「トロン、トロン」

「あぁ、なまえ。どうしたの?」

「お腹空いたんだけど」

「そう、分かったよ。今Vに何か作らせるから」


そう言って両手を広げるトロン。これはいつもの、おいでという意思表示だ。私は素直にそれに従って、彼の座る椅子に寄り添うように腰を下ろした。


「いい子だね」


ふ、と短く笑ったトロンが、髪を梳くように私の頭を撫でる。これだ、この瞬間が私は凄く好きだった。


私には記憶が無い。だからもちろん、家族の記憶も無い。兄弟がいたのかも、父がどんな人だったのかも私は何一つ覚えていないのだ。けれど寂しいと思った事は一度も無い。何故なら私は一人では無いから。兄弟の代わりにXやW、Vがいて、トロンがいる。皆は家族のいない私を本当の家族のように迎えてくれたのだ。だから施設にいた頃よりも、私はずっとずっと幸せだ。


「ねぇ、トロン」

「今度は何だい?」

「んー……」

「勿体ぶらずに言ってごらんよ。欲しいものがあるんでしょ?」

「欲しいものっていうか……私、学校に行ってみたい」


以前Xと出掛けた時、偶然見かけた制服姿の少年。あまり私と歳はの変わらないあの子が、楽しそうに友達と一緒に帰る姿を見て羨ましくなったのだ。私もあの中に混じってみたい。私もあの子達と友達になりたいと。もちろん毎日トロン達と一緒にいるのも楽しい。けれど少しでいいから、私も外に出て友達を作ってみたいと思った。


「学校、ね……」

「うん。行ってもいいでしょ?」

「……ごめんね、いくら君の頼みでもそれは聞けないかなぁ」

「え……」


驚いて私が顔を上げると、トロンは苦笑を浮かべて私を見ていた。それから私の頬に掛かる髪を払いながら、諭すように語り始める。


「僕はね、なまえ。君の事がすっごく大事なんだ。だからね、下手に君を外に出して変な虫が付かれても困るんだよ」

「そんなの、大丈夫なのに……」

「君は大丈夫だと思っても、実際はそうじゃないかもしれないでしょ?だって、学校に行って虐められたらどうするの?仲間外れにされたらどうする?そうなった時、学校にいない僕達は君を守る事ができないよ」

「……」


トロンが少し強く私の手を握る。何故かその時、私は少しだけトロンに父親の影を感じた。不思議に思ってじっとトロンを見つめると、彼は柔らかく私に微笑んだ。


「勉強ならXが見てくれるし、遊び相手にはWとVがいるよ。だからほら、学校に行かなくたって大丈夫じゃない。虐められる心配もないし、何かあれば君を守る事ができる。分かったかい?」

「……うん、分かった」


頷いた私を見て、トロンがパッと笑顔を浮かべる。学校に行けないのは少し残念だけれど、トロンの言っている事は間違いじゃない。私には学校に行かなくても大丈夫なようにきちんと環境が整えられている。なのにそれ以上を望むのは、流石に我儘過ぎた。私は反省の意味を込めて、短くため息を吐く。するとちょうど背後の扉から、控えめなノックが鳴らされた。


「なまえ、ホットケーキと紅茶を入れたから、リビングにおいで」


ノックをして部屋の中に入って来たのはVだった。トロンがご苦労様、とVに答えると、Vはいつものように深く頭を下げる。


「さぁ、この話は終わりにしよう。紅茶が冷めないうちに食べて来なよ」

「うん」


名残り惜しいが背に腹はかえられない。私はトロンの傍を離れて、扉の前に立つVの元へ向かった。










* * *



「……」


閉まった扉を見つめながら、僕は少女の小さな背中を思い出していた。我が家族の末娘。僕の愛しい愛娘。僕が異世界から帰ってきた時、幼かったあの子も随分大きくなっていた。


「学校には行かせないなんて、可哀想な事をしたかな……」


けれどこれで良かったのだと無理矢理自分を納得させた。あの子は外に出さなくていい。ここで、僕ら家族に囲まれて生きていけばいいのだ。そうでなければ何の為に、力を使ってまであの子から僕ら家族の記憶を消したのかが分からなくなってしまう。幸せだった家族の崩壊を、自分の父がこんな姿になってしまった真実を、僕が誓った復讐を、優しいなまえは最後まで知らなくていい。知ってしまったらきっと、あの子は深く傷ついてしまうから。そうなるくらいなら、僕らは家族である事など捨てる。赤の他人としてでも、彼女を守っていくことはできるのだから。


「ホットケーキ美味しかったよ!」
「お帰り。ちゃんとVにありがとうは言った?」

「うん。それで、あんまり美味しかったからWにも少し分けてあげた」

「へぇ、そうなの。君は本当に優しい子だね」


妹に優しくされて、僕は狼狽する次男を想像して思わず笑ってしまった。あの昔からの利かん坊も、妹にだけは弱いんだから。そしてまた僕の傍に来たなまえを撫でてやりながら、僕はそっと瞳を伏せた。きっとこんな瞬間を幸せと呼ぶのだろう。娘の温もりを両膝に感じながら、僕の胸は少しだけ復讐の虚しさにちくりと痛んだ。





ハコイリムスメ
(僕達家族の宝物)





Twitterからのリクエスト作品。
この後遊馬と出会って恋に落ちます\(^o^)/
2012.08.06