※『たかが一瞬だけど永遠』と同じ夢主


「よし!」

私が元いた世界で、一部の人々に広く認知されている某猫のような掛け声と同時に部屋を見渡す。決して広いとは言えないが、女が一人で暮らすには充分な規模だ。私は真新しいベッドにバフン、と背中から音を立てて寝転ぶと、無機質な灰色の天井を見上げる。今日から約一か月、私はイドフロントを離れてこのオースで一人暮らしを始める運びとなった。理由は単純で、せっかくならば異世界での新生活を送ってみたくなったのだ。
何せ私は、この異世界に来て間もなくアビスにダイブして、行けるところまで行った。そして気付けば白笛、黎明卿ボンドルドの細君様になっていたのだ。もちろん、イドフロントにおける彼との暮らしに何一つ不満はないのだが、私の元いた世界とは違う、この世界本来の生活様式を体験したいと思うことは何も悪いことではない筈。

「はぁ、久しぶりの単身生活だ……」

ベッドに仰向けに転がり、そう呟く。この生活を得るまでの道のりは、決して楽なものではなかった。私がオースで一人暮らしをしてみたいと言い出した時、ボンドルドは当然ながら良い顔をしなかった。そして自分との生活に何か不満があるのかだとか、離婚前提の別居なのかと色々問い質された。もちろんそんなマイナスな理由ではないのだが、彼はいくら説明しても言葉巧みに私を思い留まらせようとしてきた。しかしながら、粘り強く交渉を重ねた結果、ボンドルドは渋々、本当は嫌だけどそこまで言うならば渋々、と言った様子で一か月だけ私の単身生活を許してくれた。

「いつもなら何でもすんなり許してくれるのに、意外だったな……」

私がイドフロントにいる間、ボンドルドが私のやる事に煩く口を出して来たことはほとんどない。むしろ、私が何をしても「可愛いですね」で彼は許してきた。それなのに、ボンドルドは私と一か月離れて過ごすことを物凄く嫌がった。普段から自由にさせてくれるのに、物理的に離れることには抵抗があるのだろう。たったそれだけのことだが、それでも私に対する彼の強い執着を感じられたことは、正直嬉しかった。今日もここに私を送り届けてくれたのだが、最後の方は「貴方に何かあっても、私はすぐには来れませんからね」とちょっと拗ねていたのも含めて。

「一か月後に会うのが楽しみだなぁ」


* * *

オースでの一か月は、瞬く間に過ぎていった。そして遂にボンドルドが迎えに来る日を迎え、私は非常に満足していた。アビスを囲むように発展して来たこのオースには、アビスに纏わる決まり事などが多く存在するものの、私にとって目新しい文化や生活様式が多数存在した。それらを全て体験できた訳ではないけれど、良い社会勉強になったと思う。欲を言えばもうあと一か月ほど好きにさせて欲しかったが、これ以上の我儘を言うのは辞めにした。約束の時間になったら迎えに来ると言っていたボンドルドを待ちながら、私はすっかりと馴染んだ部屋の窓から、オースの街並を眺める。

「ん?」

離れ難くなるものかと思っていたら、案外そうでもないなぁ。そんな風に思っていると、不意に玄関の方からノックの音が聞こえて来た。少し早いが、どうやら迎えが来たらしい。私は荷物を持って玄関の方に行くと、一か月ぶりに彼と会える嬉しさに頬が緩んで行くのを感じながら、勢いよく玄関の扉を開いた。

「……ん?」
「やぁ。突然悪いけど、今大丈夫かな?」
「え、あ……実はこの後すぐに出てしまうのであんまり時間はないですけど……どうしたんですか? エドさん」

勢いよく開いた扉の先にいたのは、待ち侘びた人ではなく、この街に来てから知り合った街医者のエドさんだった。彼とは探窟家などがよく出入りする食事処で知り合い、余所者の私にも街で会う度懇意にしてくれた良い人だ。彼は気さくで優しくて、その上容姿端麗なお陰で男女両方からも人気があり、交友関係も広かった。しかしそんな彼が、昼間から私の仮宿に訪ねて来たのは初めてだ。何か急ぎの用でもあっただろうかと思い返していると、彼は私が持っている荷物を指差した。

