abysstar | ナノ


 柊碧はどこにでもいるような、ごくふつうの容姿をした、それでいてせかいからはみ出した少女だった。愛情を知らない、放浪にまかせてじぶんを壊してきた、そんな少女で、ひとりでは生きていけないようなつたない女だった。

 その日はさえざえとした空に星がまたたく、雪が降りそうに寒い夜だった。柊碧は、真冬の風にかき消されるように心臓を奪われた。俺には、大切に抱えていた地球を壊されたようにおもえた。
 携帯を持たせていなかったことを、いまさらに後悔した。ほんとうにいまさらだ、とおもったのは、抱き抱えた柊が弱々しくわらったからだった。こんな笑いかたが一番嫌いだと、俺が言ったのを、彼女が忘れるわけがなかった。俺よりずっと聡明で、知らないことは人間のそれしかないような少女だった。

「おそいよ、くろ」
「……ごめん」
「寄り道してたの? ……まさかね」

 ひびのはいった声を絞り出す柊のからだを抱える俺は、真冬の寒さではないものにふるえあがった。それはずっとむかしにも感じたことのある、ひとが終わる気配を感じたからだった。
 人間の終わりが、せかいで一番嫌いだった。きっとこの先も、すきにはならない。永遠はこの世に存在しない、幸せは生存のせかいだけに存在するからだ。俺というみじめな男を作り上げていたその思考が、柊の終わりに頭痛を起こす。

 なんで。絞り出した。俺の声も彼女に似合いの掠れたもので、柊は満足そうにわらって、一息ついた。呼吸が尽きるのではないかとひやりとして、この数分に俺も死んでしまうのだとおもった。もうだれの終わりも受け入れないと、柊は俺のわがままを、仕方ないと慰めていたのに。慰めは、ねぇ、むだだったのか全部。

「なんで、柊」
「なんで、って、なにが」
「どうして俺に、電話した」

 公衆電話から、いつもかけてくるのは俺の携帯。知り合い全員の携帯番号を記憶していて、俺みたいな人間が最高に気にくわないと、いつも豪語していた君だったのに。どうしてそんな気にくわない屑に、電話をかけて、まるで最期をみつめろとでも言いたげに、自分の居場所のヒントを出して。
 柊碧は笑うのが下手な女のはずだった。俺のまわりにいる、笑うのが苦手なばかりの人間達のなかでも、とりわけて。なのに彼女はずっと笑っている。ずっと。おかしかった。
 いったいどれくらい彼女といたのか、多分一年も経っていないだろう。たくさんの彼女をみたつもりでいたが、それはみただけで知ってもいなければ理解してもいなかったのだと気づいて、ぞっとした。俺はこうやってまた、あのときと同じようにひとが死ぬのを虚ろに眺めるのか。

 わたしは、
 柊が口を開いた。凜とした彼女の声が、いまは風にひびわれてうまく聞こえない。
 怖い。
 怖くて、脳がちぎれそうだった。

「私は黒のこと、とくに好きでもなかった。一緒にいて退屈だし、怠惰に生きるにはちょうどいいくらいの他人。私の、男じゃない」

 知ってる。それは知ってる。
 俺は一度だって柊を抱かなかったし、柊と一緒にいるために彼女とは別れたけど、友人との付き合いはいままで通りあった。それを柊がとやかく言ったことはなかった。
 だから俺は、柊の男ではない。唯一無二の愛情を向ける対象ではない。お互いにそれを噛み砕いて、かまわないだろうとわりきって一緒にいた。
 柊は苦しそうに胸を上下させながら、続ける。冬にしては薄着の彼女に、着ていた上着をかけて、それを聞いた。

「どうせ私は、死ぬし。それはわかってたよね。黒は頭がいいから、まわりには隠せてたけど、残念私より黒は馬鹿だから、私にはバレバレなのでした」
「ひいらぎ」
「優しさのつもりだとしたら、笑うけど。私がだれのことも愛さずに、朽ちて死んでも黒はかまわなかったのね」
「違う、」

 言ってから、なにが違うのかと考えて、なにも違わないのではないかとおもった。思考が毛細血管みたいに枝分かれして心臓に喉に絡みついて、吐きそうになって、いやな汗が吹き出してきた。
 医者を呼ぶから。生きよう。それだけ言えばよくてそれだけすればよくて、なのに俺は柊の言葉にふるえているしか出来なかった。怒りかあわれみか、柊が俺にくすりとわらった。

「星がよく見えないの、黒」

 あのときは、あんなにきれいにみえたのに。彼女のそれが嘘でないとしたら、間違いなく彼女は深海に息を奪われている。俺達の頭上で星はうそみたいに輝いて、自然のプラネタリウムの中にいるようにきらきらしたせかいだったから。
 深海から星をみたら、きっとうまくみえなくて泣きたくなるだろうと、言ったのはたしか俺で、ロマンチストは情けなくて嫌いだと、俺をけなした彼女がいま、深海に沈んでいる。ひとりきりで。

 柊が空を指差す。
 木々が、風にきしみ揺らいだ。

「黒が一番、私をどうでもいいとおもっていたのに。そんな男にうそをつかれたまま死ぬのは、世界一癪だよ。
 私は、幸せになりたかった」

 胸に突き刺さった。柊の言葉は、ただしく俺を貫いた。雛菊や千振から放たれる言葉とはわけがちがう重みと、痛みを持って。
 許されない。きっともう、彼女は俺を許さない。死は最大の呪いで、終着点だ。終着点の感情を俺に向けている女に、俺はなにを差し出したらいいのかわからなかった。

「くろ」
「……柊?」
「あのね、黒。私が幸せになれる魔法の言葉、教えてあげるよ」

 いい。そんなのいらない。聞きたくない。
 色素の薄い瞳から、だんだんと光が消えていくのをみながら、吐き気に耐えきれなくなりそうなまま、俺は彼女にすがりそうなのをこらえていた。助けて欲しかったわけじゃない。愛せと言いたかったわけじゃない。ただ、そこにいて、当然のようにありふれた嫌悪を向けていて欲しかった。安定した感情を渇望していた。
 それが、柊碧を終わらせた。

 唇が動く。音はせかいから消えた。

 愛してるよ。

「あおい、」

 終わりの言葉。
 腐り落ちた星の匂いが、せかいいっぱいに広がって、風が木々と、彼女の髪を揺らした。音がよみがえる。
 痛みもなにも教えないまま、彼女は俺の腕の中で、まるで悲劇を体現するかのように終わりをみせた。

 最後にみせた愛情の匂いが、いつまでも俺のからだに染み付くようにおもえた。もう、誰も抱けやしない、そうおもった。
 柊碧。
 空から星が消え始めた。もうすぐきっと、雪が降る。そうしたら俺は、どうやってこの耳にひっかかったピアスをちぎればいいだろう。



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