どうして。
 
 夏油が離反したと告げられた時に口から出た言葉だ。
 
 どうして非呪術師を殺してしまったの。
 どうして両親を殺してしまったの。
 どうして離反してしまったの。
 どうして何も言ってくれなかったの。
 どうして、相談ぐらいできたんじゃないの。
 どうして、仲間だったじゃないの。
 
 どうしての後に続く言葉はこう言った凡庸なものが相応しかっただろう。夏油の良心を信じてやまない言葉が。でも私の脳みそはその言葉たちを引き摺り出すことは叶わなかった。
 
 どうして。どうして、連れて行ってくれなかったの。
 
 それが心の底から私が思ったことだった。そして、言葉にすることの叶わなかった願いでもある。
 
 
 :
 
 
 夏油と私は別に特別な関係だったわけじゃない。恋人でも、友達以上恋人未満でも、親友でもなかったけど、私は夏油のことが好きだったし、夏油も私のことは嫌いじゃなかったと思う。
 五条が満は本当に傑のことが好きだな! って教室で叫んだ時は、心臓がヒヤリとし、なんてことを言うんだ五条この野郎、と慌てたけれど夏油はそれに対して光栄だよと受け流していたから。
 社交辞令だったかも知れない。冗談の延長だったかも。よくある戯れの一つだったかもしれない。はたまた友愛だと思われたかも。
 ドギマギしながら夏油を見るとにこりと微笑んでいたから、私もついつい、はいはい五条より好きですけど何か? なんて強気の発言をしてしまった。
 
 そんな穏やかな記憶を思い出しては一人で遠い空を見上げる。
 
 夏油が離反したと告げられたのは、本人が離反し無事に逃げ仰せ、高専では足取りが全く掴めないということがわかってからだった。
 呪術規定九条に基づき、呪詛師として処刑対象になった、と夜蛾先生に告げられた。
 
 どうしての一言だけを発してそのまま棒立ちをする私を先生は、五条みたいに喚かないんだなと言っていた。喚いたって泣き叫んだって憤たって夏油は呪詛師になったのだ。その事実は変わらない。
 元良の冷静さには目を見張るものがある。全く五条にも見習って欲しい。そんなことも言っていた気がする。
 でも私はそこからどうやって、今ここで空を眺めるに至ったのか記憶がないのだ。
 夜蛾先生に夏油のことを告げられたのはいつだったかもわからない。数時間前だったかも知れないし数日前だったかも知れないし、今さっきだったかもしれない。
 ただわかるのは夏油が身の回りの全てを捨てて呪詛師になったということだけ。
 
 
 :
 
 
 二回目のどうしてという発言は、夏油と新宿でばったりであったと硝子から聞いた時だ。
 人を殺したのは事実で、冤罪じゃない。夏油は術師だけの世界を作りたいらしい。……理解は得られなくてもいいらしい。
 
「私にも連絡欲しかった」
 
「圏外だった」
 
「そっか」
 
 夏油が離反したと告げられた時も、硝子から新宿に夏油がいたと告げられた今も、私は数日遅れでその事実を知った。
 いつも間が悪い。わざとかと思ってしまうほど。
 海外任務、圏外エリアでの任務、任務そして任務だ。
 
 夏油に最後にあったのは八月の半ば。
 連日熱中症患者が病院に運ばれ賑わっているとニュースになっていて、この日もむせ返るような暑さで蜃気楼が揺らめいていた。アスファルトに照り返された日差しが死ぬほど暑くて、制服をきちんときていたのが馬鹿らしくなった。しかも呪術師用に丈夫に作られているからそこら辺の制服と比べで生地がしっかりしている。体を鍛えている呪術師でなければ私も病院送りになって、朝のニュースで取り上げられる不特定多数の一人になっていただろう。
 
 暑さに耐えながら、夏バテしている夏油に元気のつくものを、と栄養ドリンクとレトルト食品を差し入れた。あの日のそのやり取りが最後になるなんて。
 思い出せばあの時、夏油はひどい顔色だった。驚きはしたものの、私があれこれ世話を焼くのも鬱陶しいだろうと思い、夏油に半ば押し付けるような形になってしまったのが悔やまれる。
 あの後任務が迫っていなければ、心配なら少しぐらい家事を手伝ってやればよかったのに。世話を焼くべきだった。どうしてそのまま見過ごしたのか。
 何度後悔をしても、何度記憶の中でやり直しても、それはただの願望でしかなかった。
 それに、記憶の中で自分の都合の良いようにやり直しても、結局夏油はやんわりと私の厚顔な行動を窘めて、部屋を追い出すのだ。
 
 
 :
 
