「名指しで呼ばれるって一体どういうこと?」
 
「前世でよっぽど悪い行いをしたのかもしれない。みんなの前で呼ばれるなんて」
 
「そんな人に親切にしていたなんて、さすがですね」
 
「実は、ここ最近空気が悪いと思ってたんです」
 
「原因があんな若い子だったなんて」
 
「しかし、よく気が付きましたね」
 
「教えをきちんと受け取られている証拠ですね」
 
「我々も精進しなくては」
 
 信者たちは軽く談笑しあった。
 監視カメラも録音機能も先ほどの大広間にはなかったが、夏油の呪霊が今あの空間で話され起こっている出来事を報告する。
 人から生まれた呪霊のおかげか、姿が見えなくとも、軽蔑の念が込められているであろう様子が容易に脳裏に浮かぶ。
 大広間からここはかなり距離があるというのに同じ空間で、すぐそばで言われているかのような気分になった。人間の負の感情を代弁させると呪霊の右に出るものはないだろう。実際、彼らの生まれ故郷でもある。
 私たちが退出した後の信者たちの会話を聞いて夏油は形の良い片眉を上げた。
 
「あんな好き勝手を言う猿を守る必要があると?」
 
「猿?」
 
「ああ、……非呪術師のことさ」
 
 夏油が非呪術師を猿と呼んだことに、ああ夏油はもう呪術師には決して戻ってこないんだと分かった。そもそも一般人を一〇〇人以上殺したのだ。戻ってこられるわけがない。
 私たちが今まで守ってきた人々に対し、人外扱いをした。きっと家畜以下だと思っているんだろう。猿だなんてそんなひどい言葉を眉一つ動かさないで吐き出した。その表情には後ろめたさも後悔も良心の呵責も、何一つとして感じられない。
 
「あんな勝手な猿のために命をかけられるのかい? 私はもう二度とごめんだね」
 
「そうだね。確かに醜悪だ」
 
 夏油の言いたいことはわかる。全ての人が善人とは限らない。
 自分が救った非呪術師が将来犯罪者になる可能性もゼロじゃない。たとえその非呪術師が世間体には善良で無害だとされていようが、滲み出る呪力から滲出する呪力が澱量なり、誰かを呪う呪霊になるかもしれない。
 まあ、呪術師も例外とは言えない。呪術師の中にだって耐えられないような人格を持ち合わせ残忍なやつだっているだろう。ただ、非呪術師と呪術師ではその母体数に大きな差がある。呪術師一〇人のうち一人が呪いに転じた時と、非呪術師一〇〇人のうち一〇人が呪霊を発生させた場合、割合で見ると全く一緒ではあるが、呪術師から一人、非呪術師から一〇人の呪いが生まれたと言われれば、非呪術師から多く呪いが生まれたと認識される。
 人は知りたいことしか知らない。見たいものしか見ない。だからその断片の情報を知って、全体の数はいつくだったんだろうと思考を広げられる人は一体どれぐらいいるだろう。
 だからこそ、その母体を認識せずの数の差だけを比べて非呪術師の劣悪な人物が多いことを嘆くには早すぎる。
 
「でも、一部の人間の醜い一面を見たからと言って全ての人がそうであるとは限らない。それはわかってたでしょ」
 
「……わかっていたさ。でも、もうそのなけなしの良心に期待を寄せる堪忍袋の緒は切れた」
 
「……」
 
「満は彼らの醜い姿を目の当たりにしてもまだ非呪術師は命をかけて護る価値に値すると考えているんだね。いやぁ、まったく、素晴らしく高尚な精神を持っているんだね。恐れ入るよ」
 
 片手を口元に持っていき目を細めてクツクツと笑う。仕草自体は上品であるものの、相手に対しての憎悪と軽蔑を隠すこともせず、ただ、不快だという感情を笑い声に乗せている。
 三年も見なかったうちに、夏油が遠い人物になったように感じた。ただ薄く笑っているだけなのに、夏油がすると酷く冷たい動作になる。こんな冷たい仕草ができる人だったのか。それとも月日が彼をそうさせてしまったのだろうか。
 私が知っている喉を鳴らし愉快でたまらないといった笑い声はもっと暖かかったのに。優しさがあったのに。先ほどの笑い声なんて、拒絶でしかない。
 
