黒いモヤがシュルシュルと小さくなって、法衣を纏ったお兄さんの手に吸い込まれるように収まるのを見た。

「あ、あの……!」

モヤが晴れたおばさんは法衣のお兄さんを頭の天辺から足先までを何往復もしてから、今度は両手を合わせていた。口元がモゴモゴと動いていたのでお礼を言っているんだと思う。お兄さんは黒い球を手に持ったままそれに対して、遠慮をしている様子に見えた。
そのあと、気が済んだのかおばさんは揚々と大きな声でお兄さんにお礼を述べて、その場を去った。私は意を決して声をかけた。

「すみません……!」

「なにか?」

お兄さんはちらりとこちらに視線をよこし、すっと戻した。平坦な声で返事をし黒い球を袖口にしまう。
その黒い球を一体どうするだろう、そもそもあれを認知できる人が私以外にもいたのか、彼は一体何者なんだろう、見てくれのとおりに聖職者なのだろうか、どれを問い掛ければいいのか、そもそも問い掛けてもいいものだったのか、今更になって気がついた。怪しくはないだろうか。こんな真っ昼間から法衣の男がフラフラしているなんて。檀家の家に行くにしたってもうちょっと荷物が必要なはずだ。数珠や経典、替えの法衣を入れる風呂敷ぐらいは。

お兄さんはいつまで経っても口籠もっている私を置いて歩を進めようとするから、どうにか引き止めなきゃ! と思って彼の行き先に飛び出す。

「それ、どうするんですか?」

「それ?」

「く、黒い球です! 先程袖口にしまった……」

黒い球、というワードに彼の涼しげだった目元が細められ、じろり、と目線を向けられた。

「これが見えている?」

彼は袖口から先程の黒い球を取り出した。うっすら中心が黄金のようにきらめていた。今まで見たことない。不思議な色の石のようだった。

「はい」

「そうか」

彼の手に光を反射し収まっている黒い球は、先程のモヤからは想像できないほど静かだった。モヤはモヤのままではゾッとするのに、全身が泡立つというのに、玉になった途端にその禍々しさが全く漏出しなくなった。なにも知らなければ本当に綺麗な石だと思うほど。

「先程のモヤを今まで見たことはあるかな?」

「はい。日常的に」

「そう、それは大変だ。君の話は詳しく聞かせて欲しいけど、生憎今は時間がなくてね」

これを、と手渡された名刺には見たことのない名前だった。

「これは私が代表をしている宗教法人の名前でね。君が気になっていることの答えが得れる場所だ。明日は定期集会の日だから見学に来なさい。きっと君のためになる」

「はい」

にこり、と彼は笑い2、3歩進んだところで私を振り返った。

「君が紙袋に隠しているものについても教えてあげよう。それは今は害がない。1日ぐらい放っておいても大丈夫さ。必ず持ってくるように」

今度こそ彼は立ち去った。私は彼の背中が見えなくなった後で紙袋の中に入れた虫取りカゴに入れた爬虫類のようでそうではない、奇妙な生き物を見つめた。
その生き物は自由を得ようとカゴの中を這いずり回っていた。

:

翌日、私は彼のいう通りに名刺に書かれた宗教法人を訪れた。
初めてです、と信者だと思われる人に声をかけたが入信者の入口は向こうだと顔を顰められた。あれ、部外者だったのだろうか、そうだったら申し訳ないことをしたな、とお礼を述べて指し示された方向へ体を転換する。

どんな人間にも門扉が開かれているらしく、えらく開放的だった。受付もなければ、受付をしている人もいなかった。あったのは、お布施箱、といえばいいのか、信者たちが頭を下げて財布から紙幣を取り出し、恭しくお金を入れる箱だけだった。

私はそれを横目に素通りして、会場に入り、ぎゅうぎゅうに詰まった会場の後ろの方に座った。
前列は到底座れそうになかった。もちろん熱心そうな信者が姿勢を正して鎮座していたのもあったけれど、黒いモヤが怖くて近寄れなかったと言った方が適切だった。
紙袋で隠した虫かごの中身もモヤに感化されたのか、線香の香りに反応しているのか、ガザガザと激しく這いずり回っていた。

いつになったら始まるんだろう、そう思いながら、正座を崩したり、紙袋の様子をみたり。それは、がざごそとうるさくカゴの中を活発に動いているのに、誰もが気づいていない様子だった。ペットは同伴可能だ、とでもいう具合だ。誰も紙袋に目線を向けず、気にも留めない。ひょっとすると私の自意識が過剰だったのかも。煩いなぁ、静かにじっとしておいてよ、と紙袋に対して苛立ちを感じていたのは私だけなのだろう。

