祝福と呪いは似ているから


 エピクレシス歌劇場。エリニュス島に建てられたフォンテーヌ最大の裁判所であり、その名の通りオペラハウスとしても機能している建物。マジックショーや歌劇など、様々な公演が行われている場所でもあるが、その主たる使用用途はやはり裁判だ。

「静粛に」

 赤い絨毯が続いた先に広がる舞台の上。審判の全てを掌握する場所。裁判長が座する席から、無機質な声が響き渡った。ヌヴィレットは自らの席から視線を脇へと滑らせる。

「いかなる理由があろうとも、人を殺めることは許されない行為だ。従って、私が下す判決は……有罪だ」

 判決を言い渡された瞬間、被告人の男は力なく項垂れ、崩れ落ちるように被告人席へと戻った。そして、傍聴席からは同情や非難の声が口々に上がった。

「そうだ! 人を殺したのだから有罪だ!」
「でも、確か被告人は娘さんを病で亡くしているのでしょう? 病院の誤診と聞いたわよ」
「それで医者を殺害か……確かに、オレが同じ立場でもそうするかもしれない」
「だからって殺すことはないでしょう? それこそ、ここで裁いてもらったらよかったのよ!」
「静粛に!」

 ヌヴィレットの杖が床を強く叩く。誰もが口にしようとした言葉を飲み込み、歌劇場はしんと静まり返った。

「裁判の最終決定を諭示機へと委ねよう」

 フォンテーヌの裁判は裁判官が判決を下したのちに、最後に諭示機――諭示裁定カーディナルによって最終的な判決が下される。
 諭示裁定カーディナルは審判に用いられる装置であり、民衆の正義に対する信仰を集めて、律償混合エネルギーへと変換することで、フォンテーヌは機能している。そして、大きな天秤のような形状をしている諭示裁定カーディナルは、傾く方向によって有罪か無罪かが決まるのだ。
 今回の裁判の最終判決は――。

「論示裁定カーディナルが下した審査結果により、被告人を有罪とする」

 有罪に傾いた諭示裁定カーディナル。無情にも言い渡される有罪判決。傍聴席の人々は歓喜したり、憐れみを向けたりと忙しい。審判席よりさらに高い水神の席で審判を傍聴していたフリーナは、乾いた拍手を残して退席した。まるで単調でつまらない、一つの舞台を見終えたあとのようだった。
 歌劇場の入り口に立ち警備にあたっているシャンティーナと共に、遠くから裁判の様子を傍観していた『彼女』は小さく息を呑んだ。

「見事なまでの公平さね。眉一つ動かすことなく有罪判決を言い渡すなんて」
「それがヌヴィレットさまのお仕事ですから。正義の国の最高審判官が公平でなくなったら、人々の罪は誰が裁くというのでしょう。噂では、誰かに肩入れすることもされることもないように、ご自身のお名前を公表していないようです。ヌヴィレット、というのはあの方の姓のようですね」
「そう。本当に徹底しているのね。そこまで来ると、恨まれることも多いでしょう」
「でも、もしわたしが間違いを犯したら、部下とか関係なく公平に裁いてほしいと思います。それがフォンテーヌを害することだったらなおさら」
「あなたがフォンテーヌを害する? それこそ間違ってもあり得ないことでしょう」
「ふふっ。そうならないよう努めます。……わたしはフォンテーヌという国を愛しています。その愛がこの国にとって重荷にならなければいいのですが」

 そこまで言い終えると、シャンティーナは首を横に振った。気を引き締めなおし、退席する人々の誘導を始める。その姿を眺めながら『彼女』はただ不思議だった。
 純水精霊にとっての愛とは意識を繋ぎ合わせることである。水を通じて他者を理解し、溶けあうことで、愛することができる。現に『彼女』はシャンティーナから与えられる水を通して彼女の清らかな心に触れ、彼女を信頼し、その幸せを願うようになった。
 しかし、人間にとって愛することというのは、純水精霊のそれよりももっとシンプルなものではないのだろうか。