「それとも、世間知らずだからそんなことが言えるのかな」
 
「真っ当な社会人経験ないし、呪術師しか経験したことがないから世間知らずってのは一理あるよ」
 
 軽口を返すノリで口を挟む。夏油はそれに気分を害した様子はなかったが笑うのを辞めた。
 
「私はただ目の前にある、自分ができることをしていただけ。それが結果的に非呪術師を救ったという実績に繋がったに過ぎないよ。非呪術師だから救うとか、救わないとか考えてない」
 
 じっとこちらを見つめる夏油を見つめ返す。
 その表情があまりにも何も読み取れなくて、人形かと思ってしまうほど不気味だった。
 自身の体が震えていないのが不思議なほど。
 夏油の深く艶やかだった瞳の色は今は暗く影を落としている。
 
「何しにきたの? 弱いくせに。私に到底敵わないのに。悟はどうした? 悟でないと私は殺せないよ」
 
「私は殺しにきたんじゃない。夏油についていくためにきた」
 
 どうして連れて行ってくれなかったのか。
 その答えを知りたくて思い悩んだ日もあった。寝れない夜もあった。やっぱり相談してくれたってよかったんじゃないの、と怒りが満ちる日もあった。
 でも、それでも、夏油は一人で呪詛師になる覚悟を決めた。誰にも何も言わず。これは彼自身のためであり、私たちを守るためでもある。
 だって彼は他人のことを自分のことのように考えることができる人だ。目の前の人物に真摯に向き合うことができる人情に厚いやつだ。
 わざわざ茨の道だと、行き着く先は地獄しかないと知っていた、わかっていたからこそ一人で覚悟を決めたのだ。
 夏油から声をかけられれば、ついていくと言う呪術師なんか何人もいただろう。それぐらい呪術師とは良心が疲弊し、時には葛藤を迫られ、疲弊する職業だから。
 私だって一声かけてくれれば何もかもを捨て去ってついていく側だったのに。
 
 連れて行ってくれないのであれば、こちらからついていくしかない。
 何を言われようが、どんなに嫌な顔をされようが、何があっても、たとえどんな嫌なことや辛いことが起こっても、地獄の始まりでしかなくても、死ぬ方がマシかもしれないと思うことがあっても、思い悩む日々に苛まれるとしても、私はついていくことを選ぶことにした。
 夏油は私を連れて行ってくれなかった。それは悲しいことだ。心が張り裂けそうになるぐらい。でも、私は自分の意志で歩ける脚がある。自分でものを考えることのできる思考力がある。だったら、自分が唯一できる方法を取るべきだ。それは夏油について行くこと。
 夏油は非呪術師のことを本当に護るべき対象だと思わなくなってしまった。猿と呼び始め同じ人間だとも思わなくなってしまった。
 彼は今までの私が知っている夏油でない。そしてそれをまだうまく咀嚼できない私がいる。だって私は呪術師で、夏油が忌み嫌う側、つまり猿の立場ではないから。
 うまく割り切れない。目の前の彼は、あの夏のくたびれた先、延長戦の上にいるような気がする。疲れ切っていて、ちょっと思考がおざなりになっているんじゃないかって。暫くすれば前の夏油に戻るんじゃないかって、そんな淡い気持ちを抱いている。
 夏油が非呪術師を手にかけるところをまだ見たことがないからこんな足りない思想ができるのかもしれない。でも、それでも私は何があってもそばにいようと決めたのだ。ついていなくてはいけないと思った。
 そして、その願いは自分で叶えると誓った。夏油には叶えられない。誰にも相談できない。私だけが私の心の底からの願いを叶えられる。願いを叶えられる確率は絶望的なほど低いかもしれない。
 でも、高専に留まって、どうして、なんで、なんて後ろ髪を引かれ続けるぐらいなら、その天文学的な可能性を試したい。
 
「私は夏油についていく」
 
「二回言わなくても聞こえてるよ」
 
「何があってもついていくから」
 
 夏油は口元にあった手を額に寄せる。目を閉じて息を吐いた。それから額に寄せられた腕は夏油の胸元で組みなおされた。
 
「高専の差金か?」
 
「違う。でも、それを証明できる方法がないんだよね。残念なことに。信じてもらうしか」
 
「君は馬鹿なのか」
 
 夏油が苛立ちを隠すまでもなく、鋭い目つきを向けてきて私は射すくめられる。
 思わず怯みそうになる。怯んでいる場合じゃない。真っ直ぐ立たなければ。自分をしっかり支えなくては。
 私は今まで、こんな強い苛立ちを夏油に向けられたことはない。本気で苛立つ夏油なんて見たことがない。仲間に対して負の感情をぶつける夏油なんて、知らない。知らないのだ。やっぱり三年という月日は人を変えるのには十分な時間だったようだ。
 
