衝撃の旨味


 綾華が選択科目で家庭科を選んだのは、約十六年間生きてきてほとんど自分とは無縁の学問だったからだ。楽器の演奏は幼い頃から習っているため、音楽の授業を取る必要はない。教養の一環として芸術作品に触れる機会が多くあったため、美術にもさほど惹かれない。
 しかし、取れたボタンを繕ったり、書道で汚れた服の染み抜きをしたり、美味しい食事を作ったり、そういった生活に必要なことは全て屋敷の使用人がやってくれるため、綾華が家政と呼ばれるものに触れる機会はほぼない。夜中にお腹が空いてこっそりとキッチンへ忍び込み、お茶漬けを作るだけでもワクワクするくらい料理に興味があった綾華が、家庭科の授業を取るのは自然な流れだった。
 同じ授業を取ったクラスメイトたちがエプロンと三角巾を身に着け、班に分かれて家庭科室の調理台を囲んでいる。綾華は空、トーマ、せつなと同じ班だった。彼らだったら、安心だ。もし綾華が料理に失敗しても「神里家の令嬢は料理しなんてしないものね」と、呆れることはない。彼らは綾華のことを“神里綾華”という一人の少女として見ていてくれているから。
 今回のテーマは和食。班のメンバーそれぞれが一品ずつ調理を受け持ち、自分たちで考えた献立を完成させるというものだ。授業という限られた時間の中で、いかに手際よくバランスの良いものを作ることができるかがポイントである。
 料理に詳しいトーマを中心として考えた結果、空は焼き鮭。トーマは味噌汁。せつなは卵焼き。そして綾華はほうれん草のお浸しを担当することになっていた。

「えっと、ほうれん草を湯がくときのコツは……」

 綾華はちらり、とトーマに視線を送った。調理台を挟んで反対側にいるトーマは、高校生男子とは思えないほど、エプロン姿が様になっている。

「ほうれん草の根元に切り込みを入れて、根元から先にお湯の中に入れること。ほうれん草はゆで過ぎないようにね。熱が通ったらすぐに氷水で冷やすんだ。そのあと、水気をよく絞ることも忘れずに」
「あっ、そうでした。さすがはトーマです」

 綾華の隣から「へぇ〜」と、感心したような声を漏らした空が、便乗と言わんばかりにトーマに問いかける。

「トーマ。鮭を焼くのにもコツってあるの?」
「あるよ。キッチンペーパーで余分な水分を取ったら、火をつける前に鮭をフライパンに並べるんだ。このとき、皮の面を下にしておくことがポイントだね。三分ほど焼いて、焼いている面が白っぽくなってきたら、鮭を裏返して蓋をして蒸し焼きにするんだ。そうすれば、皮はパリッと、身はふっくら柔らかく焼き上がるよ」
「なるほど。ありがとう、トーマ。やってみるよ」

 いよいよ、調理実習の始まりだ。
 トーマのアドバイス通りに、綾華はほうれん草の根っこに包丁を使って切り込みを入れた。ときおり、チラチラと投げられるトーマの視線には気づかないふり。手を怪我しないかと気が気ではないのかもしれないが、屋敷には真剣だってあるのだからいまさら包丁くらい怖がったりしない。そんなことを言ったら「包丁と刀じゃ全然違う」と、呆れられるのだろうけれど。
 トーマの料理の腕前は、相変わらず完璧だった。綾華を含めた三人より作業工程が多いにも関わらず、その指先は迷うことなく食材や調理器具を選び、流れるように次々に処理していく。
 その様子を隣で見ていたせつなが「わぁ」と感嘆の声を上げた。

「トーマさんってお料理が上手なのね」
「一緒の班で料理をすることが緊張しちゃうよね」
「ふふふ。この学園に入学するまで、トーマは神里家の家事全般を受け持ってくれていましたから」
「自然と身についたスキルってわけさ。そう誇示するものでもないよ」
「でも、それなら選択科目に家庭科を選ばなくてもよかったんじゃない?」
「えっ? そ、それは、ほら、あくまでもオレの料理や裁縫は我流だからさ。改めて学んでみて、そこで知ることもあるだろうと思ったんだ」
「すごい。トーマさんは勉強熱心なのですね」

 おそらく、トーマが家庭科を選択した大きな理由は、自分がこの授業を選んだからだろうということを綾華は知っていた。高校へ入学するのに年齢制限はないが、一般的に十六〜十八歳のうちに通う生徒が多い。トーマの年齢はそれを上回っている。それなのになぜ高校に入学したのかというと、神里家の当主である綾人から綾華の護衛を任されているからだ。綾華のいくところにトーマの姿は必ずある。だから、綾華と同じ選択科目をトーマが取ることは決定事項のようなものなのだが。