 
 心の片隅に夏油が離反したという事実が燻りつつけたまま、私は高専を卒業した。五条はそのまま教師になり、家入は国家資格を取得するために勉強をし始めた。私はとりあえず流れで呪術師になった。
 夏油がいなくなって三年が経った。三年も経ってしまった。私は常に心のどこかで夏油の影を探していたが、忙殺される日々を理由に、その影を見て見ぬ振りをしていた。
 時というものは残酷だ。皆に平等にやってくるが、何かを成し得るには短すぎるし、停滞するのには長すぎる。私はこの三年間時が止まっていた。まるで身動きのできない水の中にいたみたいで、息苦しくてもがくけれど結局はどうしようもなかった。ぶくぶくと酸素は溢れ続け、息継ぎはできなくて、そのまま沈んでいくだけ。
 でも、止まっていた時の中で私はなんとか生活をこなしていたようで、今では一級呪術師になっていた。いたずらに任務をこなし続けた成果とも言える。
 五条は口調が柔らかくなった。時々相手を慮るようなことを言うのでその顔を引っ叩きたくなった。実際に行動に移したことはないが、きっと五条は私の急な衝動に気づいていた。でも、それを指摘するでもなく、自身の言動を改めるでもなく、ただ五条は日に日に夏油のような口調に近づいていった。
 彼もまた夏油の影を追っているのだ。でも、それは私とはまた別で、彼は彼なりに前進している、というより留まれない。だって五条は腐っても呪術界御三家の一人だから、一般家庭出の私とは出生が異なる。
 硝子は相変わらずだったが、唯一わかる変化といえば喫煙の量が増えたことだ。学生の頃から大概愛煙家だったが、度を越してしまった。いつ見ても灰皿には吸い殻がみっちり詰め込まれていて、気がついた時には灰皿を空にしているのだが、それでも次見た時には山盛りの吸い殻が積まれている。
 硝子はいつ見ても片手か口に煙草を咥えている。吸い殻で満たされた灰皿を伴って。誇張表現ではなく事実だ。
 
 
 :
 
 
「私は大学に進学します。呪術師になりません」
 
 七海は言った。
 七海は私より強いからてっきり呪術師になるとばかり思っていたので、少しばかり驚いた。本当にほんの少しだけ。
 七海の気持ちを想像することはできる。親友の灰原が死んでしまって、そこから一人で高専生活を過ごした。いろんなことを考えただろう。残された側の思いだとか、目の前で親友が死んだ自責だとか。ひょっとしたら七海も私と同じでずっともがいているのかもしれない。
 だから、七海が呪術師を辞めると言ったことに驚きはなかった。よくここまで続けて来れたな、と賞賛してもいいほどだ。
 ただそれを私に言ってくれたということにびっくりしただけで。
 
「元良さんだからいいますが、私は疲れてしまった。だから、逃げます。呪術界とは無縁の世界へ」
 
 逃げる。
 ああ、七海の中ではそういう落とし所になったんだなと理解する。真面目な七海らしい。
 
「高専に入ったからといって呪術師に拘る必要はない。私たちは一般家庭の出です。今自分がいる場所や環境にしがみつく必要はない。時には逃げるという選択もありだと思います」
 
「私が呪術師向いてないって言ってる?」
 
「いえ、ただ可能性の一つを伝えただけです」
 
 冷たい風が私たちの間を通り抜けた。風に弄ばれ乱された髪を二人して黙って整えた。
 七海は強くなった。心身ともに。私より強いし、私より呪術師に向いていると思うけど実際には辞めたくなるほど呪術師というものに嫌気がさしていたのだ。
 七海の高専生活を振り返ってみてそりゃそうだと納得するのは容易かった。彼は呪術師になるのには真面目すぎた。
 そうだ。私たちには逃げ道がある。高専のことを記憶の彼方へ追いやり、一般社会に溶け込んで生活を送ることができる。女なら尚更。
 
「私と一緒に大学に編入しませんか?」
 
「考えとく」
 
「そういうと思いました。元良さんは、」
 
 それから「いえ」と七海は口をつぐんだ。「元良さんは、」その後に続く言葉を言う気はなかったらしい。思わず唇からこぼれてしまった音の連なりだったようだ。
 別に思いがけない言葉を発してしまって相手を傷つけてしまうかも、なんてそんな配慮をするような仲じゃないのに。
 七海の言葉はいつも真っ直ぐで痛いところを突いてくるけど、存外それは嫌じゃなかった。七海の優しくて真面目な為人を垣間見えるから。
 そんな七海が遠慮した。
 瞼をぎゅっと閉じて、口を固く結ばれ眉間には皺が刻まれている。
 
