ……いや、まぁ、これこそ余計か。
 どうせ帽子屋あたりから漏れるだろう。

「俺がここに来たとき、この学園には俺以外に2人しかいなかった」
「いまは1000人いるのに!?」
「何事も0から1000にはならないだろ。神が光から順に世界を創ったように、俺達も1人1人と頭数を増やして今に至るんだ」
「ははあ……で、その2人って」
「お前、そんなに察しが悪くて人間関係大丈夫か? 帽子屋と白兎だよ。最初にいたのが帽子屋、次に来たのが白兎。ここはあいつから聞いたことだけどな」
「ふうん」

 新しい知識を得た、それ以上も以下もない反応でアリスは身を引いた。呼び名の理由、としては十分な納得を得られたのだろう。そう呼ばれる白兎や帽子屋の心情を想像して、俺を叱り飛ばすような性格ではない。

 セカンド、という呼称に、白兎は面白くない感情を抱いている。

 言葉を用いて確認するまでもない。彼女はいつも通り自分の心を殴り、圧し殺した顔で俺に答えるが、呼ばれた瞬間冷えきる瞳孔には言いようのない寒々しさがある。
 否定はしない、呼ばれることを拒絶もしない。
 彼女はその呼称と自分を、俺が思っているよりも遥かに尖った意味合いで結びつけているのだろう。
 わかって呼んでいるのだから性悪だと言われても、残念ながら笑いしか出てこないが。


 ――セカンド。

 ――……私のことですか。

 ――そうだよ。2番目にここへ来たんだろ? 名前も知らないし、白兎だとか布告と呼ぶのも味気ない。渾名だよ、渾名。

 ――そうですか。

 ――呼ぶことに支障が?

 ――いいえ、ありません。どうぞ、お好きに。お好きに呼んでください。


 儚く歪んだ笑みを思い出す。
 寒気がするほど、きちんと作り込まれた笑顔だった。
 1人で佇むあの兎が苦しげに見ているのは、これは推測だが――自分のことだろう。無線に満ちた凄惨な死を迎えたか、やり残したものがあったか。育ちは劣悪でなさそうなので、想像に難いところはあるが。

「……まぁ、お前はそう呼んでやるなよ、アリス」

 誰にそう呼ばれるのを肯定できても、きっとアリスは駄目だ。

「もちろんよ! そんな格好つけた呼び名じゃつまんないもの」

 人の死も絶望も凄惨も知らない、無意識にそれを与えもしない、だからアリスの言葉は根拠のない、強すぎる自信に満ちている。
 彼女はこの学園で、誰よりも何も知らない。
 臆病に笑う兎を無遠慮に掴まえて、好き勝手に愛でられるのはこんな奴くらいだろう。こんな、狭くて湿っぽい学園の中では。

 あぁ、だってみんな一度死んでるんだから。
 そりゃあ空も狭いし、名前も無い。
 あるのは後悔と、悲哀と、せいぜい絶望くらいだ。


 ――初めまして、芋虫。おじさまから話は伺っています。

 ――言いたいことはあるでしょう。ただ、ここでは生きる他ありません。残念ですがアリスが夢を閉じるまで、生き存えてくださいね。夢を楽しむも嘆くもあなた次第ですが、楽しんだ方がいいですよ。望まぬ結末にならぬよう、程々が良いでしょうが。


 彼女にとって、ここにいることはきっと絶望なのだ。



「創作アリス、コラボでも慰涙側でも」
dear 伽さん
from 彼住遠子

20171012

 



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