xxxx年 xx月@
ファミリー層が多く入居し、人の入れ替わりがあまりない団地のマンション。
お受験だなんだといって子供のライフステージが変わるころに引っ越す家族は多くない。
そんな中で、夏油が年端もいかない時にたまたま空いていた隣に引っ越してきた家族は1年と経たずにまた別の地を求めて去っていったことは記憶に強く残った。
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雨がしとしとと耐えずに降り、降らずとも機嫌を損ねている太陽が青空と共に姿を表すのがまれな時期だった、と夏油は記憶している。
春でもないのに珍しいな、と玄関先に積み上げられた段ボールの山々から夏油少年の母親が「転勤かしらね」と夏油に投げかけ、スーパーの袋を抱え直した。鞄に手を差し入れ、家の鍵を探す。
平日の昼下がり、夏油はお菓子を買ってもらうことを条件に喜んで母親の買い物について行った。
夏油はそんな時期ハズレの隣人のことはどうでもよく、買ってもらったおもちゃ付きのお菓子を早く開けたい気持ちでいっぱいだった。母親の呟きに反応し、ちらりと、騒がしく段ボールを運搬している作業員に目を向けたが、それきりだ。夏油の興味は今自分自身が抱えているおもちゃにしかない。しかし、家の前で封を破りなんのおもちゃが当たったか確認するのは我慢しなければならなかった。以前、はやる気持ちを抑えられずスーパーの帰り道に開封し、おもちゃは勢い余って袋を飛び出し排水溝にするりと収まった。夏油はそれがとてつもなくショックで、家について母親にカルピスを作ってもらうまで火がついたように泣き叫んでいたのだ。
夏油はその一件から学んだのだ。楽しみが抑えきれず力んだまま開封されたおもちゃはどこに飛んでいくかわからない、と。ならば、自分の勝手知りたる家で開封するのが1番いいと。
「お母さん、お腹すいた」
降り続く雨のように静かな声だった。
夏油はおもちゃを抱え直し隣人の方を改めてみた。
母親を見上げて静かに訴える夏油より小柄な子どもは年が変わらない印象だ。カーキ色のハーフパンツに白色のTシャツ。梅雨の時期を快適に過ごせるようにと短く切り揃えられた髪。
同じ小学校に通うことになるんだろうかと、名前はなんというのか、とほんの少しだけ興味が湧いた。
「これあげるよ」
夏油はおもちゃとは別に母親に買ってもらったラムネを取り出して少年に話しかけた。
少年は目を丸くして夏油を見る。
夏油は痺れを切らし、少年の手を掴んでその上にラムネを降らせた。
「私は夏油傑」
「う、うん」
「名前はなんていうの?」
ぐいぐいくる夏油にしどろもどろな少年は母親を見た。彼の母親は「名前を聞かれてるわよ」と少年の助けて欲しい視線を、人見知り故のものだと理解して様子を見守ることにしたようだ。
「傑! お隣さんは今忙しいからまた後で挨拶しにいこうね!」
夏油の母親は少し目を離した隙に息子が近くから消えていたことに血の気を引かせたが、すぐに隣人に話しかけているのを見つけて急いで飛んで行った。
それから母親同士の挨拶が素早く交わされて、夏油は母親に手を取られ引きずられるように家に入った。
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しばらく隣人の少年と遊ぶようになってわかったことなのだが、彼は体が弱く、彼にとって過ごしやすい快適な場所を求めて引越しを何度も繰り返しているらしかった。
しかし、体が弱いと思っているのは母親だけで夏油から見ると彼は健康そのものだった。
けれど、外に出るのをひどく嫌がった。
なぜ? と理由を問うても、外は怖いから、としか言ってくれない。
何が怖いのか? と問うても、何もかもが怖いから、と返ってくる。
外に対して異常に恐怖心を抱いている隣人を無理に連れ出すことはせず、基本的に、夏油の家か隣人の家で過ごすのがもっぱらだった。学校にも通っている姿は見たことがなく、彼の部屋にはランドセルがない。学校に頼み込んで特別支援の教室で授業を受けているようだったが、彼はいつでも家にいて、大量のプリントがいつも机に積み上げられているので、学校にはほとんど通っていないのだろうことはすぐにわかった。
夏油にとって彼はクラスメイトとなんら変わりない。違いと言えば家から出ないせいで日焼けしていない青白い肌ぐらいなもので、それ以外は本当に何も変わらないようにみえた。
でも、夏油はそれはそれで秘密の友達がいるような気分にさせた。
隣人が家からほとんど出ない理由を知ったのは、隣人に理由を聞いた日からすぐだった。
いつものように学校を終え、マンションのエントランスを駆け抜けてエレベーターのボタンを連打する。ダッシュで家に帰り、家の玄関にランドセルを投げ捨ててすぐに隣人の家に行くのが夏油の最近できた楽しい習慣だった。