「受験勉強しないと、だね」
 
 私が話し始めるとあからさまに安心した様子を見せた。
 
「もうすでにしています。それに高専からの推薦もあるので確実に春からは大学生です」
 
「ちゃっかりしてる。流石!」
 
 よ! 七海! 立派だぞ! と囃し立てるとじろりと睨んできたので、わははと笑い飛ばした。
 七海は春から大学生になる。私は相変わらず春になっても今のままの状態で呪術師を続けるだろう。
 高専内で七海とはすれ違うこともなくなるし、狭いようでいて広い東京だ。生活圏内が被らなければ七海とこうやって話すのはもう数える程度しかないかもしれない。
 都内にいるであろう夏油にだって会えていないのだから。
 
「私が大学生になっても、元良さんとはこうやって話をしたいです」
 
「考えとく」
 
「そこは肯定しろ」
 
「いじけないで七海! もちろん! もちろん七海とパンを食べに行くよ」
 
「パン以外も」
 
「わかってるわかってるって!」
 
 疑わしい、という視線をいまだによこす七海を揶揄い、私は七海に別れを告げて、今日の任務先へと向かった。
 
 
 :
 
 
 呪術師のめんどくさい仕事の一つとして、新興宗教の信者になりすますというものがある。平たく言えば潜入捜査ともいう。
 新興宗教には必ずといっていいほど教祖というものが存在する。そして教祖には呪詛師が多い。彼らは人々の生活の豊かさを説きながら、自分たちの解釈から逸れた人間を酷く弾糾する。そして、ターゲットにされた信者の負の感情から生まれた呪霊を教祖が退治する。そうして回心させる。
 謂わば自作自演をする。
 その奇蹟をみて信者はよりあつく信仰に耽るようになり、教祖の懐はお布施で潤うというドブみたいな関係が強固なものになる。
 立派な詐欺罪ではあるが、警察ではうまく証拠が掴めず検挙困難ということで、よく呪術師にお鉢が回ってくる。
 今日もそのお鉢の一つだった。
 
 数人の集まりから週百人も信者がいる大規模なものとさまざまな集まりがあったが、総じて純粋な新興宗教というものは少ない。何かしら呪霊が絡んでいることがあった。だから、呪詛師を捕まえるにあたって、瞼がくっつくんじゃないかというほどの退屈な任務でも意義は大きかった。
 そんな任務に向かう道中、たまたま行き先が近い五条と肩を並べて後部座席に座る。
 
「七海、大学進学するんだって」
 
「あっそう」
 
 補助監督が運転する車内で五条は角砂糖を噛み砕きながら返事をした。
 
「驚かないの?」
 
「驚くことか? 高専卒業してそのまま呪術師になるやつの方が稀だと僕は思うけどね。だって呪術師と関係ない生活を知ってるんだから」
 
「そうなんだ。てっきり高専を卒業したら何かしら呪術界に関係ある職につくと思ってたや」
 
「存外そうでもないよ」
 
 御三家と呼ばれる人たちは高専には通わない。自分の家で呪術師の基本が全て習得できるから。なので五条のように高専に一時的ではあるが身を寄せるのは滅多にないことらしかった。なので、高専に通うのは元々呪術界とは関係ない家系であったりする一般人がほとんどだった。
 五条は角砂糖に飽きたのか、角砂糖の入った袋を補助監督に渡す。そして今度は五条の片手に収まる程度の大きさの小箱のリボンをほどき始めた。
 コンビニとか、スーパーで買える庶民的なお菓子じゃなくて、高級そうなパッケージに、英語以外の外国語が書かれているものだった。
 箱を開けると濃厚な香りが広がって香りだけで高いものだと理解できた。
 
「満も大学行くの?」
 
「え!?」
 
「え?」
 
 せっかく高いチョコレートを隣でこれ見よがしに食べているんだから、と正方形の一本線が入ったチョコレートと掴もうとして、掴み損ねた。
 
「なんで?」
 
「七海、誘ってきたでしょ?」
 
「みてたの? うわー! 悪趣味!」
 
 ドン引きなんですけど! と軽口を叩く私に五条は持っていた小箱を差し出す。私はありがたく狙っていたチョコレートを摘んで口に放り投げた。
 
「みてないみてない。でもいつか満に言うだろうなって思ってから」
 
「私ってそんなに呪術師向いてない?」
 
「そんなことはないけど」
 
「けど?」
 
 ウエットテッシュで指を綺麗に拭いた後、五条は一瞬思案するように目線を伏せたかと思うと「内緒!」と言った。
 
「気になるじゃん。はっきり言ってよ」
 
 そうやって返してみたが、五条が言ってくれないのは分かっていたし、実を言うと七海と五条が言いたいことは理解していた。
 二人とも私に夏油のことを忘れろといいたいのだ。でも、そんなことを言われても、私が夏油のことが好きな気持ちは今も変わらないしどうすることもできない。それを察しているからこそ言葉にはしないんだろう。
 だって私は夏油を最後に見たあの夏から三年も経った今でも一〇〇人以上の非呪術師を殺し呪詛師になってしまった夏油に会いたいと強く願っているのだから。



 
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