食べること、あいすること


 今日の休憩時間もいつもと同じように、シャンティーナは書庫の前で本と睨めっこをしていた。いつもと違うのは、読んでいる本の種類だ。
 シャンティーナはパレ・メルモニアでの仕事の中に正義の答えを探し、休憩時間は過去の裁判記録を読み漁ってフォンテーヌの正義が導いてきた判決を調べていた。
 しかし、今日シャンティーナが読んでいるのは、正義の解を求めるよりも難しいかもしれないことだった。

「……やはりお礼をしたほうがいいのでしょうか」

 数日前、シャンティーナは力が尽きかけていたところをヌヴィレットに助けられた。シャンティーナ自身が懇願したことでないとはいえ、結果として泡沫とならずに済んだのだから、シャンティーナにとっては感謝しなければならないことだ。
 しかし、相手はあのヌヴィレット。かつて友人である“シャンティーナ”に有罪判決を下した男だ。この数日間、感謝の言葉を口にする機会は何度かあったが、プライドと憎しみが邪魔をして避け続けてしまっていた。
 パタン、と本を閉じる。本の表紙をシャンティーナのため息が撫でた。そのとき。

「どうしたのですか?」
「ひゃっ!」

 突然声をかけられたシャンティーナは、手にしていた本を取り落としてしまった。読み終わって積み重ねていた本までも、音を立てて床に落ちていく。
 シャンティーナが拾うよりも早く、声をかけてきたメリュジーヌ――カロレがミトンのような両手で本を丁寧に拾い上げた。表紙に書かれているタイトルを見たカロレは目を丸くした。

「『ビジネスマナーの基本とコツ』『人間関係のススメ』『上司の取扱説明書』……わぁ! シャンティーナさまって勉強熱心なかたなのですね! 私も見習わないと」
「あ、あなたは確かカロレさん、ですか?」
「はい! 何か困りごとですか?」

 じ、とシャンティーナはカロレを見つめた。無垢な瞳だ。純粋で一片の疑いや悪意もない瞳。彼女ならば、相談してもいいかもしれない。

「はい。実は……」
「シャンティーナ」

 今日はよく声をかけられる。シャンティーナは口角を上げながら、声をかけてきた男性を見上げた。彼は確か、裁判の記録を主に担当している書記官だ。

「はい。なんでしょう」
「午後からは僕と一緒に裁判の記録のとりかたを学んでもらう。エピクレシス歌劇場まで行くぞ」
「かしこまりました。あの、カロレさん」
「気にしないでください。お気を付けて、いってらっしゃい」

 カロレは屈託なく笑うと、跳ねるように歩きながらいってしまった。
 頭を仕事モードへと切り替えて、シャンティーナは書記官の男性に続いてパレ・メルモニアを出発した。書記官の仕事を観察できるのであれば、正義を知るためのきっかけを手に入れられるかもしれない。しかし、書記官の仕事は簡単に務まるものではないと聞くが、なぜ声をかけられたのだろうという疑問が生まれた。

「書記官の仕事は特別な資格が必要だと認識していましたが、違うのですか? わたしが書記官の仕事を学んだとしても、実際に裁判の議事をとるためには試験を受ける必要があるのでは?」
「そのとおり。だが、ヌヴィレット様は君に期待しているようだ。パレ・メルモニアの事務業務だけではなくもっと様々なことを経験させて育ててほしい。そう言われていたよ。書記官になる、ならないは別として、今回の立ち合いは研修みたいなものだな」
「あ、ありがとうございます……」

 まさかヌヴィレットが絡んでいるとは思いもしなかったシャンティーナは、それ以降大人しく口をつぐむことにした。

(まさか、わたしが正義を知りたいと、そう言ったから……?)

 巡水船に乗り、エリニュス島へと渡り、エピクレシス歌劇場に立ち入る。あの日から百年近くが経とうとしているというのに、ここはあのときと何も変わっていなかった。

「さあ着いた。書記官の席はこっちだ」
「はい」

 書記官の席に案内されたシャンティーナは、男性の隣に腰を下ろした。そしてほどなくして、裁判は始まった。
 途中までは、男性の仕事を盗み見ながら記録をとろうとしていた。しかし、裁判が進んでいくと次第にペンの先が重くなるように感じ、やがて動きは完全に止まってしまった。
 あまりにも理不尽な裁判だった。内容は民家に放火して人を殺害してしまったという事案についてだった。放火及び殺人という極めて重い罪だ。誰もが有罪判決を下されると思って疑わなかった。しかし、ヌヴィレット及び諭示裁定カーディナルが下した判決は――無罪。犯人の精神に疾患が認められたためと、いう判決理由だった。歌劇場は歓声と怒号に包まれて、また一つの裁判が幕を下ろした。
 帰りの巡水船でも、シャンティーナの頭の中の靄は晴れなかった。

