忘れず傘を忘れること


「あっ、雨……」

 昇降口から空を見上げたせつなの口から、諦めが滲んだ独り言が零れ落ちた。つい数時間前にグラウンドで体育祭の練習をしていたときは、雲ひとつない晴れ空だったというのに、女心と秋の空とはよく言ったものだ。今や分厚い灰色の雲が空を覆い隠し、ぽつり、ぽつり、と雫が地上へと落ちてきている。
 こういうときのための、折り畳み傘だ。いつも学生鞄の奥に忍ばせているそれに、せつなが手を伸ばしたとき。

「あっちゃー。降ってきたか」
「トーマさん」
「体育の時間はあんなに晴れていたのに。帰るまでもたなかったね。この季節の天気予報はあまりあてにならないから仕方ないか」

 トーマから声をかけられて、学生鞄に差し入れたままの手を止めた。トーマの手にはコンビニなどでもよく売っている透明なビニール傘が握られていて、留め具が外されたそれは花びらが綻ぶように揺れて開きかけた。

「せつな、もしかして傘を持ってきていないのかい?」
「えっ?」
「よかったら、オレの傘に入っていくといいよ」
「でも……綾華ちゃんは?」
「お嬢は若の会席に同席するからって、迎えがきて先に帰ったよ。だから、一緒に傘に入ってせつなの家まで送っていける。どうだい?」
「わたし、傘は……」

 せつなはきちんと折り畳み傘を持ってきている。学生鞄の中に常備していて、今まさに、手に触れている。「大丈夫。折り畳み傘を持ってきているの。ありがとう、トーマさん」とお礼を言えばいい。そうすれば、二人で傘をさし、家路の途中までを並んで帰ることができる。それだけで、十分幸せな時間を過ごすことができるはずなのに。――少しだけ、欲張りになってしまう。
 せつなは学生鞄から手を出して、持ち手を両手で握り直した。
 これから小さな嘘をついてしまうけれど、でもきっと、トーマはここに折り畳み傘があることを見抜いた上で話しかけてきた。だから、せつなが返す答えはひとつだ。

「そう、なの。今日は傘を持ってきていなくて」
「じゃあ、決まりだね!」
「でも、本当にいいの? 傘の中が狭くなっちゃう」
「大丈夫。オレの傘は大きいからね。それに、くっついていたら濡れることはないよ」

 バサッ。音を立ててトーマの傘が開いた。左側に空間を開けるようにして傘の中に入ったトーマは、日溜まりのような眼差しを向けてせつなを中へと招く。

「どうぞ」

 少しずつ速くなっていく鼓動をひた隠すように、学生鞄を胸の前に抱え込む。そして、なるべく小さくなるように肩を縮こまらせながら、吸い寄せられるように傘の左側におさまった。

「お邪魔します……」
「アハハッ! そんなに遠慮しないで。ほら、濡れちゃうからもう少しこっちにおいで」

 想像していた以上に、距離が近い。トーマの腕に触れている肩だけ、ひどく熱い気がする。それに。

「行こうか、せつな」

 雨音に閉じ込められた中に響く『せつな』という言葉が、まるで自分の名前ではないように、美しく聞こえた気がする。
 そして、家へと辿り着いたとき。全く濡れていない自分自身と、右肩だけ濡れてしまっているトーマのブレザーを見つけてしまったせつなは、申し訳なさとそれ以上の想いで胸をいっぱいにしてしまうのだ。
 柔らかな炎のように、まるで包み込まれてしまうような、そんな彼のあたたかさが好きだ――と。ただ、トーマのことを惚れ直しただけの帰り道だった。



(惚れ直しただけ/濡れる/天気予報)2023.09.22





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