2005年 8月A



 夏休み真っ只中、涼と娯楽を求めて談話室で大体決まった時間に集まるようになった。誰から言い出したわけでもなく、みんなが自然とそうした。授業がないので見るだけで暑苦しい制服は部屋のクローゼットに収められている。各々がTシャツにハーフパンツのゆるりとした服装で麦茶を飲んだりアイスを食べたりしている。
 
 8月の初旬はまま忙しく過ごした。夏休みに入る前に砕け散った恋心や成就した淡い気持ちなど、それらの恨めしい気持ちや相手を独占したいという欲求はきちんと呪霊となる。
 もちろん、夏休みに入った後のイベントとして学生ならば部活での夏合宿、夏祭り、海水浴。
 
 高専の1年である逢坂たちも任務があること以外の学生らしいことをするのに積極的で、この夏に行きたい場所を一人一人の希望を聞き計画を練った。五条は夏祭り。夏油は海、家入はカラオケ、逢坂はテーマパークを選んだ。
 
 夏祭りを主張した五条いわく、出店で売られている屋台に興味が深々らしい。
 お祭りで食べるからこそのおいしさがあると夏油から聞いた五条が好奇心が刺激されるままに屋台を巡りたいらしい。そしてそういう場に行ったことがないという理由もあった。
 夏油が海を選んだのは強い呪霊を手に入れるためだ。もちろん泳ぐことがメインではあるが、やれ足を引っ張られた、夜の海では人魚という名の人を喰う妖怪が出るなど夏にそういった怪談が盛り上がる。そしてそういうところに現れる呪霊を調伏したいらしかった。それを聞いて、相変わらず夏油らしいと思った。彼は強い呪霊を集めるのが好きだ。
 任務先では任務終了後に近場の心霊スポットやいわくつきという噂がある場所に赴いては呪霊狩りを楽しんでいるし。
 家入はインドア派なこともあり、前者2人のアクティブさを考慮して大人しく室内にいようと主張した。五条が任務後にみんなでカラオケ行くことは珍しくないからいつもと変わらないと言っていたが、朝から夜まで、そして深夜のオールはしたことないと言ったことで、そうか、と納得した。
 逢坂は特に行きたいところが思い浮かばなかったので、とりあえず有名なテーマパークを口に出しただけで、特に強く希望しているわけではなかった。
 
 夏休み中でも任務があることには変わりない。授業がなくなっただけでその分任務が増えた。
 まして実力は折り紙付きの五条と夏油が長期休みなんて取れるはずがなかったのだ。仕方なしに、長期出張任務に1年生全員で向かうということになった。そこで夏祭り、海、カラオケを存分に楽しもうという算段だ。逢坂が希望していたテーマパークからは遠く離れてしまうので、それはまた日を改めることになった。1日ぐらいであれば全員の休みを被せられるだろうと逢坂が遠慮したのもある。
 
 :
 
 眼前に広がるのはピンク色がかった薄紫の空、ところどころは燃えるようなオレンジ色で、目線を落とすとずらりとずっと続く出店たち。
 赤青黄緑白など、2畳ほどの大きさしかない色とりどりの出店がひしめき合い活気で満ちていた。手前の店は赤い暖簾でソースの香ばしい香りを纏った焼きそばを大きなヘラと鉄板で炒めていて、立ち上げる湯気は鼻腔をくすぐり、ぐう、と鳴るお腹を押さえた。その隣は白い暖簾で、つやつやと真っ赤な飴を纏った林檎や苺が、宝石のように煌めいている。向かいに行って青色の屋台は黒と赤の小さな金魚たちが水槽いっぱいに広がって、黒色の屋台は射的だ。流行りのマンガのぬいぐるみから少し前に流行った懐かしのものまで。目まぐるしく目移りする。
 
