「ここ、いい?」

遠慮がちに、でも拒否される気は全くないという声の主は私の返事を聞くよりも早く正面の椅子を引いた。
声の主を確認するときに、下げていた視線はおのずと正面を向く。その際に店内の奥が視野に入り、正面の彼がわざわざ私と相席しなくてはならないほど混雑している状況ではないとわかる。
今はランチの時間でもなければカフェタイムでもない。そんな時間だから満席などありえないことも時計を確認して読みかけの本に素早く栞を挟んだ。
堂々としたナンパ、もしくはマルチ勧誘だな、と文庫本を鞄に滑り込ませる。
残り少ないコーヒーもぐぐぐっと飲みほして、カップをソーサに置いたとき、彼は言葉を発した。

「一杯付き合ってくれる?」

はた、とにこやかな彼の顔に見覚えがある気がして、浮かした腰を下ろした。

「アメリカンとカフェラテを一つ」

彼の注文を取りに来た店員に私の分のドリンクも頼むと、店員は私の飲み干したカップも一緒に引き取っていった。

「傑くん?」

半信半疑。でも実際半ば確信を持っていた。

「覚えててくれたんだ」

傑くんはおっ、と目を見開いて見せた。
覚えてるも何も、忘れたくても忘れられない人だ。傑くんは。私にとって。そういうと、なんだか、だいそれた感情を持て余しているのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。
彼は私の唯一の幼馴染であり、むしろ幼馴染を通り越して家族のような人だったから、いきなり東京の山奥の聞いたこともないような学校に行ったことに対してショックを受けたことは昨日のことのように思い出せる。

「私に黙って東京のクソ田舎の学校に行った傑くんだよね?」

「おっと」

「悲しかったな。ずっと小中高大まで一緒に通うつもりだったから、何の相談もされずに気づいたら別の高校に通うことになってて」

「それには訳があって」

「いやぁ! いったいどんな理由があったんだろう! 想像が全くつかないや!」

店員さんが、怪訝そうな顔をしてドリンクをテーブルに置いていった。正面の傑くんはバツの悪そうな顔を晒していて、ちょっぴり溜飲が下がる。

「クソ田舎の学校は楽しかった? 連絡先を手紙で送ったのに返事をする時間もないぐらいだったから、よっぽど充実してたんだろうね!」

「訳があって」

「どんな訳だろう! 将来を誓い合った私に何の連絡も取れないぐらい切羽詰まった訳なんだろうなぁ!」

「いや」

将来を誓い合ったというのは年少さんが好きな子に「結婚しよう」「いいよ」ぐらいの軽いもので、誰しもが通る通過儀礼のようなものだけど、実際それは20年前に彼と私の間で行われていたことなので、嘘は一つもついていない。誇張しているとはわかってはいるけれど。そうでなければこの胸のむしゃくしゃが晴れない。
両親よりも大好きだった傑くんが、何も言わずに私の元を去り、かつ、連絡も取ってくれなかったのに、何を今更のこのこと顔を出せたのか。面の皮が厚い。しかも、ナンパみたいなセリフと共に。

「私は傑くんに嫌われちゃったんだ! って毎晩泣いてたんだよ!」

「なまえ、聞いて」

「今更何を言い訳されても許せる気がしないから」

じゃあ! と今度こそ立ち去ろうと鞄を掴み、立ち上がろうとした。

「なまえだって私を捨てたくせに」

どうにも看過できないセリフを投げつけられて勢いそのままで振り向く。

「私が!? いつ?!」

捨てたのは傑くんの方じゃない! と随分大きくなった傑くんを睨む。
昔は私の方が背が高かったのににょきにょきたけのこみたいに伸びてしまって、あっという間に身長は越されてしまったけど、それでも、10年も会わない間にまた背が伸びたみたいだ。

「中3の3学期の終業式! 私が迎えに行ったら同じクラスの男に告白されてたじゃないか!」

「はぁ!?」

「それにデレデレして!」

「断ったって言ったじゃん! それにデレデレって! 何その言い方!」

「私というものがいるのに!」

「傑くんには関係ないじゃん!」

「きちんと言葉にはしなかったかもしれないけど、雰囲気でわかるだろそれは! そもそも私たちの仲に割って入ろうとする人物がいること自体不愉快だったんだから」

「あっそう!」

「わかりやすく周りに牽制してたんだけど!」

「待って、傑くん私のこと好きだったの!?」

一旦ヒートアップした会話に妙な空気が流れた。そこで近くに座る他のお客さんに迷惑がかかっていなかったかどうかに意識が向く。結構な大声で話し合っていたと思うが、周りは知らぬ存ぜぬといった様子で迷惑がっている様子や気にしている様子はなかった。それこそ気を遣って見て見ぬふりをしてくれているのかもしれないけれど。

「確認だけど、ライクの方?」

「ラブの方」

傑くんは真面目な顔で言い切ってから、咳払いをした。

「今日なまえに声をかけたのは、プロポーズしに来たからなんだ」

傑くんが頼んでくれたカフェラテを一口飲もうと口をつけた瞬間とんでもない言葉が飛んできて危うく噴き出すところだった。おしぼりでぎゅっと口元を押さえたが、そのまま飲み込んだのでカフェラテが気管に入って咽せこんでしまった。いつのまにか隣に座った傑くんがごほごほと気道確保しようとする私の背中をさする。