「その荷物……ちょっと出掛けるって感じじゃないけど、何処かへ行くのかい?」
「はい。実は私、今日でオースを離れるんですよ」
「やっぱり、そうなのか。いや何、ここの宿泊所の店主とは俺も付き合いが長くてね。今日君が出て行くことを教えてくれたんだけど、君は外国から来たいたんだな」
「いえ、そうではなくて……私、これも今だから話せるんですが、五層から来た人間なんですよ」
「え? ご、五層から? じゃあ、君はアビスで生まれたのか?」
「あ、もちろん元はその……が、外国から来てるんです! ただ、アビスに潜ってからはずっとイドフロントにいて……なので、今日までちょっとした社会勉強のつもりでオースに来ていたんです。で、その期間が丁度終わったので、今日帰るんですよ」
「帰るって……君は、探窟家の資格は持っていないと言っていたけど……どうしてあんな場所に戻るんだ? 危険過ぎるよ」

エドさんが私を心配するのを見て、余計なことを言い過ぎたと今更後悔した。私は確かに探窟家の資格は持ち合わせていないが、それでも六層以降に降りて戻って来た経験もあるし、何より白笛を持っている。しかしその白笛は、このオースでの生活を始める条件の一つとしてボンドルドに預けてしまっていた。白笛でも見せていれば納得して貰えたかもしれないが、それより気になるのは、何故この人がやたらと私のことを気にかけるのかということだ。全く交流がない相手ではないにせよ、たかが一か月仲良くしただけの相手の為に、私が今日この仮宿を出ていくことを宿の店主に聞いてまで、わざわざ顔を見せに来たのなら、本当に変わった人だなと思う。

「危険なことなんて無いですよ、もう実家みたいなものですから」
「じ、実家? 俺は探窟家ではないけど、あそこはアビスの最前線基地なんだろう? やっぱり、そんな所に君を行かせるなんてできないよ……」
「大丈夫ですって。迎えも来ますし……何故そう私のことを気にするんですか?」
「それは……こんなこと、今になって言うことではないかもしれないが」
「……」
「俺は君にこの街に留まって欲しいと思ってるんだ」
「え? いや、それは……その、どうして……?」

「君のことが……好きなんだ。友人としてではなく、女性として」
「……」

な、何だって。
いや、正直何となく察してはいたけれど。
しかしいざ面と向かって口にされると、いささか動揺してしまう。多分そうなんだろうけど、もしかしたら勘違いかもしれないからなと誤魔化してきた疑念が事実だと知れたら、例え人より感性の鋭い私でも驚く。私はあんぐりと口を開けたまま、照れ臭そうに頬を掻くエドさんを凝視した。

「突然で驚いたと思う……返事はほんと、今すぐでなくて良いんだ」
「……」
「ただ、前向きに考えてくれると嬉しいかな……良い暮らしはできないかもしれないけど、大事にするよ」
「あー……いや、あの、エドさん……」
「何だい?」
「非常に言いにくいというか、本当に申し訳ないんですけど……実は、私ーー」


「なまえ」

もう結婚してて、と。そう言いかけた言葉を、遮るように割り込んで来た私を呼ぶやけに優しい声。その声の方へとゆっくりと視線を向ければ、私達のいる場所に悠々と歩み寄って来る人物の姿が見えた。その全身黒衣のマスク姿の男ーーボンドルドは、私とエドさんの傍で立ち止まると、私ではなく自分よりも頭一つ低いエドさんの方を見た。

「こちらの方は?」
「……エドさん。この街で仲良くしてくれた人。友達なの」
「おや、そうでしたか。はじめまして、私はボンドルド。ご存知かもしれませんが、アビスにて探窟家をしている者です」
「れ、黎明卿……! あの、白笛である貴方が何故ここに……」
「私の妻がこの街にいる間、大変お世話になったようですね」
「つ、妻?」
「(うわー……)」

