「お兄様、なまえさんとはお会いになりました?」

勘定奉行での会合から久しぶりに家に帰れば、妹が楽しそうにそう声を掛けて来た。なまえと聞いてすぐに思い浮かんだのは、幼い頃によく我が神里家の前を通り、鳴神神社にお参りをしていた彼女のことだった。

「なまえ……? あぁ、彼女か。いいや、会っていないよ」
「あら、そうでしたの? では、お兄様が戻られるまでお引き止めしておけば良かったですね……」
「ふふ、そんな気遣いは不要だよ。それに、何処かへ行こうとする彼女を引き止めるのは、なかなか至難の業だろうからね」

幼い頃、よく鳴神神社に向かう彼女を何度か呼び止めた時のことを思い出す。彼女は常に何処か遠くへ行きたがり、自分に興味関心を持つ私を、いつも煩わしそうにしていた。けれどそんなやり取りを繰り返す内に、いつしか私と彼女は自然と"幼馴染"と周囲から呼ばれる間柄となった。そう言えば、当時は辺りを駆け回る彼女の後を着いて回る少年がいた気がするが、あまり彼と仲良くなることはなく、正直あまり覚えていない。が、なまえと聞けば自然とあの頃のことが頭に思い浮かぶのだから、彼女との幼い頃に過ごした時間が、自分にとって尊い思い出の一つなのだと思い知る。

「しばらく姿を見ていなかったけれど、彼女は元気だったかい?」
「ええ、元気そうでした。彼女、鎖国中に稲妻の外に出ていたようで……」
「そうだったのか。道理で、長いこと見かけない訳だね……鎖国も解かれたことだし、ようやく稲妻に帰って来たのかな」
「ええ、一時帰省中なんだと仰ってましたわ」
「一時帰省中? では、また稲妻の外に出るのかい」
「ええ。モンドにいる恋人が迎えに来たので、明後日には帰……あ」
「……」

綾華が気まずそうにそう言って、私の顔を見る。流石聡明な妹だ、私の彼女に対する思いなど、とっくにお見通しでいたようだ。

「すみませんお兄様……」
「どうして謝るんだい?」
「その、お兄様はなまえさんのことを……好き、でいらっしゃると思っていたので……」
「はは、そうだね。間違ってはいないよ、綾華は鋭いね」
「……今も、でしょうか」
「今は……そんなことを考える余裕があまり無いかな」

綾華の問い掛けに、一瞬言葉を躊躇った。違うと一言否定すれば良いだけなのに、それができなかった。嘘は上手い筈なのに、もう好きではないと口にした時、私はきっとその通りに自分の心を騙す。そうなってしまったら、彼女との思い出さえも、私は機械的に忘れてしまうだろう。それが正しいことであると知りながら、例え成就することのないこの想いを、ずっと大事にしていたかった。

「……私、お兄様はなまえさんとご結婚なさると思っておりました」
「はははは」
「冗談ではないのですよ?」
「私と彼女がそんな間柄に見られていたのなら、とても光栄だよ」
「お兄様……」
「そろそろ仕事に戻るよ。次に彼女に会ったら、よろしく伝えておいてくれ」

まだ何か言いたげな妹にそう告げて、執務室に戻る。初恋について想いを馳せるのも悪くはないが、私にはまだやるべきことがたくさん残っていた。だから彼女が再び稲妻を離れるまでの間、私が彼女と再会することもないだろう。そんなことを思いながら、仕事の手を進める。そして淡々と職務をこなしながら、過ぎる時間を気にも留めることなく、目の前の雑務を片付けていった。やがて海の彼方に沈んだ太陽が再び登り始めた頃に、ようやく私は仕事の手を止めて、固くなった身体をほぐすように伸びをする。それからふと思い立って、屋敷の外に出た。まだ肌寒い朝に吐く息は白く、薄闇が掛かる空に昇っては消えていく。少し屋敷の周辺を散歩でもしようかと歩き出したその瞬間、ジャリ、と私の背後から足音が聞こえて来た。

「……」
「あ」
「……これは、珍しい客人だ」
「やっぱり綾人だ、うわ、久しぶり!」

元気してた、と。そう笑って私に歩み寄る彼女に、自然と私の顔も綻ぶ。そういえば、彼女が鳴神神社に向かうのはいつもこのくらいの時間だったことを思い出した。

「もう会えないと思ってた」
「そんなことはないよ。君がここに来れば、いつでも会えるじゃないか」
「そうだけど……私、またしばらく稲妻を離れるから」
「……」
「綾人の顔が見れて良かったよ」

