正義と公平、それから秩序


 変わったもの、変わらなかったもの。得たもの、失ったもの。答えが出たもの、未だに迷い続けているもの。
 様々な感情が交錯する中で、そこに留まることを知らない水のように時間は流れ、季節は繰り返す。

 シャンティーナがパレ・メルモニアに所属しておおよそ五年の月日が経過した。

 当初、人間とメリュジーヌの間入っていた亀裂は少しずつ塞がっていき、フォンテーヌに少しずつ平和がもたらされようとしていた。
 双方の架け橋となり、歩み寄る努力をしたことを認められ、ヴォートランとカロレには平和勲章が贈られた。ヌヴィレットが自ら手掛けた真珠貝のようなそれは、ふたりの胸元で揃いの輝きを放っていた。
 目を輝かせて喜ぶカロレに対して、ヴォートランは冷静だった。本当の意味で、双方の種族が手を取り合う日はまだまだ遠い、と。
 そして、ヌヴィレットもヴォートランに同意見だった。フォンテーヌ人がメリュジーヌに抱き始めた信頼はまだ脆い。何かきっかけがあれば泡沫として消えてしまうほどに。だから、ふたりとも十分に気を付けるように。

 ヌヴィレットが忠告した矢先、事件は起こった。

 カロレが亡くなった。正確には自害だ。ヌヴィレットが主導して行っている革新によって、利益を失った旧勢力が起こした殺人事件の濡れ衣を着せられ、解決のために自ら命を絶ったのだ。
 警察隊が動かなかったわけではない。しかし、事件の現場は混沌としており、メリュジーヌが人間を殺したと思い込んだ民衆は怒り狂い、警察隊の介入を妨げた。その結果、カロレが死を決断するまでに間に合わなかったのだ。
 カロレの死因は検視せずとも特定できた。死因は焼死。焼け跡には焼け焦げた小さな死体が残っているのみで、それ以外は何も残っていなかった。平和勲章すらも、燃えてしまった。

 しかし、事件はそれだけにおさまらなかった。

 カロレの自害という訃報を受けて、真っ先に行動した男がいた――ヴォートランだった。
 ヴォートランは特巡隊の隊長という立場を利用して、カロレに罪を負わせた旧勢力のリストを入手した。そして、あらゆる情報経路を遮断させ、その間に、ヴォートランはカロレを自害へと追いやった者たちを、ひとり残らず私刑した。その後、ヴォートランは自らパレ・メルモニアに出頭し、罪を自白したという。

 このときはじめて、ヌヴィレットとシャンティーナは事件の全貌を把握した。全て取り返しがつかなくなったあとの出来事だった。

「シャンティーナ」
「はい。裁判の準備は全て整っています」

 エピクレシス歌劇場の一室で、裁判の準備は着々と進められていた。
 シャンティーナはヌヴィレットの長い髪を結いなおし、その肩に上着をかける。一寸の狂いもない精度で整えられた威厳に、迷いも憂いも怒りもない無想の表情を張り付ける。こうして、ヌヴィレットという最高審判官は完成する。
 それは、シャンティーナが微かに恐れを感じてしまうほどの隙のなさだった。

「あの、ヌヴィレットさま」
「どうした?」
「差し出がましいかもしれませんが……大丈夫ですか?」
「問題ない」

 間髪入れずに帰ってきた言葉に、シャンティーナはそれ以上何も返せず唇を結んだ。

「シャンティーナ。確か君はこの五年の間に書記官の資格を得たと記憶している」
「はい」
「ならば、今回の裁判の記録を君に託そう」
「……承知いたしました」

 いつものように、ヌヴィレットを審判官に。そして、シャンティーナを書記官として、被告人ヴォートランの裁判が幕を上げた。
 裁判が始まったときから、歌劇場は沸いていた。今回の事件で大量殺人を犯したのが、犯罪者を取り締まる側であるはずの特巡隊隊長なのだから、裁判にエンターテイメントとしての側面を求めるフォンテーヌの民が興奮するのも当然の流れだった。
 確かに、ヴォートランは人を殺めた。しかし、それは罪を擦り付けられたカロレの敵を討つためにとった正義だと、その場にいるほとんどの人間が主張した。もとはといえば、ここで裁かれるのは旧勢力の者たちになるはずだった。いずれ有罪判決を受けたであろう者たちを私刑にしたとして、それが罪になるのはおかしい、と。
 その中から聞こえてきた密やかな声にも、シャンティーナは耳を傾けていた。旧勢力がいなくなった今、ヌヴィレットの地位は固くなった。部下をふたりも失いたくないヌヴィレットを援護するよう動けば、結果として利益を得られるだろう、という貴族の目論見だった。

