ミスター愉快
「ポッキーの日?」
売店に入って目の前の棚を賑やかに彩っているPOPを読み上げながら、せつなは頭を右へと傾けた。
ポッキーというお菓子の名前は知っている。スティック状に焼き上げたプレッツェルにチョコレートがコーティングされたもので、軽やかな食感と食べるときの音が人気のお菓子だ。
せつなが不思議に思ったのは、そのお菓子が記念日になっているということだった。
どうして今日なのだろう。思わず商品棚の前で立ち止まりパッケージと睨めっこをする。すると棚の横のほうに、記念日の意味を説明しているゆるいキャラクターのイラストが描かれているのを見つけた。
「なるほど。『四本並べたら1111に見えるから11月11日はポッキーの日』ということなのね」
「今年ももうそんな季節か〜。あっという間に一年が終わっちゃう」
「蛍ちゃん。ポッキー、買うの?」
「うん。お菓子会社の戦略だってわかってるけど、こういうのを見ると食べたくなっちゃうんだよね。美味しいし」
「じゃあ、わたしも買おうかな」
一緒に売店に来ていた蛍がポッキーを一箱手に取ると、それに釣られるようにせつなも手を伸ばした。
せつなたちが棚を離れてレジへと向かうと、あとから売店に入ってきた生徒までも、ポッキーが並んだ商品棚の前で足を止めている。
なるほど、確かに飛ぶように売れている。と、感心しながらせつなは売店を後にした。
「そういえば、せつなは“ポッキーゲーム”って知ってる?」
「“ぽっきーげーむ”……? ううん、聞いたことはないけれど」
「そっか」
「どういう遊びなの?」
教室へと戻る途中、せつなはまたしても首を傾げた。
ゲーム、というくらいだから何らかの遊びだろうと推察できるが、それ以上はなにも思い浮かばない。しかし、食べ物を粗末にするような遊びでなければやってみたい、という興味が湧いてきたのも事実。
蛍は「えっとね」と口を開きかけたが、口の両端をにっこりと上げてせつなの耳に唇を寄せた。
「トーマのほうが詳しいかも」
「トーマさん?」
「うん。聞いてみたら? もしかしたら、やり方を教えてくれるかも」
「ええ。そうしてみます」
蛍が提案した人選には納得しかなかった。年上ということが前提にあるとしても、トーマは博識で人から頼りにされることが多いし、何よりも優しい。きっと教えてくれるはずだ。
高揚した気持ちを抱えたせつなが教室に戻ると、トーマは空と一緒に席で漫画を読んでいるところだった。
「トーマ!」
「ん? なんだい?」
「せつなが聞きたいことがあるんだって」
「お邪魔じゃなかった?」
「全然。ちょうど読み終えたところだったんだ」
パタン、と乾いた音と共に漫画が閉じられた。
トーマがいいと言うのなら、遠慮することはない。少し疑問を聞くだけなのだから、時間はとらせないはずだ。
「トーマさん。ポッキーゲームって知ってますか? わたし、やってみたいんです」
せつながそう口にした瞬間、心なしか、教室の中がざわめいた気がした。いや、心なしか、というより、確実に、だ。漫画を読むことに夢中になっていた空ですら思い切り吹き出してしまったのだから。そして、問われた本人であるトーマも、微かに動揺しているようだった。
「な、なんだって?」
「えっと、ポッキーゲームをやってみたくて……」
「ちょ、ちょっとあっちで話そう」
「いってらっしゃーい」
立ち上がったトーマと入れ替わるように蛍が椅子に腰を落とした。空が蛍に事の経緯を問いかける前に、せつなはトーマに手首を掴まれて教室の外へと連れ出されてしまう。
階段を上り、これ以上行くと屋上へと出てしまうというところで立ち止まったトーマに倣い、足を止める。振り向いたトーマは、何ともむず痒そうな表情をしていた。
「……で? どうしてポッキーゲームの話になっているんだい?」
「蛍ちゃんと売店に行ったら、ポッキーがたくさん仕入れてあったの。今日はポッキーの日、みたいだから」
「ああ、確かに11月11日だね。……それで?」
「蛍ちゃんに『ポッキーゲームって知ってる?』と、聞かれたの。知らないと答えたら、トーマさんなら詳しいかもしれないし、やり方を教えてくれるかもしれないからと」
「蛍……」
トーマは目を片手で覆い隠し、天を仰ぐように頭を反らした。何かよくないことを言ってしまったのだろうかと、小さな不安が生まれようとしたとき、指の隙間から顔を出した若草色の眼差しがせつなを捉えた。