「さて、裁判は無事に終わりましたし、警備もここまでですね。次の任務地へ向かいましょう」
「次はどこへ?」
「はい。エピクレシス歌劇場から離れたところに、地図に載っていない小さな島があります。そこに犯罪組織の拠点があるとの情報を得たので、鎮圧に向かいます」
「どうやって行くの?」
「小船を泊めているのでそれに乗って、ですね」
「そう。では、わたくしは先に向かっているわ」
「わぁっ!」

 『彼女』は一度輪郭を溶かしたのちに、別の生物の姿を模る。美しい翼を大きく広げ、長い首をまっすぐに伸ばす。色こそ全身水のように青いままだが、フォンテーヌの水辺によく生息している鳥だということが一目でわかる変容だった。

「わぁ、雪羽ガンですね! クリオネちゃんはすごいのですねぇ。体の大きさを変えられるだけではなくて、他の生き物の姿にもなれるのですから」
「ふふ。それが水の力よ。ただ、色までは真似ることが難しいのだけどね。じゃあ、お先に」

 『彼女』は翼を広げると、シャンティーナに教えられた場所まで船を先導するように飛んだ。
 先に陸地に辿り着き、さらに飛行を続けていると、古い建物が集まっている小さな町が見えてきた。一見すると廃墟だが、近付いて観察してみると、大量の武器や薬が保管された建物や、モラがぎっしり詰まった宝箱がいくつも置いてある建物がある。それらは全て、非道徳的な行いをもって手に入れたものだろうと考えると、せっかく澄んだ思考がまた濁ってしまいそうだ。

「こんなに人間は汚いのに、同胞たちは何を思ったのかしら。エゲリアさまからいただいたこの身体を捨てて人間になるなんて考えられないわ。……でも」

 眩しい金色――シャンティーナの姿が脳裏に浮かんだ『彼女』は口を結んだ。美しい人間がいることは認めている。純粋な心を持った慈愛に満ちた人間ばかりが生まれてきたら、エゲリアもきっと安心して眠ることができるのに。

「止まりなさい! 特巡隊です!」

 小島に到着したシャンティーナは武器を手に、部下たちを率いて拠点へと乗り込んできた。『彼女』は翼を広げて空へと舞い上がり、様子を傍観する。

「窃盗。器物損壊。薬の違法取引。殺人。フォンテーヌにとって悪となる行いを見逃すわけにはいきません。正義の名のもとに、全員ここで捕えます」
「ちっ、特巡隊がこんなところまで……!」

 組織の男は悔しそうに唇を噛み、シャンティーナを睨みつけた。……かのように見えた。

「なんてな」

 組織の男が下劣に口角をつり上げたのと同時に、転がっていた樽が爆発してあたりは火の海に包まれた。捕まってしまえば一生水の下から出られないレベルの犯罪を犯している自覚があるからこそ、全てを捨てる覚悟で足掻こうとしている。犯罪を犯してまで手に入れたものも、仲間や自分の命さえも燃やし尽くす覚悟で、罪から逃げようとしている。
 フォンテーヌの正義はそれを許さない。

「鎮圧します! わたしに続いてください!」

 両手剣を握ったシャンティーナが先陣を切って敵へと突進していき、部下たちがそれに続く。四方八方から剣と剣が交わる音と、発砲する音が聞こえてきた。むせ返るほどの血と硝煙の匂いが不快だった。こんな場所は美しいものにふさわしくない。
 純水精霊の姿に戻った『彼女』は宙を泳いで戦場を横切った。泳いだ軌跡が水面のように揺れて、水の球を降らせる。大地を焼く炎は消えて、シャンティーナの剣には純水の祝福が宿った。

「はぁっ!」

 シャンティーナは剣を振り上げると、力強く振り下ろした。生まれた水の波動が罪人たちの罪ごと彼らを押し流す。
 そして、世界は時が止まったかのような光に包まれた。その光は一点へと凝縮され、シャンティーナの目の前で丸みを帯びた形状を作っていく。