(……本当に人間というものは)

 私欲。同情。野心。悦楽。それぞれが様々な思惑と感情が渦を巻く中で、人々は同一に無罪を唱えた。
 人々の信仰が集まり、諭示裁定カーディナルが無罪へと天秤を傾ける。誰もがヴォートランの無罪を確信しているだろう。シャンティーナさえも、そうなるだろうと思ってしまうほどに。
 しかし、シャンティーナはあの日のことを忘れていなかった。誰もが無罪になることを信じて疑わなかった裁判がひっくり返される瞬間を、シャンティーナは知っている。

(あのときも、みんな“シャンティーナ”のことを庇った。……でも)

 これまでの記録をまとめて、ヌヴィレットを見上げる。全てはフォンテーヌの最高審判官へと委ねられた。

「静粛に」

 ヌヴィレットは一度何かを考えこむように、瞼を落とした。しかし、そのあと現れた眼差しに、迷いはなかった。
 ヌヴィレットはその場にいる全員の眼差しを受け止めながら、淡々と見解を述べた。
 ヴォートランの行動に正義があったことは認められるし、その選択は理解できるものである。実際に、無罪を訴える数がこれほどまでにいるのは、彼の善性が支持され、彼の行動が共感を生んでいる証だ。
 しかし、それはあくまでも個人においての正義である。復讐のために職権を乱用し、私刑を下すという行為は、国の正義に反している。
 それが、ヌヴィレットの答えだった。

「ゆえに、私は……君を有罪とする」

 ヌヴィレットの言葉に耳を傾けていた人々は息を呑んだ。誰もがヌヴィレットとヴォートラン、そしてカロレの親交を知っていたからこそ、下された判決に耳を疑わずにはいられなかった。
 最後の発言を許されたヴォートランは激昂し、ヌヴィレットを責め立てた。与えられた命令を全てこなし、国のために尽くしてきた部下に対する仕打ちがこれか、と。誰もが庇ってくれているのに、どうしてそれらしい言葉を並べて罪をなかったことにしてくれないのだ、と。

「これがお前の考える公平だとでもいうのか? 答えろ、ヌヴィレット!!」

 ヴォートランの言葉。表情。身振り手振り。その全てから、ヌヴィレットに対する怒りと憎しみが伝わり、誰もが言葉を失った。
 しかし、諭示裁定カーディナルが有罪へと傾き、正式に判決が言い渡されると、ヴォートランはこう言った。

「さようなら、ヌヴィレット様」

 恨み。悲しみ。怒り。諦め。存在する負の感情全てが込められた別れの言葉は、静かに、その場にいる人々に波紋のように広がっていった。
 ヴォートランがかつての部下たちに連れて行かれたところで、審判は幕を下ろした。
 記録をまとめたシャンティーナは、ヌヴィレットともに退席しようとした。舞台の袖へと消える間際、まだ席に残って判決を噛み締めている貴族たちの声が耳に届く。

「ここまで揺るぎない公平を貫くとは……」
「俺たちはヌヴィレット様のことを侮っていたのかもしれない。これほどまで私情を挟まず、公平な審判を下す方なら、最高審判官の席を任せ続けても大丈夫だろう」
「しかし、あれだけ親しい仲にあった部下に有罪を下すなんて……氷のように冷たい人ね」

 声を振りきるように足を早める。床を叩くふたり分のヒールの音が、静かな廊下に響いた。

「大丈夫、ですか」

 ヌヴィレットは何も答えない。しかし、その横顔を見たシャンティーナはそれ以上声をかけることを止めて、窓の外を見上げた。雨粒が強く窓を叩き、まるで空が泣いているように思えるほどの豪雨だった。

「正義とはいったい何なのでしょう」

 シャンティーナが求め続ける解はまだ出ていない。けれど、目の前で痛そうな顔をしている人が無情な心を持っているとは、どうしても思えなくなってしまった。



2024.05.05



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