「………おや?可愛らしいお嬢さんがお独りでいらっしゃるとは珍しいですな。」


眼鏡を掛けた鼠耳の老人(というよりは初老か)はフロントの掃除をしながらこちらを向いた。



(人間………なの、だろうか)



姿形や話し方は人間だが何より頭には鼠色をした大きな丸い動物の耳が付いていたのだ。

………とりあえず、そんなのは某夢の国にだってたくさん生息しているのだからスルーする事にした。
まずはこの老人の話を聞いておこう。


「あの、私」


「お独り様ですか?此処へはご宿泊で?」


手にしていたモップを壁に立て掛け、老人はカウンターから少々埃っぽい帳簿のような物を取り出した。


「ああ、いえ、違うんです。此処には迷い込んじゃって。」


「成る程、この周辺は迷い易いですからねぇ。若いお嬢さんがお独りで、ご苦労様です………」


ヒッヒッヒ………と妙に怪しい笑い方をする老人は帳簿(あ、よく見たら宿泊記入簿って書いてあった)をパラパラと捲りながら答えた。


「それであの、迷惑でしょうが、道を教えて頂けないですか?」


「道………ですかな?はて、何処まで?」


「はい、えっと……」


私は此処に来た経緯と、自分の住所を老人に伝えた。


「………ふぅむ………長年此処にホテルを構えておりますが、その様な所は分かりませんなぁ………それにそんな状況のお客様は貴女が初めてでしてねぇ………」


「そ、そんな………どうしよう………」


あんな昼間に突然居なくなったのだから親も心配するだろう、それに――


―――?
そういえば………どうして突然夜になったのだろう。
というか道に迷ったとかそれよりも聞きたい事や不可思議な事はもっと有ったと思うのに、どうしてか思い出せない。
脳の一部がまるで鎖に繋がれたかのように。



「………そうだお客様、とりあえず今夜はもう遅いですし一晩でも泊まって行ってはいかがですか?」


「えっ!………でも、私………」


「いえいえ、良いのですよ。今丁度掃除の終わった空き部屋がございますから、御案内いたします。ヒッヒッヒ……」


「は、はい、ありがとうございます!」


なんて優しいオーナーさん(おそらく)だろう。

………あれ?
私何かもっと疑問に思った事が有ったのに、よく分からない。
けれど右も左も分からない所をさまようのはよくない、今はこの人のご厚意に甘えよう。









このホテルは随分年季が入っているらしく所々ギィギィと音を立てたり小さな穴が空いたりしている。


「ああ、そういえば申し遅れましたが私は支配人のグレゴリーと申します。貴女のお名前は?」


「あ、はい。えと私、名前って言います。」


少しはこの人――グレゴリーさんと会話するのも慣れたのか最初の緊張も段々とほぐれてきていた。


「分かりました、名前さん、ですな。早い内に住人達にも伝えておきますので本日は心配なくご就寝下さいませ………ヒッヒッヒ」


「はい、ありがとうございます。」


「えー……あ、はい、此処ですな。201号室になります。」


「分かりました。わざわざ有難うございます。」


「ヒッヒッヒ………それでは、良い御滞在を………
  永 遠 に ……… 













バタン、と扉を閉め念のため鍵も閉める。

見ると其処はよくある洋風ホテルの一室で、年季は来ているが清潔にされていた。
1人分だが私が泊まるには勿体無い感じもした。
何せこういう所に泊まるのは初めてだから。


(ホテル………というよりはアパートかしら)


グレゴリーさんは住人、と言っていたし住み心地もよさそうだ。アパートという見解は間違いでもないだろう。
例えば私のように急な客対策として1、2部屋は空けているがあとは永久滞在者で埋め尽くされているのかもしれない。
今まで嫌に現実的だった脳も冷静なままではあるがまるで靄が架かったように何でも妙に納得しまうようになってしまった
………別に良いけど。



『………やはり、キミもかニャ。』



突然甲高い声が響く。
夜なのに何だろう。


『この世界に来た迷い人はそうやって段々と脳を侵攻されていくのニャ………』


どうやら声の主は隣の部屋のようだ。
私が寝るには不自由がない程度だが嫌に響く声で、私はどうにも気になりゆっくりと部屋から抜け出し隣の部屋の扉を躊躇なく開けた。






「………やはり来たかニャ」


格子窓のついた重たい鉄の扉を開けると、中は一面石畳で家具も窓さえもなくまるで牢獄の様だった。


そして視線を落とすと其処には顔も含め体中継ぎ接ぎで紫の髪色と赤い眼が印象的な猫耳の少年が鎖で繋がれていた。


「………そんなに僕が怖いかニャ?当たり前だニャ、怖くなくても可哀想だろうニャ……」


「え?ああ、ごめんなさい、何かのプレイかと」


「………ぷれい?」


「まぁそれは置いとくとして…貴方は……?」


「………僕の名前なんてとうの昔に無くなったニャ。でもあの老鼠はネコゾンビと呼んでいるニャ。」


「ネコ………それでネコ、やはりって?」


「キミは現実世界から来た迷い人ニャ。だから一刻も早く現実に帰らなければならないニャ。」


「………そう、そうだ私、早く帰らないと母さんや父さんも心配して………」


「まだ繋がりは有るみたいだニャ………良かったニャ。」


「………ネコ、貴方は何を知ってるの?お願い、話せる範囲で良いから話して。」


「………分かったニャ。


此処は現実に不満を持つ者が訪れる世界ニャ。
不満というのは曖昧で目に見える物も有れば自分も気付かないような…深層に潜んでいたりもするニャ。
そして現実から此処に迷い込み、現実に戻らなければその人間は此処でさまよえる魂となり一生元には戻れなくなってしまうのニャ……此処の住人だってそうニャ、僕も含め皆現実へ帰れず堕ちた人間達ニャ。
だから、早く現実での不満を見つけて未練を理解し、此処への未練を断ち切らなくてはならないのニャ。」



(……ええ、と)



とりあえず此処と別の生活に私が帰るべき場所は有って。
其処へ帰らなくちゃ行けなくって。
でも帰る方法は自分で見つけなくちゃいけなくって………。


「僕にはキミが一刻も早く脱出できるように願う事しか出来ないのニャ、頑張るのニャ」


「……ありがとう、ネコ。貴方は優しいね。」


少し躊躇いは有ったが試しに喉元を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めてゴロゴロと鳴いた。
なんだ、可愛い子だ。


「ありがとう、話してくれて。私、頑張る」


私は立ち上がりネコの部屋を出る。
ネコは鎖の音をジャラジャラと鳴らしながら小さく手を振ってくれていた。









自分のベッドへとダイブする。
ただでさえ色んな事が有って混乱寸前(あくまで寸前)なのに夜中にあんなに説明されて必死に聞いたらどっと疲れが流れてきた。




………とにかく帰る方法を探すには情報収集しかない。
私は明日の事を考える暇もなく制服のまま眠りについた………







こうして
私の長い1日は終わりを告げた………