「お疲れ。だいぶ参ったようだな。結構大変だっただろ?」
「仕事内容よりも……今回の事件、納得いきません。あれだけ酷い行いをしたというのに無罪なんて……」
「ああ。誰もがそう思うだろう。しかし、現在のフォンテーヌの法律では責任能力がないと判断された場合、その行為を罰することはできない。君も知っているだろう? もし有罪判決が出ていたら、それはヌヴィレット様の私情が入ったということになる。……ヌヴィレット様は本当に公平なお方だよ」

 シャンティーナ自身、フォンテーヌの法律は全て頭の中に叩きこんでいるつもりだった。だから、理屈ではわかっている。しかし、感情が追いつかない。犯人の精神に異常があったために罪が認められない。犯人を罰することができないというのなら、亡くなった人たちの未練や遺された人たちの無念はどこへぶつけたらいいのだろう。
 ふ、と疲れたようにシャンティーナは笑った。このような思考を巡らせることができるようになったとは、ずいぶん人間に近づくことができたようである。
 そのとき、頬に一滴の雫が落ちた。ぽたり、ぽたり。雫は次第に量を増やし、ミストのように細かい雨はフォンテーヌの大地へと降り注いでいく。

「雨が降ってきたな。今日は遅くなったからもう直帰していい。資料のまとめ方は明日教えよう」
「はい。ありがとうございました。失礼いたします」

 フォンテーヌ廷へと到着すると、シャンティーナはいったんパレ・メルモニアを目指した。帰っていいとは言われたが、荷物を置いたままだ。
 パレ・メルモニア方面へ足早に向かっていると、反対側からカロレが歩いてきていることに気がつき足を止める。カロレもまたシャンティーナに気がつくと、大きく手を振りながら歩み寄ってきてくれた。

「お疲れ様です。シャンティーナ様」
「カロレさん。お疲れ様です」
「……なんだか本当にお疲れのようですね」
「ええ。ちょっとだけ、ですけど」
「いいえ。すごくお疲れのように見えます。そういうときは、うんと自分のことを甘やかしてください。好きな音楽を聴くとか、美味しいものを食べるとか」
「美味しいものを食べる……例えば、ケーキ、とか?」
「はい! とってもいいと思います!」

 ふたりの視線が同じ方向へと向く。その先には一軒のケーキ屋があり、ガラス窓越しに見える店内にはさまざまな種類のケーキが並んでいる。
 あの日、メリュジーヌの――名前をセドナといったか、彼女と一緒にケーキを食べてみてからというものすっかりスイーツの虜になってしまっていた。純水精霊は基本的に食事を必要としないが、それでも一度食べることの喜びを知ってしまえば、もう水だけの生活には戻れなかった。
 ふと、シャンティーナの脳裏にひとつの案が浮かぶ。言えなかった相談事の続きをシャンティーナは口にした。

「……実は、ヌヴィレットさまにお礼をしたいことがあって、悩んでいたのです。それで、ケーキを渡す……というのはどう思いますか?」
「素敵な考えだと思います! でも……うーん、ヌヴィレット様はケーキやマドレーヌなどはあまり好まれないかもしれません。食べ物を贈るのであれば水分を多く含んだものがお好きですよ。一番お好きなのはお水です」
「水……」

 種族によって価値観や好みに差があるために一概には断言できないが、お礼の品として水、はいかがなものなのだろうか。もし仮に、ヌヴィレットが本当に水を求めていたとしても、シャンティーナには水の味の良し悪しがわからない。自身の肌に合う水か、合わない水か、その程度の判別しかできない。ケーキを選ぶよりも水を選ぶほうが難しそうである。
 しばらく考え込んだ末に、シャンティーナは思考を手放すことにした。今日はもうなにも考えたくない。

「参考にさせていただきますね。カロレさん。相談に乗ってくださってありがとうございました」
「どういたしまして! ……実は、嬉しかったのです。私たちが大好きなヌヴィレット様のことをシャンティーナ様もお好きだなんて」
「べ、別に好きというわけでは……ちょっとお世話になっただけです。本当ですよ?」
「そうなんてすか? ヌヴィレット様、本当にお優しくて素敵な方なんですよ。私たちメリュジーヌをここに連れてきてくださったのもヌヴィレット様なんです」

 シャンティーナがフォンテーヌを離れている間に、メリュジーヌという種族はこの地へやってきていた。どこから生まれたのか。どうして人間が住むこの場所にいることを選んだのか。疑問に思ったことはあったが、ここに来て答え合わせをすることになるとは。