 屋台の軒先に吊り下げられている提灯に一斉に灯りが灯り、あたりがオレンジ色の光で満たされる。
 先ほどまで明るかった空は紫と紺色が混ざり、段々と闇に覆われ始めていた。
 空と提灯のコントラストと、活気ある屋台にわわ、と感動しそのまま足を進める。
 
「危ないよ」
 
 あたりに気を配らず歩き出した逢坂が前からお面を被ってかけっこをしている子どもたちとぶつかりそうになったところを夏油が肩を掴んで引き寄せた。
 ぐっと強く引き寄せられた逢坂は夏油の胸元の思わずダイブする。
 
「あ、うん。ありがとう」
 
 慌てて、バランスを取った。
 
 夏油は優しい。家入も、もちろん五条も逢坂のことを気にかけてくれているが、夏油は彼らより頭一つ分以上抜きん出て優しかった。
 任務のときも、授業のときも、事あるごとに気にかけてくれていると思う。現に今だって逢坂がぶつかって怪我をする前に引き寄せてくれた。
 夏油が気にかけてくれるたびにどきりとする。でもこの胸の高鳴りは恋とはいえなかった。不意打ちにみせられた気遣いに対する驚き、いや戸惑いだろうか。
 手に持っているうちわでパタパタと自分自身に風を送っている夏油の額は汗が浮かんでいる。
 
「ん? 私の顔に何かついてる?」
 
「ううん! 暑いね」
 
「本当に。堪らないよ」
 
 はぁ、と夏油はため息をつき、先程の逢坂と同じように目を輝かせて四方八方にキョロキョロと目移りさせている白い頭の五条を見た。
 いつもであれば、彼の目立つ白髪も今日は祭りの熱気に当てられた人々の目には止まらなかった。
 
「五条くんって本当の本当にお祭りに来た事ないの?」
 
「みたいだね。あのはしゃぎっぷりをみると本当にそうなんだって思うよ」
 
 五条は手前の白い暖簾の果物に水飴を絡ませている出店の前で、ここからここまで、と端から端を指差して、家入は「まじかこいつ?」という顔で五条を見つめ、店主はそんな注文を受けたことがないのか「え? 全部?」と狼狽えていた。
 夏油はため息をついて逢坂の腕を掴み、人混みを掻き分け五条の元に急いだ。
 
 ぐいぐいと進む夏油がいなければ逢坂は今頃人混みの中でもみくちゃになって五条と家入の元には辿り着けなかっただろう。時間が経過するごとに人々が増えていき、つい先程までは随分と奥の方の屋台まで見渡せたのに、今ではそれは難しい。
 夏油に腕を引かれるがままについていくが、何度か人混みにぶつかりそうになり、このままでは両者とも動きにくいからと、一度腕を離してもらった。横並びではなく夏油の後ろにピッタリとくっつき、人混みの中で夏油を盾にして進む。
 
「悟、これから先も似たような出店はあるから、ここで一気に買わずに歩きながら買えばいいよ。甘いもので腹を満たすのもどうかと思うし」
 
「え? そうなの?」
 
 財布から取り出した万札をしまうように指示して、キョトン顔の五条から300円だけ店主に渡すように言った。
 
「参道はまだ長いからもっといろんな店があるはずだよ」
 
「綿飴とか五条好きそうだと思うけど」
 
「わたあめ?」
 
 店主からいちご飴を受け取った五条は家入の言葉に食いつく。
 
「砂糖でできた雲みたいにふわふわな飴のこと。虹色もある」
 
「まじかよ!」
 
 五条は眉を顰めて、どうにも信じられないようだった。
 
 :
 
 家入の言葉が本当だったことに感動しながら、五条は片手にチョコバナナ、もう片手には特大サイズの綿飴を持って、食べるのに夢中になっていた。夏油は周りを見れていない五条の隣でたこ焼きを食べつつ世話を焼いていた。そんな2人を人避けにして家入と逢坂はラムネを手に持ち後ろを歩いた。
 