声色はとても穏やかで優しいのに、何処かピリついた空気を纏ったボンドルド。機嫌が悪い、と言えば可愛らしく聞こえるが、そもそも彼がこんな風に機嫌が悪い(ように見える)ことなど過去に一度でもあっただろうか。一か月ぶりに私に会えると、ウキウキしながら迎えに来ると思っていた私は、そんな彼の意外な反応にただただ困惑していた。そして、そんな超絶珍しいボンドルドの、不機嫌な空気にすっかりと当てられている可哀想なエドさんを、何とかこの場から立ち去らせてあげなければと、そう思った。

「私からもお礼を言わせてください。本当にありがとうございました」
「あ、い、いえ……結婚、していたとは知らなかった。まして、あの黎明卿の奥様だとは思わず……」
「知らないのも無理はありません。彼女が私の妻であることは伏せておくようにと、私から伝えていましたからね」
「あ、あぁなるほど……確かに、その方が賢明ですね……」

そう。私が黎明卿ボンドルドの妻であることは、この街に来てから誰にも明かしていない。それはボンドルド自身から、このオースに来る前に何度も言われていたことだから。私は、元々この世界の人間ではないからよく分かっていなかったが、白笛と繋がりのある者、ましてや縁故者はそれだけで犯罪や誘拐の対象に狙われ易いんだとか。けれど今この状況を見ていると、エドさんには最初からきちんと話しておくべきだったと思う。そうすれば、エドさんが今のボンドルドを見て萎縮してしまうこともなかった筈だ。結局エドさんはボンドルドに軽く言葉を交わした後、そそくさと逃げるように私達の前から去って行った。

「……」
「荷物はそれだけですか?」
「うん」
「帰りますよ」

エドさんが帰った後、私はボンドルドに連れられオースの街を離れた。その間私達の間に特に険悪な空気が流れた訳ではなかったが、ボンドルドが怒っていることだけは何となく分かった。久しぶりの再会を喜んでくれると思っていたのに、一体何がそこまで彼の気に触ったのだろう。私はボンドルドが所有する籠に乗ってイドフロントに戻る間、一言も言葉を交わそうとすらしない彼を見ては、思わず溜息を吐いた。

「ねぇ、ボンドルド」
「どうしました?」
「……ごめんね」

何はともあれ、私の行動が彼を怒らせていることは確かだ。だからこそ、拗れる前に謝ってしまった方がいい。何せ相手はあのボンドルドだ。素直に謝れば、大事になりはしない。そう思った私が、彼の背中に向かって静かに謝罪の言葉を口にすると、ボンドルドがゆっくりとこちらを振り返った。

「おやおや、その謝罪は一体何に対する謝罪でしょうか?」
「え……」
「他の男性から、不貞行為に繋がり兼ねないほどの好意を寄せられていたことですか? 貴方が相手に好意を寄せられるような振る舞いを無自覚にしてしまったことですか? それとも、一か月もの間私の元を離れ、オースで一人楽しく生活されていたことでしょうか?」
「……」

前言撤回、もう拗れに拗れていた。
ちょっとどころか、彼は現在進行形でめちゃくちゃに怒っている。何なら一か月前に納得したと思っていた、私がオースで単身生活をしたいと言い出した件も、彼の中では未だに消化しきれていないらしい。私はそんな彼の言葉を聞いて、気付かれないようにそっと溜息を吐いた。
これは、いわゆる夫婦喧嘩というやつに当てはまるのだろうか。確かにいくら彼に惜しみない愛を与えられているからと言って、それに胡座をかきすぎたのは私の落ち度だ。もちろん言いたいことなら私にもあるけれど、それでも普段温厚な彼がこうしてブチギレているのだから、とにかく謝って、許して貰うしかない。

「……えーと、全部?」
「おや、きちんと自覚があったとは驚きですね」
「あるある、めっちゃあるよ」
「私に悪いと思いながら行動していたと」
「そうじゃないけど……結果的にそうなってしまったとは思う」
「それで、出てきた言葉が先程の謝罪ですか」
「え……それ以外に何か言うことある?」
「いいえ。もしも貴方が言葉だけの謝罪で済むと思っているのであれば、私からこれ以上言うべきことは何もありません」
「……ん?」