ちんたら開く扉を辛抱強く我慢してエベレーターホールに躍り出た時に、そこのベンチにお目当ての隣人が座っていた。彼は騒がしい夏油には気が付かなかったようで、じっと、自分の家の方向を見ていた。
「なにしてるの?!」
夏油が話しかけると、体の緊張はそのままに、目だけでちらりと夏油の姿を確認しまた、自分の家の方を見た。
「家が怖くて」
「え?」
隣人の視線をたどり、夏油も重く閉ざされた玄関扉に目を向ける。
「一体どういうこと?」
「……」
口を固く閉ざしてしまった隣人の隣に座る。今度は同じ目線で玄関扉を見てみるが、これといって特別な様子はない。
隣人は相変わらず自分の家に視線を固定したままだ。
「くつは?」
隣人は裸足だった。ツルツルのコンクリートの廊下とは言え、裸足で歩くのは憚られる。いくらわんぱくな夏油でもそんなことをすれば母親に叱られてしまう。
「今日は私の家で遊ぼうよ」
「うーん……」
隣人の言葉に目を瞬かせる。
母親に怒られたなら家に帰るのが気まずいのはわかる。けれど、彼は家の方向に近づくこと自体が嫌なようだった。
「もしかして、何かいるの?」
「……」
夏油は隣人と同じように件の玄関扉から目を離さずにこそり、と小さい声で呟いた。
返事が返ってこないのを不審に思い、隣人の顔を見てみると、眉に皺を寄せ、口は固く閉ざされていた。
これは只事ではないぞ、と真剣な瞳を見てごくりと唾を飲む。
「多分時間が経てばどこかに行くと思うから」
「それまでどうするの?」
「ここにいる」
隣人の瞳の奥にかすかに見えた縋りたいような眼差しは瞬く間に身を潜め、玄関扉をじっと睨みつけた。
「それって、あんなの?」
夏油が指差した先には小型犬ほどの大きさの何か。肌は鳥の地肌のようにぶつぶつとしていて、色は濁った灰色だ。目はぎょろりとしていて視点は定まらずぐるぐるとまわっている。四肢はなく、胴体だけで、ずるり、ずるりとこちらに近づいていた。
「ひぃ……!」
隣人はその場で小さい悲鳴を喉に張り付かせて、ベンチの上に立ち上がった。
「見えるんだね?」
隣人は黙って夏油を見た。言葉にしなくても彼の反応からは夏油と同じものが見えているのは明白だった。
「大丈夫だよ。あれは最近できた私の子分。あれぐらいの大きさのは私が手を出すと黒い球になるんだ。それを飲み込むと子分になる」
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夏油に手を取られ、隣人は自身の家の前に立った。
中からはボソボソと人の声のような音が漏れている。
「いるね」
「うん」
逃げるように飛び出したから、家に鍵はかかっていない。
心臓がバクバクと飛び跳ねて気分が悪い。
夏油は隣人の震える手をぎゅっと握って、大丈夫だから、と慰める。
扉を開けると、不明瞭だった音がきちんと聞こえてきた。
「どうして」
「どこも悪くないはずよ」
「私の子どもが障害者だとでもいいたいの!? あなたの子でもあるのよ!」
「怖い」
「おかしいわ!」
「怖い……!」
「そんなはずない」
「おまえのせいだ!」
「きちんと躾をしていないから!」
「精神病なんて!」
「やめて!」
罵詈雑言。女の金切声と男の冷たい声音がぐるぐると室内を充していた。壊れたスピーカーのように何度も何度も繰り返し同じ言葉を吐き出す。
大人の手のひらほどの黒いモヤの中心は唇があって、そこから声がしていた。そのモヤは部屋の四方に散らばっている。
夏油はその光景に面を食らった。以前遊びに行った時は見かけなかったものだ。隠れていたにしたってこんなにたくさんの量。かき集めれば夏油が先ほど出した呪霊よりも一回り以上大きいだろう。
片手ほどの大きさのモヤがひとつ近づいてきて大口を開ける。
「なんとか言ったらどうなの!」
隣人はその叱咤に大袈裟に肩を揺らす。
「ママはそんなこと言わない……」
ぎゅっと握った手を見つめ、モヤを視界に入れないように努めて、か細い声で弱々しく反論する。近くにいる夏油でさえも聞き取るのに苦労するほどだ。
けれど、呪霊は下唇と舌を出してブーブーと唾を飛ばす。まるで喜んでいるかのようだった。
夏油がその姿に腹を立てて呪霊を出す。
すると、先ほどまでの威勢はどこにいったのか、ピャッと小さくなって四方に散らばっていた口たちがひとつに纏まろうとしていた。
だんだん大きくなるそれに隣人は及び腰で、夏油についてきたはいいものの、夏油を置いて玄関を飛び出したかった。けれど、手をぎゅっと握っているせいでそれもできない。
かわりに、夏油に縋り付くしかなかった。
夏油は怯える隣人を尻目に徐々に形をなそうとする呪霊に手のひらをかざした。
ぎゃっ、ひぇ、というつぶれた悲鳴と共に呪霊は渦巻きをかき夏油の手のひらに集まり、やがてつるりとした黒い玉になった。