 すっかり暗くなって、等間隔に吊り下げられている提灯の明かりが頼りだった。
 もうあともう15分も歩けば山頂に辿り着くだろう。きっと花火が見たい人々で溢れかえり花火は満足に見ることができないかもしれない。ひょっとすると音だけしか楽しめない可能性だってあるかもしれない。それほどまでに今日の祭りは有名らしい。
 けれどメインは五条が屋台を堪能し尽くすということなので、本懐はもう遂げている。
 花火を見終わった後も帰り道にまた屋台で買い物ができるし、十分すぎるほどだ。
 
「五条と夏油はわかるけど、どうして私も名字なの?」
 
「え?」
 
 家入はカステラの袋に手を入れた。
 そして一つ口に運ぶと「うん、甘いな」と表情ひとつ変えずに袋の口を折った。
 
「”家入さん“ってよそよそしくない? 硝子って呼んでよ」
 
「……」
 
 同級生が名字でなくて名前で呼んで欲しいというのは信頼のあらわれだし、もっと仲良くなりたいという意思表示でもある。けれど、逢坂はその願いに応えることが難しいと感じていた。
 
 家入と7月のあの任務以降一緒に任務に行くことがなかった。もちろん、力不足の逢坂と一緒に行くより五条や夏油と一緒に行った方が家入にとっても逢坂にとってもいいに決まっていることはわかりきっていた。けれど、あれから逢坂と一緒に任務に行くのは五条か夏油、それか初めましての一級呪術師ばかりだ。階級が低い任務でも、だ。いくらなんでもこれは作為的に人選されていると、家入と被らないように徹底されていると気がつくのは難しいことではなかった。
 
 原因が家入にあるのか逢坂自身にあるのかわからなかったが、家入からの今の言葉ではっきりしたのだ。
 原因は逢坂にあると。やはり記憶喪失という点が高専にとっての懸念材料なのだろう。家入が逢坂を避けているかもしれないと言う予測は綺麗に消えた。
 自分自身に術式も正しく把握ができていないし。そんな逢坂が今よりも踏み込んで同級生たちと関わるのは双方にとってよくないのかもしれないのではないだろうか、という考えが逢坂を責める。
 
「……」
 
「まあ、いいや。これから徐々に慣れていってよ」
 
 顎に手を当てて唸る逢坂に家入はわかっていたとでも言うように、あっさりとしていた。
 
「あの2人の名前を呼ぶ前に私の名前を言えるように」
 
「う、うん」
 
 家入は逢坂を好意的に思ってくれているんだろう。でなければ、わざわざ五条と夏油を引き合いに出す必要はない。
 
 ――胸を張れるようになりたい
 
 今の逢坂には何もない。今まで逢坂を形作ってきた経験や知識といった記憶が。そのせいで全ての選択に対して自信が持てない。それどころか、保護されている高専からも信用をしてもらえていない。
 あくまでも逢坂は部外者に近い立ち位置なのだろう。反転術者はただでさえ貴重なのだから、不安分子と共にさせるより、身元がキチンとしている五条や夏油と接している方が家入にとっても高専にとっても安心できる。
 
 脳みそが激しく揺れる、感覚。
 
 ――ダメ! こんなところで! 食い止めなければ! そのためにここにいるのに!
 
 鬱々とした気持ちを抱えていた逢坂に鬼気迫った気持ちが込み上げ一気に満たして、感情を支配した。
 目を閉じて脳内に鋭く切り込んできた声に耳を澄ます。
 帳のおりた高専内のどこかにいるような景色が脳裏を駆け抜ける。
 
 ――この身を犠牲にしてでも守らなければ!
 