どういうことだ?
私はボンドルドの言葉を頭の中で繰り返し反芻させながら、彼が私に何を求めているのかを考える。彼は倫理観や人道的観点といった物を、かつて人間だった自分と共に捨てた男だが、それでも基本的には博愛主義で優しい人だ。しかし彼の口振りから察するに、今回は口だけの謝罪では私を許すつもりはないらしい。ならば実験にこの身を差し出せと言うのか? と、最悪な選択肢を考えながらも、ふと一つの考えに思い至った。そして先程から無言で私を見つめているボンドルドに、私は勢いよく抱き着いた。

「……何の真似ですか」
「私、貴方と離れて暮らしてる間ずっと寂しかった」
「……」
「オースの生活も悪くなかったけど、やっぱり貴方がいないと楽しくない」
「おやおや……」

「ねぇ、貴方はどうだった?」

なんやかんや、抱き着いた私の頭を撫でる彼を見上げて、そう尋ねた。すると私の言葉に短く溜息を吐いたボンドルドが、不意に私の身体を抱き上げる。そして抱き上げた私をそのまま抱き締めながら、先程よりも穏やかさを取り戻した声色で囁いた。

「寂しかったですとも」
「……そっか、そっかぁ」
「貴方が言ったんですよ、正常な思考などできないくらい自分に夢中になれと」
「だから怒ってたの?」
「そうです」
「私が知らない人と仲良くしてて、妬きもち妬いた?」
「そうですよ」
「ふふふ……飛び上がりそうなくらいに嬉しい」

彼の広い背中へ回した腕に、これでもかってくらい力を込める。するとそれに応えるように、彼も私をさらに強く抱き締め返してくれた。それがますます嬉しくて、幸せで、あぁ、やっぱり私は彼と一緒がいいな、なんて思った。普段飽きる程傍にいるけれど、そんな私達だからこそ、一か月という空白の期間は改めてお互いの存在の大きさを教えてくれた気がする。少なくとも、私にとってはそういう時間になったのは確かだ。

「次に何処かへ行く時は一緒に行こうね」
「ええ、もちろんです」
「離れたりしてごめんね」
「もう怒っていませんよ」
「でもね、オースでボンドルドの話をたくさん聞けたよ。貴方、私が思ってたより有名人でびっくりしちゃった」
「おや、一体どんな話でしょうか」
「深層の遺物の横流しと情報漏洩、違法な人体実験に、害虫駆除の為に水に毒入れたりとか。やってること、私と会った頃より酷くなってない?」
「これも人類の夜明けの為です」
「そうだね、その人も言ってたよ。良き伝統も探窟家の誇りも、丸ごと踏み躙って夜明けを齎す。だから黎明卿、新しきボンドルドだって。とても素敵だね」
「おや……貴方にそう思われるのは光栄ですね」

彼のフルフェイスのマスクにキスを落とすと、彼が愛おしそうに私の頭を撫でる。こんな風に触れ合う事も一か月ぶりで、まるで付き合いたての恋人と初めてキスをするみたいにドキドキした。離れていた時間がそうさせるのか、彼にもっと触れていて欲しい。そんな身体の芯から込み上げてくる熱を逃すように息を吐くと、ボンドルドが笑った。

「続きは、イドフロントに戻ってからにしましょう」
「えー、今がいいのに」
「おやおや、辛抱が足りないのはいけませんね。帰ったらゆっくりと、離れて過ごしていた分まで可愛いがってあげますよ」

相変わらず私の頭を撫でながら、優しげにそう囁くボンドルド。趣旨返しのつもりなのか、どうやら彼は私を焦らすつもりらしい。しかし後から祈手達に聞い話では、アビスの底と地上では時間の流れが異なっているから、私が地上で一か月過ごしている一方で、ボンドルドが私と離れて過ごした時間はせいぜい一週間程度だったんだとか。全く、辛抱が足りないのはどちらかと言いたくなってしまう。


2021.10.09