「せつなはやってみたいの? ポッキーゲーム」
「ええ。なんだか楽しそう」
トーマは少しだけ考えるそぶりを見せたあと、真面目な顔をしてこう言った。
「じゃあ、ポッキーを一本出して」
「これでいいの?」
「ああ」
売店で買ってきたばかりの箱を開けて、シルバーの包装を破ると、チョコレートの甘い香りが一気に広がった。チョコレートがコーティングされていない部分を摘み、トーマの目の前に差し出す。
「次はポッキーの端をくわえてごらん」
「端っこを……こう?」
先端を口に含むと、口の中の熱でチョコレートがじんわりと溶け始めた。ここから先はどうすればいいのだろうと、トーマを見上げる。トーマの顔が、体が、思いの外近くにあった。
いつの間にか距離が詰められていたことに目を丸くしていると、ぐ、と両肩を掴まれた。掴まれたといっても、そっと両手が肩に添えられているようなもので、せつなが本気で動けばすぐに振りほどいてしまえるくらいの力だった。もちろん、せつなが恐怖を覚えることはない。
しかし、次のトーマの行動に何も感じない、わけにはいかなかった。身を屈めたトーマの顔が少しずつ近づいてきたかと思うと、せつながくわえているほうとは反対側のポッキーをカリッと齧ったのだ。それだけでは終わらず、トーマは軽やかな音を立てながら少しずつポッキーを食べ進めていく。せつなはただ硬直して、近づいてくる整った顔を見つめることしかできなかった。
トーマの息遣いが聞こえる距離まで近づいたところで、我に返ったせつなはこの先を想像してしまった。このままいくと、あと数秒後には、ポッキーが繋いでいるものが、唇が、触れてしまう……と。
「っ……!!」
せつなが強く目を閉じたのと「ポキン!」とひときわ大きな音が響いたのは同時だった。
すぐ目の前にあった人の気配がなくなった。様子を伺うようにせつなが目を開けると、トーマの口からは折れたポッキーの片割れが見えていた。
「あーあ。折れてしまったからオレの負けだ」
「ふ、ぇ?」
何が起こったのかわからない中で、口の中に残っていたポッキーをかろうじて噛み、飲み込んだ。トーマも同じように、細かな音を立てながら、残ったポッキーを噛み砕いている。
「今のがポッキーゲームだよ。ポッキー一本を両側から食べ進んでいって、先に口を離したりポッキーを折ったりしたほうが負け。そういうゲームさ」
「そ、そうなのですね……初めて知りました。でも、それだともし……」
もし、あのときトーマがポッキーを折ってしまわなかったら、せつなが想像した通りになっていたはずだ。
急に羞恥心がこみ上げてきて、ポッキーの箱で口元を覆い隠した。もしかしたら、自分は大変なことをトーマに聞いてしまったのかもしれない。
「アハハッ! 急に真っ赤になったね?」
「あ、あの、わたし……」
「そういうことだって、わかったみたいだね。だから、ポッキーゲームをしたいなんて軽く言わないほうがいい。特に男の前ではね。もし好きでもない男と“そう”なったら嫌だろう?」
いつもの明るい口調に戻ったトーマは、ぽん、と軽くせつなの頭を叩いた。そして「先に教室に戻っているよ。ちょーっと蛍に話があるからね」と言い残して、階段を駆け下りていく。
トーマの足音が聞こえなくなると、一気に体の力が抜けた。壁に背を付けて、制服のスカートが床につくのも構わずにずるずるとしゃがみ込む。
様々な感情がせつなの中をぐるぐるとかき乱していく中でも、これだけはわかった。
(トーマさんだと……いやじゃ、なかった)
きっと、相手が他の男の人だったら嫌だったし、怖かった。でも、トーマ相手に嫌という感情も、恐怖も、何も感じなかった。それが何を意味しているのか、深く考えなくても理解できる。
(……こんな自覚のさせかた、ずるい)
認められない? 認めたくない? 認めてほしくない? 認めることを許さない?
否定の選択肢は、せつなの中にはない。これは今まで輪郭がなかっただけで、確かにせつなの中にはあったものだから。
思い返せば、きっと、はじまりは出逢ったあのときからだった。桜吹雪の中で目が合ったあの瞬間、せつなの中に落ちてきた感情。その存在に気づいていながらも、名前がわからなかった感情を、今なら名付けることができる。
「わたしはトーマさんが……好き」
――“恋”と。
(真面目な顔/ずるい/認めたくない)2023.11.09