(2010.11.26)
キュッキュッキュッ、ガラスを擦る軽快な音が、誰もいない真夜中の水族館に響き渡る。既に乾いてしまった雑巾を、一旦濁ったバケツに沈めてから、先に浸しておいたもう一枚の雑巾で丁寧に水槽のガラスを磨いていく。

「あ」

ボーン、ボーンと深夜0時を知らせる鐘の音に、私は叔父から貰った腕時計へと視線を送った。私の通常勤務時間は、0時10分まで。今夜は少しだけ早めに帰れそうだと、私はほっとため息を吐いた。

「よし、水槽磨き終了!」

ピカピカと光沢を放つ磨きたての水槽は、ツナギ姿の私を鮮明に映し込んでいた。我ながら、仕事のでき具合に惚れ惚れする。すっかり汚れた清掃用具を片付けて、私は一度の大きな水槽を見上げた。

「仕事は済んだのか?」
「!」

誰もいないはずの背後から、不意に聞こえた低い声。その声に、思わず私の肩がびくりと跳ねた。恐る恐る背後へ振り返れば、そこには館長の力で人間モドキに変身した、この水槽の主がいた。

「おおおお脅かすなぁっ!サカマタァっ!」
「脅かしたつもりは無い」
「私マジでお化けとか無理なんだからね!」
「……でら弱か」

あーそうですよそうですよ。弱くてごめんなさいね。願わくばいい加減このアルバイトから私を解き放って欲しいものだ。時給は昼間のコンビニと変わらないし、館長は怖いしサカマタお前も怖いし、何より真夜中である事が怖いよ。

「せめて昼間のシフトにして欲しい……」
「怖いからか? ……俺達が」
「いや、まぁアンタ達も十分怖いけどさ。真夜中に一人で夜道を帰るのが嫌なんだよ。だって最近物騒でしょう? 通り魔だの強姦魔だの色々……ほら、私か弱いし?」
「それは嘘だな」

嘘じゃねーよこのイルカちゃんめ。いや、サカマタはシャチなんだけどね。所詮海洋生物に、人間様の事情なんて分からんのだよ。多分強姦魔とかの意味も知らないんじゃないかな。てか、あーもう勤務時間を大幅に過ぎているじゃないか。今0時30分。

「仕事も済んだことだし、私帰るよ。じゃあねサカマタ」

ガチャガチャと喧しい音をたてながら、私は古びたバケツを手に自分一人しか使わない事務室へと向かう。しかし不意に体が強い力で引っ張られ、私は危うくバランスを崩すところだった。こんな事をするのは、この場には一人しかいない。ギロリとツナギを掴むサカマタを睨み付けて、私は勢いよく奴の方へと振り返る。

「何すんの!」
「か弱きお前を助ける為だ」
「今死にかけましたけど!」
「まぁまぁ、俺の話を聞け」

やる事は済んだんだし、さっさと帰らせて欲しい。時間が遅くなればなるほど、私の危険度が増す。夜中のテンションに当てられた馬鹿どもが、今日に限って夜道を徘徊しないとは言い切れないのだ。

「お前がか弱いかどうかは抜きにしても、確かに夜中に年ごろの女が出歩くのは危険だ」
「抜きにしてもって何だ」
「俺達も、貴重な人間の飼育員を失うのは避けたい。よってこれからは、俺がお前と行き帰りを共にしよう」
「え」

サカマタが急にそんな事を言い出したので、私は思わず唖然としてしまった。しかしそれは、大変ありがたい。あの海の支配者たるサカマタが、直々に警護についてくれるというのだから。逆に不審者の方が、サカマタを恐れて近寄らなくなるだろう。これはいい効果が期待できそうだ。

「ありがとうサカマタ!惚れ直したよコイツぅ!」
「その代わり、報酬は体で払って貰う」
「いいよいいよ!何処だって掃除しちゃう!イヤッフーッ!」
「……忘れるなよ」

ヘラヘラと笑いながらサカマタのその言葉を受け流していた私は、後になって軽率な自分に後悔するのだった。

(サカマタって以外に細かったんだね!)
(でら五月蝿か)