「もしそうだったとしたら、顔見知りの私より夏油と面識のない呪術師を潜入させる方法を選ぶと思うよ。それに、私がいることで夏油に何か不利益が生じる? 何もかもが夏油に敵わないのに?」
 
「ともすれば満は純粋に酔狂だということになる」
 
「そうだね」
 
「信じられないな」
 
 恋する乙女は強いから。無鉄砲だから。そんなことを言っても夏油の火に油を注ぐだけだ。
 でも今の私は夏油に信じてもらうだけの何かがない。本当に私の言葉を信じてもらうしかないのだ。
 
「残念だけど、信じてもらう以外に方法がないかな? 取り敢えず試用期間としてそばに置いておかない?」
 
 どうですか? 一級呪術師の仲間がゲットできるチャンスです。今なら恋心もついてきます。
 そう言えればどれだけよかっただろう。
 昔なら言えただろう。冗談として。今の私は今の夏油にそれをいうほどの度胸も勇気も持ち合わせていないのだ。もしそれを口に出して今より一層強い嫌悪をぶつけられてしまったら、私の心は散り散りに引き裂かれて、きっと泣いてしまう。
 
「もし本当に高専の回し者だった場合、そばに置いていた方が一番早く殺せるでしょ」
 
 平坦な声音を出すことに努める。顔色ひとつ変えないようにして。私は本気なのだ。
 ここで怯んでいる場合じゃない。怯えている場合でもない。今の夏油にとって利益があると思ってもらわなくてはいけない。
 
「うまく泳がせれば高専の動向も探れるんじゃない?」
 
「……」
 
「どう?」
 
「みんなには私の元に行くこと伝えた?」
 
「まさか! 伝えてたらここにはいないよ」
 
「ははっ。馬鹿だなぁ」
 
 息を吐きながら悪態をついた夏油の仕草が懐かしく感じた。変わっていない部分もある。
 夏油は自身のこめかみを抑えて、口元を歪に歪ませていた。
 
「……本当に私のためだけを想っているような口ぶりだ」
 
 ははは、と渇いた笑いがその後も夏油から溢れた。
 
「馬鹿すぎる」
 
 ぼそりと吐かれた言葉に、怒りが満ちるどころか、私は心がキュッと切なくなった。
 本当に夏油のことしか考えてない上での発言なんだよ。身の振り顧みず、己の感情に素直になった結果がこれなのだ。
 夏油についていきたい。呪詛師になってしまっても、これからもっと人を殺すことになっても、それでも夏油のそばにいたいと。
 何があっても夏油を裏切らず、否定もせず寄り添えるように、と。
 
 夏油についていくことは、夏油の行き着く先は地獄だと、茨の道だと、引き返すなら今だと。きっと夏油はそのような言葉を今後言うだろう。だってまだ私の知っている夏油の鱗片が感じられたから。でもそんなことを暗に言われたってわからないふりをするつもりだ。私は鈍感なのだ。敏感であったなら、あの時夏油が苦しんで悩んでいる姿を察することができたはずだから。そうであればあの時一抹の絶望を共有できたはずだから。
 
 そして、夏油についていくことはそれはすなわち、私も今までのすべてを捨てなければならない。
 高専での友情もこれから行うであろう両親への親孝行も全て。今まで私が正しいと思いのうのうと生きてきた常識と生活を失うことになる。その道でこれから迎えるであろう人生の選択や幸福や想い出といったものを全て見捨てる。
 それでもいい。その全てを天秤にかけて夏油についていくことを選んだ。
 呪術師である限り、平凡で安定の生活は選べないが、呪詛師になるよりかは、社会にとって歓迎されるだろう。呪詛師に比べるとまだ安定があるし、社会貢献に繋がる尊い仕事だろう。
 でも、その安定と信頼を捨てても、どうしてもこの胸に抱き寄せていたい想いがある。願いがある。取りこぼしたくない。離したくない。もう二度と。
 失うものの重さも辛さも分かってて、それでも夏油のそばにいたいと、そのために生きたいと強く希求した。
 これは愚かな私の確かな覚悟なのだ。
 もう腹は括った。
 
「私は夏油のする事なす事に何も口出ししない」
 
「一体何がしたい?」
 
「肯定も否定もしない。ただ側にいたい」
 
「意味がわからない」
 
 逡巡する素振りを見せたかと思ったが、それも一瞬で「好きにすればいいさ」と、冷たく突き放されてしまった。
 
 生き方は決めた。あとは自分でできることを精一杯やるだけだ。



 
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