今か今かと会合を心待ちにしている静かな人々の想いに息が詰まるような気がして、私は会場を出た。
勢いで来てしまったけれど、どうやら場違いのような気がする。するというよりも場違いだとはっきりわかった。敬虔そうな人々ばかりで、心の底から信仰を渇望している人々に、道端で名刺を渡されただけの私では意識に雲泥の差がある。
はあ、とため息が溢れた。

仕方がない。昨日のモヤを黒い球に変化させたお坊さんのことは気がかりだったし、虫かごに入っている醜いトカゲもどきのことも知りたかったが、今まで知らないままで特に支障はなかったから、このままでもいいのかもしれない。いや、きっといいだろう。
乾いた喉を潤すためにカフェに入ろう、そう決めて観音開きの扉に預けていた背中を起こした。

「おや、もう帰ってしまうのかい? 今日は都合が悪かったかな?」

はっと声がした方を見た。
そこには昨日のお坊さんが腕を組んでこちらに向かっていた。

「場違いな気がして、その、すみません」

彼はその言葉にクスリと笑う。

「場違い、場違いねぇ。確かにそうだ。連中と君とでは。君は彼らの中に入るのは相応しくない」

「?」

「こちらに来なさい」

私は言われたがまま彼の従い後ろをついて行った。ゆったり歩く彼の法衣姿はなんだかひどく心が落ち着いた。
ついていった先は先程の会場の裏手。つまりは、関係者以外は入ることの許されていない舞台袖だった。

「見ていなさい。君はあちら側ではなく、こちら側、だからね」

私に優しく言い聞かせるように彼は壇上の中心に歩んでいった。いくつものスポットライトが彼に浴びせられてそこだけぽっかりと空間が浮かび上がっているよう。
彼は前列にいる数人を呼び出し、昨日のおばさんと同じように手をかざす。そうしたらシュルシュルとモヤが集まっていって、信者たちは信じられないような面持ちになり、そして感涙の涙を浮かべていた。

「夏油様! 嗚呼! ありがとうございます! 本当にどうお礼を言ったらいいのか!」

「夏油様に出会わなければ私は一生この辛い悩みと共に生きていかねばならなかったでしょう」

「嗚呼……嗚呼……」

さまざまな声に対して夏油様と呼ばれた彼は「困った時はお互い様です」と柔和な笑みを浮かべた。それに対してさらに信者たちは「嗚呼……」と声にならない歓喜を滲ませる。

その一瞬のお祓いが終わると、彼はさっさと信者を壇上から下ろし、彼自身はこちら側へ向かってきた。
舞台上にはもう姿のない夏油様に対しての声援が絶え間なく叫ばれていた。

「さて、これの説明とその中身について教えてあげよう」

彼はいまだ背に喝采を浴びてるが、迷惑そうに眉をひそめ、煩いから場所も変えようか、と私の背中を押した。

:

大きくふかふかのソファーと背の低いテーブル、そして、湯気が立ち上がる緑茶。
彼はソファーに体重を預け、肘置きに正しく肘を置いて頭を支える。
一方私は、できるだけ体重を分散させまいと、できるだけ小さくなって、両手は膝の上に揃えて、紙袋は足元に置いた。

「君が見ている黒いモヤは呪霊という。負の感情の塊さ。それはそのままにしておくと事故や事件に繋がったりもする。そして私は呪霊を祓うことのできる能力を持っているんだ。見た通り、モヤを黒い球に変えることができる。次に、その紙袋の中身だけど」

ちら、と彼が紙袋に視線をやる。
私は紙袋から虫かごを取り出した。先程とは変わって今はずいぶん落ち着いているみたいで、本物のトカゲのようにじっとしていた。

「君は、これを呪霊と思っているようだけど、私と同じく呪霊を祓う力だよ。私も一瞬呪霊かと思ったけど、今確信したよ。私が祓う必要はないね」

カゴから出してあげるといい、どうせ私たち以外には目視できないのだから、と優しく言ってくるものだから、安心してパチンとカゴの蓋を開けた。トカゲもどきがパタパタとカゴから抜け出し、テーブルに転がり出た。
やはり見た目は奇妙なトカゲで、見たことがない。

「君の術式かな? 式神?」

「術式ってなんですか? 式神って?」

「そうだね。術式は呪霊を祓う力だよ。君の呪霊を祓う能力は式神なのかと思ってね。式神というのは君の意思で使役できる呪霊とでも思っておけばいい。……今まで使ったことは?」

「ないです。これに気がついたのはつい最近で。呪霊はずっと見えてたんですけど」

「なるほど。わかった。じゃあ、今後呪霊をみつけたら私に連絡するか、ここに連れてきなさい。自分のためになる」

:

「へぇ、火を纏うトカゲか。聖なるを燃え上がらせ悪なるを消し去る。いいね。火炎信仰だ」

通っている大学で呪霊がいると伝えて写真を送ってみたところ、祓い方を碌に知らない私には手に余るだろうから、こちらに向かうと言ってくれていた夏油さんが現状を見ていった。
大学にやってきた夏油さんにこちらです、と案内した先の呪霊は私の式神らしいトカゲもどきが火を吐いて燃やし尽くしてしまった。実際には燃やし尽くされる前に夏油さんが呪霊玉にしてしまった。

結局トカゲもどきが吐いた火のせいで近くに火が燃え移り軽いボヤ騒ぎになってしまった。厳粛な大学だったということもあり私は退学処分をくらうこととなる。

「猿の愚かさといったら耐えられないね」

退学処分という扱いを未だ受け入れられていない私は、隣で笑う夏油さんに少しばかり腹が立った。トカゲもどきが呪霊を祓える力はあるなんて教えてもらわなければ、知らなければ、怖い思いをしながらでも、平和な毎日をこれからも過ごせていたというのに。
臭いものには蓋をしろ、そういう精神で過ごせばよかったのに。

「やはり君はこちら側の人間だったんだよ。術式を持ち、祓える力がある。呪霊は放っておけば害をなす。それなのにそれを祓った君が非難されるなんてあまりにも馬鹿げている。そうは思わないか?」

確かにこの一連の流れからすると、私に非はない。夏油さん曰く、あの呪霊はあのまま放っておけば何かしらの災厄を運んできたらしい、大学側にとって不都合で科学では解決できない不可解な事件が起こる可能性しかなかったわけだ。それなのにも関わらず、何も知らない職員や大学の運営側の連中は、就職活動で心を病んでしまった一人の学生が憂さ晴らしにボヤ事件を起こしたと早期の原因排除を望んでいる。
私は今まで一度も不真面目だったことはない。大学の課題は真面目に出していたし、出席を取らない授業にもきちんと顔を出していた。成績も悪くはないし、大学側からすると、なんの変哲もない一般生徒でしかなかったのに、今では手のひらを返して「ああいう大人しそうな子ほど鬱憤の晴らし方が過激になる」というレッテルを貼られて、大学イメージのために自主退学を薦められる。自主退学を勧められるイコール遠回しの強制退学だ。
火の無い所に煙は立たない。怪しい芽は全て詰んでおく。大学にとって利するには値しない凡庸な生徒が一人二人いなくなろうがどうだっていいのだ。

「この学校は古いね。人々の感情が澱み溜まっている。君の術式の練習がてら呪霊を祓って帰ろうか」

「いいですね。いっそのこと全て燃やした方がいいかもしれません」

家に帰って両親にボヤ騒ぎのことを話したところで、何も知らない大学側と同じ意見を掲げるに違いない。「ああ、いつの間にそんなに心が一杯一杯だったの。相談してくれたらよかったのに」と。母は訴えかけるように涙ぐんで縋るに違いない。そう思うと吐き気がするし、仕事中の父に電話して冷たくあしらわれる姿まで想像ができてうんざりした。

平和が一番。そう思って生きてきた。
そう思うように躾けられて生きてきた。
実際に平和なんてものは私の人生において夏油さんが呪霊のことに関して説明してくれた限りだ。
わからないものをわからないまま無視するより、世界の解像度が上がった気がする。わからないもの、ではなく、ただ私が知らなかったことで、猿である両親や今まで生きてきた社会では一生理解できないとされた、知ることが許されなかった私が知りたかった真実。

「呪霊って負の感情から生まれるんですよね。なら私がさっきの呪霊を祓ったところで、時間が経てば同じような呪霊が生まれるってわけですね」

「お、ご明察。猿どもは自分たちで自分たちを苦しめているのさ。せっかく君が心からの善意で祓ったのにね」

「馬鹿らしいですね」

「そうさ。彼らは猿なのだから我々にとっていつも至らない思考をする」

「もう、この学校全て燃やし尽くした方がいいかもしれませんね」

「フフ。君がそう思うならそうなんだろう。ただし、全て燃やすなら私の条件を飲んで欲しいな」

「なんですか?」

「素直な子は嫌いじゃないよ。そうだね、条件というのは、家族になろう、ということだよ」

「家族?」

「猿どもがいない呪術師だけの世界を作ろうとしていてね。それを家族になって支えて欲しいんだ。君とならきっといい家庭を築ける」

「そうですね。悪くない条件です」

夏油さんはにこりと笑い、じゃあ、この建物を全て燃やし尽くした後、君の新しい家族を紹介するとしようか、と揚々に言ったので私も釣られて楽しみです、と相槌を打った。
手のひらサイズだったトカゲもどきは今ではすっかり私の身長ほど大きくなっていて、大学を燃やし尽くすのには十分な力が出せそうだった。


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