「それは、あなたたちにとって良かったことなのですか? だって……」
「……はい。人間とメリュジーヌの間にはまだ溝があります。でも、メリュジーヌの村で暮らしているよりも今の暮らしのほうが気に入っているのです。少なくとも私はそう思っています。それに、いつか人間と仲良くなれるって、信じています。だからもっと頑張らないと」

 シャンティーナはハッとして目を見開いた。やはり、彼女は無垢だ。そして、こんなにもまっすぐで眩しい。まるで“シャンティーナ”と話しているようだと、そんな幻想を見てしまうほどに。

「……素敵なのはあなたたちのほうかもしれませんね」
「えっ?」
「なんでもありません! では、わたしはここで失礼しますね。カロレさん、また明日」
「はい! また!」

 カロレと別れたあと、パレ・メルモニアに戻ったシャンティーナは、自分の荷物をまとめてすぐに退社しようとした。その際、ヌヴィレットの執務室へ続く大きな扉が視界の隅に入り、手放していた思考が戻される。

「冷徹なまでに公平を貫くあの男が優しい……?」

 ヌヴィレットはシャンティーナにとって憎むべき相手だった。どのような理屈と道理を並べられても、友人に有罪判決を下し死へと追いやる要因の一片を作ったことは間違いないのだから。
 しかし、とここへ来てからの出来事を振り返る。
 ヌヴィレットはシャンティーナが弱っているときに掬い上げ、うつくしい水を分け与えてくれた。そして、正義を知りたいと嘆いたシャンティーナのために今回の仕事を割り振ってくれた。これらもまた、事実である。
 パレ・メルモニアをあとにして家路についていたところ、ふと、視界に本屋が目に入ってきて足を止める。店頭のブックラックには様々な種類の雑誌が収納されている。ファッション、経済、芸能、旅行、ペット……。そのうちの一冊、美味しそうなスイーツ――クレームクレープシュゼットが表紙を飾っている料理雑誌を手にして目を輝かせた。

「これです!」

 そして、翌日の終業時間後のこと。外はまだ雨が降り続いており、フォンテーヌ廷は薄暗く重い空気に覆われていた。しかし、パレ・メルモニアのキッチンでは賑やかな音が絶え間なく続いていた。
 生クリームを混ぜる音。生地を焼く音。バブルオレンジをスライスする音。全てを料理雑誌通りに作っては味気ないからと、手伝ってくれているカロレの提案で少しだけアレンジも入れる。水分は多いほうが好みだというからソースは多めに。クリームと一緒にバニラアイスを添えても美味しいかもしれない。
 そうしてようやく、シャンティーナオリジナルの一品が完成した。

「オリジナルのクレームクレープシュゼット! なんとかできました……!」
「すごく美味しそうですね、シャンティーナ様! たっぷりのソースがまるで金色に輝いている海みたいです」

 金色の海。それはシャンティーナにとって“シャンティーナ”の美しい髪を思い起こさせる色だった。
 少しだけ感傷に浸りながら、カロレと共にヌヴィレットの執務室へと向かう。終業時間は過ぎているというのに、相変わらず扉の隙間からは光が漏れている。
 シャンティーナが入るのを躊躇っていると、カロレはいともたやすく扉を開けてしまった。

「ヌヴィレット様!」
「カロレか。どうした?」
「この時間まで休憩されていませんよね? お菓子と紅茶を用意したので、休憩されてはどうでしょう?」
「そうか。ありがとう。心遣いに感謝する」

 ヌヴィレットの視線が、執務室の入り口に突き立っているシャンティーナに気づく。一歩、一歩。ゆっくりとヌヴィレットの元に歩み寄っていき、シャンティーナはクレームクレープシュゼットがのったトレーを執務机に置いた。そして、まっすぐに目を見つめる。目を見て話すことは何よりも誠意を伝える方法なのだ。

「先日は助けていただきありがとうございました」
「……これは君が作ったのか?」

 こくりと頷く。正確にはカロレも一緒に作ったのだが、ヌヴィレットが真に問うているのはそこではない。先日の一件に対して、何か返礼したいと自分で考え、行動してくれたのかと、その心を汲み取ろうとしているのだ。

「ありがとう。いただこう」

 あいかわらず変動のない声色だ。嬉しいと思っているのか、美味しいと思っているのか、はたまた迷惑と思っているのか、なにも読み取ることはできない。しかし、ヌヴィレットはソースの一滴までも残さずにシャンティーナの返礼を飲み下した。そのころ外では雨が止み、星たちが夜空を彩っていた。



2024.04.28



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