 強い不安感が胸に突き刺さった。そうだ。私しかできない。この時のためにここにいるのだという意思に突き動かされ呪力を練っていた。
 記憶を取り戻す手がかりかもしれないと、もう一度、衝動を頼りに記憶をたどり寄せようとするが、思い出そうとするたびにサラサラと景色は流れていき像が結べない。
 焦燥がじわじわと込み上げるだけで、先程の悲痛な声の正体にたどり着くこともできなかった。
 いや、きっと声の本人は逢坂なのだろう。結界が何重にして張られている高専が危機的状況になるなんて想像ができない。
 
 ふるふると、かぶりを振る。
 起きたまま夢を見ていたのか、じんわりと気味悪さが纏わりつく。嫌な緊張で喉が渇く。手に持っていたらラムネを飲み干してしまおうと右手を持ち上げると、結露によって生まれた水分のせいでするりと手のひらから滑り落ちる。
 
 かちゃん、と音を立てて転がったラムネ瓶はヒビが入ってしまい、中身も溢れてしまった。ヒビからじわじわと流れ続け、まだ半分以上も残っていた中身はみるみるうちに乾いた石畳が飲み込んでいく。
 しゃがんで拾おうとする。運良く人の流れも穏やかで、その動作を咎める人はいなさそうだった。
 瓶を掴んだ。と思ったのは逢坂だけで、実際に逢坂の指先はラムネ瓶を通り抜けた。暑さでぼんやりしてるのかな、距離感を見誤ったのかも? ともう一度手を伸ばす。その手は透けていた。本来なら見えないはずの石畳が手越しに透けて見えた。しゃがみ込んだ際に視界に入った足先も同じようになっていた。
 両腕を抱き抱え、さする。触っているという感覚がある。実態もある。
 さする手を移動させて指先を擦り合わせた。
 感覚が、ない。輪郭もぼんやりとしている、
 
 え、どうして。なぜ。
 一体何が自分の身に起こっているのか理解ができない。
 呪霊の仕業かも、と現状把握に努めようとする。しかし、五条と夏油の術式を感じないからその線はないだろう。
 あまりにも受け入れ難い光景にギュッと目を瞑る。次に目を開けるころにはきっといつもの景色に、体に戻っているはず。
 
 ――あれ、そういえば隣にいた家入さんは。
 
 明らかに様子がおかしい逢坂を放っておくような友人ではない。
 
「……!」
 
 けれど、いつの間にかいなくなった家入のことを考える余裕はない。今は息を深く吸い、体を突き破ろうと大きく鼓動する心臓を宥める。
 
「……! ……!」
 
 声が降っている。呼ばれているように感じた。
 あまりにも真剣な声音だ。一体どうしたのかと顔を上げた。
 
「? どうしたの?」
 
 勢いよく向けた視線の先には夏油がいた。
 夏油の声音は穏やかで、逢坂が聞こえていた鋭いものとは違った。
 
「……?」
 
 夏油は両眉を上げた状態で、不思議そうに逢坂の顔を見ていた。
 
 そこで思い出す。
 山頂にたどり着いた後、予想通り花火が到底見れそうにない人混み具合で、どうしようか、と呟いた逢坂に夏油が「え?」という顔をして呪霊を呼び出していた。
 夏油の使役する呪霊に乗って夜空の下、一等席で花火を楽しんでいたのだった。
 
「大丈夫? 貧血?」
 
「夏油くん……」
 
「本当に大丈夫?」
 
「うん」
 
「暗くてよく顔が見えないけど、本当? 嘘ついてない?」
 
 苦笑しながら夏油は逢坂の様子をうかがう。
 
「うん」
 
 夢心地で応える。逢坂はひびが入ったラムネ瓶を右手に持っていた。
 しゃがんだ後、きちんとラムネの瓶を拾って置いて行かれないように人混みをかき分け、3人を追いかけたことも思い出す。
 
「……硝子との話、聞こえてたんだけど。私のことも傑って呼んでよ。4人しかいない同級生だろう」
 
「そうだね」
 
 逢坂の反応がやはり鈍い気がして熱でもある? と夏油は頬に伸ばした。その夏油の手が燃えるように熱くて「あっつ!」と驚き、身を引いて「夏油くん熱すぎる!」ともう一度逢坂がいい直せば、くくくと笑った。




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