朗らかに、そう語る彼女に私の心がざわりと揺らぐ。もう明日には、この国から離れる彼女。そんな彼女を、このまま見送って家に戻るのは惜しい。だから、これから鳴神神社へ最後のお参りをするという彼女に、私も着いて行くことにした。まだ仕事は少し残っていたが、今日の遅れくらいきっと帳尻を合わせられるだろう、とたかを括って。枯葉を二人で踏み鳴らしながら、常人が登るには険しい山道を二人で進む。その間彼女とこれまでの日々や、私の知らない彼女の話を聞いた。

「君が稲妻を離れていたなんて、知らなかったよ」
「そりゃあ、綾人にわざわざ知らせることでもないし」
「そうかい? 寂しいことを言うね、君にとって僕の存在はその程度だったなんて」
「な、蔑ろにしたつもりはないけどさ……綾人、絶対止めたでしょ。分かってたもん、綾人は昔からそういう人だよね」
「そうですか? 僕だって、友人の門出くらい祝福しますよ」

彼女の言葉にそう答えながら、内心否定はできないと思った。彼女が鎖国の敷かれた稲妻を旅立つと知った時、果たして私はすんなりと彼女を見送ったのだろうか。彼女に対してはいつでもその身と心の自由を尊重したいと思いながら、その時の自分がどんなことをしたのかを、想像するだけで恐ろしい。きっと彼女にとってよくない結末があったのかもしれないと思うと、我ながら私に黙ってこの国を離れた彼女の判断は、正しかったと言わざるを得ない。

「外の世界はどうだった?」
「広くて、見たことないものがたくさんだったよ。面白い人達もたくさん居たの」
「そうかい、君が楽しそうに走り回る姿が目に浮かぶよ」
「綾人は稲妻の外には出ないの?」
「ふふ、出たい気持ちはあるけれど……生憎、仕事が忙しくてね。なかなか外に出る暇もないよ」
「そう、それはもったいない。今度、モンドに来てよ。私の友達を紹介したいから」

彼女がそう口にしたのと同時に、鳴神神社に辿り着く。早朝の社にはまだ巫女の姿も見えず、私達は揃ってお賽銭と共に境内の前で手を合わせた。隣の彼女が何を祈ったのかは分からないが、私はこれから稲妻を離れる彼女にも、神の加護がありますようにと祈った。それからしばらく二人で眼下に広がる稲妻を眺めながら、ゆっくりと山を降りた。

「それじゃあまたね、綾人」
「ええ、また」

神里屋敷の前まで戻り、自宅に戻って行く彼女の背中を見送る。明日この国を離れる彼女と、私はもう二度と会えないかもしれない。
私の幼馴染、私の初恋。
大人になった今でも、私が心を動かされる女性など、彼女以外一人として存在しなかった。
きっとこれが愛なんだと、そうでなければ、何と呼ぶべきなのかが分からない。
そしてそんな彼女は、これから私の目の届かない世界で生きていこうとしている。
私はーー

「……なまえ」
「?」

立ち去る彼女の手を掴んで、引き止める。驚いて振り返ったその表情でさえ、堪らなく愛おしい。私は彼女の身体を引き寄せて、抱き締めた。いつだったか、両親を亡くしてすぐの頃、彼女はこんな風に私を抱き締めてくれたのを思い出した。

「あ、綾人? あの、これは……」
「……君が好きだよ」
「え……」
「今までずっと、君が好きだったんだ」
「綾人……で、でも私……」
「分かってる。今の君には恋人がいて、明日その恋人とモンドに帰ることも……けど」
「けど?」
「諦めずにはいられないよ。だからずっと待ってる。いつか君が今の恋人と別れ、稲妻に戻って来る日を」
「……」
「そしてその時は、僕の妻になって欲しい」
「や、約束はできないよ……」
「それでも良いよ。でも、僕がずっと君を待っていること、忘れないでおくれ」
「……」
「それじゃ、元気で」

最後にそう言って、彼女を解放する。頬がほんのり紅潮した彼女を見てくすりと笑えば、彼女はさらに顔を赤くして、そそくさと僕の前から立ち去った。私は今度こそそんな彼女の背中を見送って、神里屋敷に戻る。私の突然の告白に、彼女はきっと驚いただろうが、それでも私の心は不思議と晴れやかだった。いつ訪れるかも分からない「いつか」を信じて、これからも私は彼女の帰りを待ち続けるだろう。


2023.03.04