ラクリモーサ


 ――ぽちゃん。水面に雨粒が落ちるような音が響いた。深海から海面を目指すように、意識をゆっくりと浮上させていく。グラスの中に満たされた水に浸かっている体を起こし、鰭とも腕ともとることができる二本のそれを、グラスの縁にかけて部屋の中を見渡した。
 グラスが置いてある上品なラウンドテーブルの先には、鮮やかなスカイブルーの絨毯が広がっている。壁際には床置き式の大きな花瓶があり、竜胆色の生花が飾られている。花瓶の近くには陽射しをたっぷり取り込むための大きめな窓がある。
 しかし、今はその窓から光が射し込んでいない。窓を弾く雨音は、まるで誰かが泣いているように聞こえた。

「あらあら。あの人はまた悲しんでいるのでしょうか」

 フォンテーヌにはこのような言い伝えがある。『フォンテーヌにはかつて水の龍が住んでいた。水龍が悲しみ、涙を流すとき、フォンテーヌの空からは雨が降ってくる』というものだ。そして、伝説や迷信、童話の類を信じている子供たちは、雨が止むように親から教わった呪文を唱えるのだ。

「仕方ありませんねぇ」

 宝石のように丸い頭部の輪郭を緩め、波を重ねたような鰭を伸ばし、魚のように短い尾を二本に分けた。そうすることで、グラスの中に入っていたクリオネのような姿をした元素生命体――小さな純水精霊は、その姿を変えて人の姿を模った。
 深さによってグラデーションする海のような青い髪は足元まで長く伸び、波のように撓んでいる。穏やかな輪郭の中に閉じ込められた瞳には水面の煌めきが宿り、微かに虹色の光が揺らめいている。はっきりとした曲線で構成された女性らしい体は、マーメイドラインのワンピースとジャケットに包まれている。
 ヒールを履いている二本の足で、軽やかにキッチンへと向かう。お気に入りのエプロンを身に着けて、長い髪を竜胆色のリボンで一つにまとめる。よく手を洗ったら、調理開始。鼻歌を口ずさみながら、ボウルに入れた卵と砂糖をホイッパーでよく混ぜ合わせる。

「水龍――水龍――泣かないで――」

 雨が上がるように。あの人の悲しみが晴れるように。
 五百年近くにも及ぶ記憶を遡りながら、純水精霊は在りし日の面影に想いを馳せるのだった。



2023.12.18



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