「とか何とか言って、せつなと同じ授業を取りたかっただけだったりして」
「うぐっ!? 空、しーっ!」

 空は特に声を潜めることともなく、普通と変わらない声量でトーマを茶化した。味つけを終えたほうれん草に鰹節を和えていた綾華も、思わずプッと小さく吹き出す。しかしせつな本人はというと、鮮やかな卵色を巻くことに全神経を集中させていて、周りの声は届いていないようだった。

「ふうっ。卵焼き、綺麗にできました!」
「こっちも、塩鮭が焼き上がりそうだよ」
「ほうれん草のお浸しもばっちりです。トーマはいかがですか?」
「味噌汁ももう少しでできるよ」

 それぞれが担当した料理を、器へと盛り付ける。その工程はまるで生花みたいだ、と綾華は思った。全体的なバランスを見て花を生けるように、料理も盛り付け方一つで見た目の美しさが変わり、美味しそうに見える。
 器との相性を考えることも重要だ。今回は和食だから、素朴で深い色味の和食器を選んで盛り付けていった。長角皿には空が焼いた塩鮭とせつなが焼いた卵焼きを、天然木のお椀にはトーマが担当した味噌汁を、花の形をした小鉢には綾華が作ったほうれん草のお浸しを。白ご飯を茶碗によそえば、調理台は立派な食卓へと早変わりした。

「美味しそうですね!」
「これは先生から高評価をもらえそうだね」
「ええ。トーマさんのお陰ね」
「オレはアドバイスをしただけだよ。作ったのはみんなの力だ。さあ、席に着こう」
「わぁ……! お味噌汁にのっている人参が椿の花の形をしていて可愛い」
「これは切り花ですね」
「そんな凝ったことまでやっていたなんて、トーマは本当にすごいよ」
「食卓が一気に華やかになっていいだろ?」

 他の班の準備が整うと、家庭科の先生が手を合わせて「いただきます」と先導した。家庭科室のあちこちから「いただきます」と不揃いな声が上がる。誰もが目の前のごちそうにいち早くありつこうと先走っていた。
 綾華は丁寧に手を合わせて、感謝の気持ちを述べてから箸を手に取った。野菜を先に食べたほうがいいとか、汁物を一口目に選んだほうがいいとか、いろいろと聞いたことはある。しかし今は、真っ先に食べたいものを選んで箸を入れた。
 焼き鮭の身をほぐし、口の中へと運ぶ。軽やかな食感と程よい塩加減が、次の一口を促すほどに美味しい。

「美味しいです。空さんが焼いてくださった鮭、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がっていますね」
「ありがとう。綾華が担当してくれたほうれん草のお浸しも美味しいよ」
「美味しい! トーマさんが作ってくれたお味噌汁、本当に、本当に、すっごく美味しいです!」
「よかった。せつなの卵焼きも甘くてふわふわだ。この味、好きだなぁ」

 賑やかな談笑と共に食事は進む。授業中とは思えないほど楽しい時間だった。選択科目と言わず、毎日調理実習があったらいいのにと思いながら、綾華は次にせつなの卵焼きを口に運んだ。家でトーマがつくる卵焼きは染み出る出汁の風味が絶品だが、せつなの卵焼きは柔らかな甘さに頬が緩みそうになる美味しさだった。
 そのとき「あら?」という声と共に、向かい側にいるせつなが首を傾げた。正しく持たれた箸の先には、ひとひらの花弁のような形――ハートの形をした人参が挟まれている。

「お味噌汁の中にハートの形の人参が入っていました。ふふっ。可愛い」
「気に入ってくれたかい?」
「ええ。トーマさんはお料理で誰かを笑顔にさせることが好きなのね」
「あ、うん。まあね」

 ふむ、と一瞬考えこんだあと、綾華はお椀を手に取った。せっかくの盛り付けを崩しながら食べるのは申し訳ないし、行儀が悪いことは理解しているが、箸の先を汁の中に沈めては持ち上げる動作を何度か繰り返す。ハートの形の人参なんてどこにも見当たらない。

「綾華。ハートの形の人参、入ってた?」
「いいえ。空さんは?」
「入ってなかった」

 空に耳打ちされた綾華は「やっぱり」と零した。せつなによそわれた味噌汁だけに入っていた、やさしい形。その“特別ななにか”を理解しているからこそ、綾華と空は視線を絡めて小さく笑う。

「焦れったいなぁ」
「本当に」

 神里家にずっと尽くしてくれているトーマだからこそ、護衛という名目の高校生活を謳歌してくれたらいい。そして願わくば、彼の恋が実を結びますように。
 三人の料理を一口ずつ口にして、最後に自分が作ったほうれんそうのお浸しを口へと運ぶ。初めて作ったにしては上出来だし、美味しい。けれどきっと、この美味しさは醤油や味醂などによる味つけだけでなく、今この場が生み出しているあたたかさによるもの。一緒に食べる人の笑顔が一番の調味料だということを、綾華は知ったのだった。



(調理実習/特別ななにか/焦れったい)2023.10.26





- ナノ -