「眩しい……っ、この光は!?」

 それは祝福という名の雨が降る中で生まれた。シャンティーナが渇望して仕方がなかった輝きは、確かに今、彼女の手の中に収まっている。

「神の目……まさか、わたしの……? 本当に……?」
「シャンティーナ様! 危ない!」

 シャンティーナの背後から敵が照準を合わせる。そして放たれた弾丸は音速以上のスピードで宙を突き進み、シャンティーナの後頭部を貫こうとした。しかし、弾丸が触れる前に水元素の膜がシャンティーナを包み込み、彼女の身を守った。

「水の恐怖を知りなさい」

 シャンティーナの手のひらにおさまっている水元素の神の目が、彼女の声に応えるように輝いた。水元素が集まって生み出された水流が敵を集約し、拘束する。最後の抵抗だと言わんばかりに敵はシャンティーナを睨みつけたが、彼女の部下たちに取り囲まれ銃口をつきつけられたら大人しく降参するしかなかった。
 終わった。あとはこの悪人たちが法廷で裁かれるよう事を運べばいいだけだ。
 『彼女』がひっそりと息をついていると、シャンティーナの部下のひとりが顔を輝かせながら彼女に近づいていった。

「シャンティーナ様、やりましたね! 神の目を授かるなんて、これで……」
「……げて」
「えっ?」
「みなさん逃げてください!!」

 慟哭にも似たシャンティーナの叫び声が耳をついた。その刹那。真っ赤な水が噴水のように吹きあがった。
 いや、これは水ではない。――血、だ。

「……え?」

 なぜ。どうして。目を見開き、恐怖を感じる間もなく息絶えた、シャンティーナの部下の首から鮮血が噴き出している。水元素で研がれた刃がシャンティーナを中心に、軌道を描くように回転している。
 まずい。『彼女』は本能的に悟った。これは、元素力の暴走だ。
 そもそもただの人間が、神の眼差しが降りたとたんに元素力を制御できるようになるということが『彼女』にとっては不思議だった。『彼女』のように元素から生まれた生命体ならまだしも、魔力の欠片すらない普通の人間が、生まれたときからある手足のように突然発現した元素力を扱いきれるわけがないのだ。

「水の元素力を抑えきれない……止まらない……こわい……こわい……っ!」

 目を見開き、恐怖で体を震わせながら、シャンティーナは『彼女』へと救いを求めた。

「たすけて……クリオネちゃ……」
「っ、鎮まりなさい!」

 『彼女』は持ちうる限りの力を注ぎ、シャンティーナの元素力を押さえ込もうとした。
 エゲリアがこの国を治めていたころの『彼女』の力であれば、息をするように容易くできたに違いなかった。しかし、シャンティーナから美しい水を用意してもらい、力を回復させてきたといっても、全盛期の力の半分程度も出せない。
 暴走するシャンティーナの元素力は『彼女』の祝福を拒絶した。

「わたくしの力でも抑えきれない……っっっ!」

 そして『彼女』はか弱い姿へと戻ってしまった。地面にぺしゃりと落ちて、這いつくばりながら、苦痛に表情を歪ませるシャンティーナのことを、ただ見上げるしかできなかった。

「あ、あぁ、ぁ、あ……!!」

 シャンティーナの水の刃が、無差別に生きている人間を襲う。敵も、味方も、関係なく。しかし、シャンティーナの元素はまだ尽きない。奪い足りない。
 絡み合った水元素は巨大な渦となり、一つの島を呑み込んだ。水の刃から逃げ延びた人間も、船ごと海の中に沈んでいく。ただひとり、神の眼差しが降りたことで、神の祝福をその身に宿したシャンティーナだけは、フォンテーヌの海に溺れずに済んだ。

「……あは……あはは」

 水面に身を預けながら、シャンティーナは壊れたように力なく笑った。目尻からとめどなく流れる涙は、彼女が愛したフォンテーヌの海に流れ落ち、溶けてひとつになった。
 彼女の愛は、この国に受け入れられるのだろうか。その答えは『彼女』もわからない。答えを決めるのは、審判の舞台の上になるのだから。



2024.03.24



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