「私たち10年会ってなかったんだけど」

「そうだね」

「結婚するつもりなら、会いに来てくれたってよかったのに」

「ちょっと仕事が特殊でね、それは難しかったんだ」

「10年も音信不通だったのに?」

「これを見てくれる?」

傑くんがそう言ってポケットから取り出したのは、10年前私が好きだったキャラクターの書かれた便箋で、しかも私が傑くん宛に買いた手紙だった。四隅が黄色くなって皺もあったけど、丁寧に扱ってくれたんだとわかる年季の入り方だった。

「この手紙、なまえの住所書かれてないんだよ」

「え?」

思わず傑くんの顔を守ると、やれやれとした表情で丁寧に手紙を広げてくれて、封筒も見せてくれた。確かにどこをどう見ても私は自分の名前しか書いていない。
メールアドレスは書いてあったけど、傑くんからは一件も届いたことがないので、書き間違えているんだろう。当時のメールアドレスが何かなんて覚えてなんかいないけど。

「確かに、なまえにきちんと言わずクソ田舎の学校に行ったことは謝るよ。急だったんだ。でも、連絡手段がなくなって、焦って会いに行ったら、引っ越ししてて探す手立てを無くすのはあんまりじゃないか」

「うぅ……」

確かに卒業式と受験と傑くんが突然東京の学校に行くことが重なって、私自身もてんやわんやしていた。無事に4月に高校進学が決まって傑くんのことを忘れてやるぞ! と意気込んだ矢先に親の都合で転勤が決まって……でもまさか連絡先を伝え忘れていたなんて。手紙に書き忘れてたなんて。そりゃ、返事を書きたくても書けないはずだ。待てど暮らせど返事か来なかったのは私のせいだったのか。きっと住所を書いていないのは、新しい住所を覚えていなかったからだろう。後で確認して書こうと思っていたのにそのまま忘れて投函してしまった、というところだろうか。

「どこに引っ越したのかもわからないし、なまえはそれきり手紙を寄越してくれないし、学校は忙しくて……今になってやっと! お金と時間をかけてやっとなまえを見つけたのに……」

こんなに邪険に扱われるなんて……とぽそりと呟きコーヒーの水面を見つめる。
傑くんが一方的に私のことを過去の思い出にしてしまったのだと決めつけて、連絡を取れる状態だったけどあえて取らなかった、と長年勘違いをしていたことに関しては本当に心苦しい。
それに、小さい頃の口約束もしっかり覚えていてくれるなんて、あまりにも信じられない。

「そんな、昔のこと律儀に守ってくれなくていいんだよ。結婚だなんて……」

「……なまえは私と結婚するの嫌かい? 確かに10年も顔を合わせられなかったし、私の仕事は特殊で家を開けることも多くてその上守秘義務だし、不安にさせる要素は多々あるけど、この気持ちは本当なんだ」

傑くんはいつのまにか、私の両手を包み込んでおり優しく手の甲を撫でている。確かに傑くんと10年ぶりの再会と言っても、すぐに誰か分かったし、気心知れた仲だし、結婚自体は悪くはないと思うけれど、今すぐに結婚しよう! 籍を入れよう! という気は私にはさらさらないから、快い返事を返せない。それに、まだ社会人になって浅いし、これから積み上げていこうとしているキャリア像もある。それなのに結婚をしてしまうといろいろ差し障りがあるんじゃないか、なんて思ってしまうのだ。

「なまえを見つけるために知り合いに大枚をはたいたんだ。ざっと、なまえの年収3年分ぐらいかな?」

「はっ! えっ、3年分!?」

「まあ、あくまでも私たちの世代の平均年収の3倍ってだけなんだけど」

「はぁ?!」

傑くんは一体どんな仕事をしているんだ。一体何をすればそんなに金銭感覚が狂ってしまうんだ。少しばかり恐怖を覚える。私に会うためだけに年収の3倍? 意味がわからない。本当に。もしかして冗談なのだろうか? そうでなければ、恐ろしいを通り越して恐怖心すら抱きそう。

「大切で唯一の幼馴染だからね、なんとしても見つけたかったんだ」

ぎゅっと固く握られた両手は、私が傑くんの返事にイエスと答えなければ話してくれる気は無いらしい。

「えーと、プロポーズを改めてきちんとしてくれるなら、前向きに考えよう、かなぁ〜……なんて……」

ははは、とじっと私を見つめる傑くんの視線から逃れながら言ってみた。

「わかったよ。じゃあ今日は帰ろうか」

にこり、と笑って傑くんは手を離してくれた。ほっと、一安心して今度こそ店を出て行こうと伝票を掴もうとして、傑くんがその紙を私より先に掴んだ。

「私が付き合って、と言ったんだから払うよ」

「そっか。ありがとう。ごちそうさま」

ふう、と胸を撫で下ろして店の外に出るとまだまだ明るくて、得をした気分になる。胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んで、何故か傑くんに腰を抱かれた。

「さ、帰ろうか」

「1人で帰れるから」

「何言ってるの? プロポーズは後日改めてするけど同棲は今日からだよ?」

私は幼馴染の強引さに眩暈がした。確かに傑くんはこういうところがあった。
にこにこと微笑む傑くんの顔を見て、懐かしさ半分と、呆れて半分。そして、逃げられないな、と確信を得た。


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