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「時間を、巻き戻せたらいいのに」

 蒼はそう言ったきり、絶句した。その場に立ち尽くして、碧のことをみていた。黒は苦しそうに顔を歪め、碧は静かな表情のまま、弟の視線を受け止めていた。俺は三人の表情を淡々と眺めながら、蒼が口にした願いが、自分にはまるで無縁であることに、そっと息を吐いた。
 冬も近い秋だった。終わりが、ひたひたと押し寄せていた。それは絶望によく似た色をしていた。
 蒼は、碧の名前を呼んだ。双子であるのだから、名前を呼ぶこと自体がおかしいわけではない。俺が碧の名前を呼ぶよりも確実に、蒼は碧の名前を呼べる。そのはずで。

「碧」

 うめくような、絞り出すような声だった。姉弟だからか、さすがよく似ている繊細な顔立ちには、いまにも砕けそうななにかが、浮いていた。もう、生きてもいけないような。死ぬことも出来ないような。どこにもいけないような。
(おかあさん――、)
 いつかの日に、母の名前を呼んだ、俺に、とても近い、壊れそうな姿だった。

「僕は、ずっと待ってた」
「……」
「だって、いってきますって――あのとき碧が、言ったから。いってらっしゃいって、僕も言ったから。帰ってくるって、思ってたのに」
「……」
「信じて、たのに」

 信じる側はいつも滑稽だ。
 相手がもう帰らないかもしれないのに、その恐怖に瞼が焼けそうになりながら、ずっと待っている。それでも信じている。待たせる側には、永遠にわからない痛みだ。
 俺は、待つことを諦めようとした。している。黒は待つことに耐えきれずに、捨ててしまった。俺達には蒼の痛みはとてもよく理解出来て、だけれどそれを手放さずに抱え続ける蒼を、同時に理解出来なかった。
 碧は、どちらでもあった。
 ずっと、蒼や黒に、待たせていた。ずっと誰かを待っていた。誰かもわからない誰かを。誰よりも不毛に待ち続けていた。
 だけど誰も来なかった。
 俺達がどれだけ待っても、来てくれなかったみたいに。待ってたら帰ってくるなんて、そんなの嘘だ。そんなの夢だ。現実じゃない。都合のいい作り事に過ぎない。

「僕が碧を見つけても、碧は帰って来なかった。碧を見つけたのに」
「……」
「そうして、そのまま、碧は」

 その次の言葉を、俺は知っている。黒も知っている。蒼にそれを教えたのは俺だった。碧に話してはいけないよ、と言ったのも。
 乾いた音がした。惨めなほど、つまらなく響いた。蒼は茫然と、たったいま自分の頬を叩いた男の顔を見た。黒はいまにも泣き出しそうな弱々しい顔をして、首を横に振った。言ってはいけない。

 碧は弟と黒から、そっと目を逸らした。知らないことは救いにならない。言わないから誰かが救われることなんてない。自己欺瞞に他人を付き合わせたって、終わりは来てしまう。そうして絶望して、死なせてくれと泣いてももう遅い。
 黒のしていることは、無様だった。愚かだった。そんなにまでして失いたくないものがなんなのか、俺には理解しかねた。

「……蒼。もう帰ろう」

 俺はそこで初めて口を開いた。野菜ジュースはまだ一口分しか減っていない。蒼はふるえながら、俺が自分の腕をつかむことを受け入れた。黒が頼りない視線をこちらにわたす。
 壊れてしまえばいいのに。
 守りもせず、隠しもせず、壊してしまえば、失ってしまえば、いっそのこと楽になるのに。人間は喪失に慣れないあまり、醜い道化を演じている。それを不幸だと嘆くくせに。

「碧、今日はもう寝たほうがいい。身体も疲れているだろう。おまえは軟弱なのだから、無理をしてはいけないよ」
「……えぇ、そうする」
「ゆっくり寝て、食事をとって、体力をつけるんだ。そしてなるべくなら、次までに蒼への返答を考えておくべきだ」
「……えぇ」
「じゃあ、また来るよ」

 青ざめ、碧の短い言葉を聞いていた蒼は、俺に引っ張られるままに、黒から離れた。明日学校には来ないかもしれないな。結構に傷ついているようだから。

 ――時間を巻き戻せたらいいのに。

 時間を巻き戻せたら、もう二度と同じ間違いをおかさないと、本当にそう思っているのだろうか。何度繰り返しても、結局傷つくだろうことを、どうしてそんなにも否定したがるのだろうか。自分がどうしようもないことを、そんなに認めたくないのだろうか。
 あのころの俺も。すこし前の黒も。いまの蒼も。
 玄関を抜けてから、蒼が、ふるえる声で呟いた。ゆるさない。

「――蒼」

 そんなことがあるものか、この世界に。そんな思い込みが成り立つはずがない。この世界で。
 だけれど蒼は言った。俺にしか聞こえないのに、おそらくは姉に、黒に向けて、口にした。なにかの小説にも出てきたような台詞だった。ひどく非現実めいていた。

 死んでもゆるさない。



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