隣人は目を丸々とさせ、夏油と黒い玉を交互に見やる。戸惑いを浮かべる隣人ににこりと笑いかけて夏油はごくり、とそれを飲み込んだ。
「えぇ!」
大丈夫なの?! いつもは蚊の鳴くような静かな声しか出さない隣人の大声を初めて聞いた。
夏油は彼は大きな声を出せないとばかり思っていたのだ。
「うん。大丈夫」
へへっと笑いながら隣人に格好をつけて見せた。本当はクソまずい呪霊玉をやせ我慢して嚥下した。
「あ、ありがとう」
隣人は夏油の両手をとって強く握る。よほど怖かったのだ。家が。そして彼がどこもかしこも怖いと言って家から出ない理由が呪霊のせいだということがわかった。だって世界は呪霊に満ちているから。
夏油と彼は呪霊が見えるもの同士、この日を境により友情を深めることになる。
どこに行くのにも夏油と一緒、夏油はニョキニョキと背が伸びるおかげで隣人はしょちゅう夏油のお下がりを着ていた。
そして夏油のおかげで隣人は夏油となら外出をするようになった。
これには隣人の母も大喜びで、隣人の母は自分の子どもの日焼けた肌を初めてみた。
日焼けして真っ赤になった肌を痛いと訴える姿に感涙するほどだ。
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隣人は学校に通うようになったものの、支援教室に時々来る程度だった。
来年は同じクラスになるといいね、とずっと一緒にいるおかげで兄弟だと学校でも外でも勘違いされ、訂正するのも諦めたころの春先に交わした言葉は叶わなかった。
隣人の母が明るくなった我が子に希望を見出し、より良い学校へと進学させるべく引越しを計画していたのだ。
それを知った隣人は火のついたように泣き続け、夏油の家から自分の家に帰らなかった。
けれど、子どものわがままを聞き入れてくれるわけはなく、隣人は引きずられるようにして半ば強引に団地を去っていった。
将来、またどこかで再開しようと約束をして。
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「彼に似てるんだよね、かさねって」
「そいつの名前は?」
五条の指摘に夏油は視線を遥か上の方にやってから、目を閉じ腕を組んで熟考してみたけれど隣人の名前は一文字も思い出せなかった。眉間に皺を寄せてみたけれど、口から出る言葉は唸り声だけだった。あんなに仲が良かったのにそんなことあるはずがない、と必死に当時の記憶をたぐり寄せるが、その努力は虚しい結果を迎えるのみのようだった。
「1年も一緒にいなかったけど、仲はすっごいよくて。でもどうしても名前が思い出せなくって……」
いや、でも明日になったら思い出せると思う、と頭を抱えていった言葉は誰も信じなかった。
話している最中にポロリと思い出すかと思っていたのに、夏油の記憶力はそこまで優秀ではなかったらしく、結局は隣人の名前を思い出すことは叶わなかった。
「高専に入学する可能性あるね。転校してくる可能性も」
「すごい可愛がってたんだ。弟のように」
当時を懐古し、おんなじ学校に通えたら嬉しいなぁとこぼす。あの頃はどこに行くのにも何をするのにも一緒で、本当に兄弟だと思って接していた節もあった。
成長した弟に会いたい兄心、というものがあるのであれば夏油の胸には今その気持ちが占めていた。
家入的は増えるなら同世代の女子の方が嬉しいなとタバコを取り出した。
「てかそいつのどこがかさねに似てんの?」
「言いたいことがあっても一回グッと我慢するところ?」
「あ〜」
それって、気を使ってるからじゃないの? と家入がツッコミを入れると、それを含めてと夏油はうなづいた。
「我慢の仕方がそっくりなんだ」
元気かなぁ、とぐずっている空をみる。台風が近づいているらしく、このところ天気が不安定で曇りがちだった。彼と初めて会った日も天気が悪かったよなぁ。
「んで、かさねは?」
「任務だって……3級なのにあんたらとおんなじように働かされて……」
はぁ、と紫煙を吐き出す家入は落胆の気を隠せていなかった。
「かさねと一緒に出かけたくても私と2人じゃ出かけられないし、かと言ってあんたら合わせて4人で出かけたくもないし、歌姫先輩は京都だし」
「おいおい」
「つれないこと言わないでよ」
よよよ、と落胆したふりをした家入に五条と夏油はツッコミを入れる。
「私だって心配してるよ。かつての兄弟に似てるから仲良くなりたいけど、本人自身が遠慮して萎縮してるし」
はぁ、とため息も溢れた。
「でもそいつ男だろ?」
「そうだね。でも似てるから」
夏油は間髪入れず肯定し、夏油の心配性もここまでくると一目置くものがあるなと先程思ったことを取り消さねばならなかった。異常な面倒見のよさは呆れを通り越して感心する領域だ。