理由


「先輩、なんで帰ってきてたこと教えてくれなかったんですか?」

冷たい手を掴みながら先輩を見上げてそう言うと、先輩は僅かに目を見張った。思ったより強い口調になってしまって俺は後悔する。違う、責めたいんじゃないのに。熱がぶり返したのか顔がひどく熱いし、心臓がドキドキする。

「……ごめんね」
先輩のもう片方の手が優しく俺の髪を梳いた。

「――実は向こうに着いてすぐ事故に遭って。記憶がちょっと飛んでるんだ。朝のことも最近思い出した」
「え?」
頭が真っ白になった。事故って何?

「横断歩道渡ろうとしたら信号無視した車に衝突されたんだ。幸い当たり所が良かったからこうして生きられてるんだけど、記憶が一部欠損してて」
「そんな」
言葉を続けたいのにショッキングな事実に驚きすぎて何も出てこない。何も言えずに口をぱくぱくさせる俺を見て先輩は何を思ったのか目を細めた。そしてその細くて長い指で俺の前髪を持ち上げた。先輩が中等部時代に俺によくしていたスキンシップだった。

「――ごめんなさい、俺、何も知らなくて」

掴んでいた手を離し震える声で謝ると、先輩は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。先輩の手が俺の耳に移動した。

「いいんだよ。また仲良くしよう。そうだ、最近放課後美術室にいることが多いから今度遊びに来なよ」
「美術室?先輩絵なんて描いたっけ?」
「向こうで入院してた時から描き始めたんだ」
この美しい人が美術室でキャンバスに絵を描いている――その光景そのものが絵になりそうだ。見てみたい。絶対目の保養になる。

「あれ?まだいたの?次の授業始まっちゃうよ?」
コップに入った水を持ってきた卯月先生が戻ってきた。先輩は俺から離れて保健室の扉に手をかけた。

「あ、もう戻ります。湿布ありがとうございました。じゃあまたね、朝」
「はい、また」
保健室を出て行ってしまう先輩に寂しさを感じつつ、俺は緩く手を振って見送った。先生が近づいてきて、俺にコップを渡した。

「ありがとうございます」
「結城くんと知り合いなの?」
冷たい水を一気に呷っていると先生が眼鏡を取りながらそう尋ねてきた。

「はい、中等部の時からよく面倒見てもらってて」
「そうなんだ。知らなかったな……」
先生はそう言って白衣を脱ぎ椅子に掛けた。
先輩と俺が仲良かったことを知っているのは、鏡くらいだと思う。泉くんでさえ知らないはず、多分。

「――ちょっとだけ出かけてくるね。次の授業が終わるまで寝ていなさい。誰か来ても相手しなくていいから」
「あ、はい」

先生は俺を一瞥すると忙しそうに保健室を出て行ってしまった。一気に怖いほどの静寂が押し寄せてきて身体に寒気が走る。落ち着かず、俺は空になったコップを適当なところに置いた。ふいに机の上に置かれた名簿が目に入って、手に取る。小栗の丸い字で書かれた「榎本朝」のすぐ下に、「結城穂積」の字があった。硬筆のお手本のような字で書かれたそれに、俺は指を滑らせる。

先輩、事故に遭っていたなんて。
知っていたら、あんな恥ずかしい質問しなかった。
俺は名簿を元あった場所に置いてベッドに戻る。自分の体温でぬるいベッドに未だ怠い身体を横たえて布団を被るが、全然眠気が来なくて、俺はボーッと天井を見つめた。

――先輩は事故でどのくらいの怪我を負ったんだろう。後遺症は?記憶障害だけ?きっとリハビリも大変だったに違いない。先輩が負った外形的な傷や心の傷を想像して俺は心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。
……そうだ。
記憶を無くしているってことは、先輩が学園を去る前、俺と最後に会った日のことも忘れてしまったんだろうか。いや、あの感じは忘れてしまったんだろう。

――あの日は何か思い詰めた表情をした先輩に呼び出された。そして放課後に図書室に行ったら外国に行くことを告げられて、そして…。

図書室で触れた先輩の体温を思い出して、俺は勢いよく布団を頭まで被りギュッと目を閉じた。
あの日から俺はずっと胸にしこりを抱えたまま過ごしてきた。それなのに先輩は忘れてしまっているかもしれないなんて。こんなことになるなら、あの時。

「だめだ」
後悔しても、何もならない。ただ、苦しいだけ。
自分の切羽詰まったようなくぐもった声が布団の中で響き、俺は自嘲した。体調が悪い時はマイナス思考になりやすい。とりあえず今は寝て早く風邪を治そう。


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