唇に残った熱の感触に、ジェットは苛立ちを隠さずに大きく舌打ちをした。自分は一体何をしているんだ、と先程からもう何度目かも知れない問答を続けていたが、結局彼自身でも自分の行動に動機付けをする事はできなかった。

「糞ッ……」

アルコールをいつもより過剰に摂取し過ぎた事に対する後悔と、無理矢理では無いにしろなまえにキスをしてしまった両方の後悔。前者にはまだ目を瞑る事はできるが、結局は少なからず後者に繋がる要因である以上ジェットは自分の軽率さを嘆かずにはいられなかった。あんな事をしては、ずっと自分の気持ちを殺して閉口し続けた意味がない。否、言葉で気持ちを伝えるよりももっと酷く彼女を傷付けるかもしれなかった。それを分かっていながら、何故、と。

『いつかジェットとも、離れていかなきゃいけなくなるって事』

「……そんな、寂しい事言うなよ」

ここ最近の日々の中、ふと何もない時間になると考えてしまう。ふらりと姿を消したなまえが、一週間と数日後にまたU-NASAに戻った日の真夜中、彼女が涙ながらに彼に語った事を。知らない振りをして、なまえの気持ちには応えないと決めていながらも、いざ彼女の口からこれから先いつかの別れを予期させる言葉を聞けば、ジェットの胸は酷く痛むのだった。

「どうして俺だったんだ……」

アネックス乗組員総勢100人を構成するのは、各国から集められた人生に行き場を無くした者達ばかりが殆どである。もちろんなまえのように、このアネックス計画に参加せずとも良かった人間もいれば、ジェットのように参加せざるを得なかった人間と、個々の事情に踏み入ればそれこそ際限が無い。自分の知らない人生を歩む誰かに興味があったと言うのなら、ジェットは自分以上に凄惨な人生を送っている者もいる筈だと思っていた。それでも100人という中から、なまえが見つけ出したのはジェットであり、また奇しくもジェット自身が、強く興味を引かれてしまったのはなまえだった。

「……好きだ」

何の計略もなく、純粋に心からそう思えたのは、ジェットにとって生まれて初めてだった。それまでの殺伐とした人生の中では、誰かに好意を向けるという事は、同時に隙を与える事に等しく、彼の出生地においては隙を見せる事はすなわち自分自身の死を意味する。それなのに何故、その相手がよりによって、これから先決して交差する事のない道を進む人だったのだろうか。ジェットは壁に背を預けながら、静かに床へと腰を下ろした。

「あぁ、糞。本当に……嫌な奴に捕まったもんだ」

誰もいない自室の部屋の隅で、ジェットは自嘲の笑みと共にそう呟いた。




「兄さん」
「ん? なんだい、なまえ」

訓練場から戻る途中、なまえは珍しく兄のジョセフを夕食に誘った。ジョセフは常日頃から可愛がっている妹の誘いに笑顔で応じると、例え相手が身内であっても懇切丁寧に紳士的な態度を崩さない。U-NASA内の食堂ではなく、施設外の気疲れする程高級でもない、至って普通のイタリア料理店になまえを連れ出すと、話をする暇もなくメニュー表から数品を注文し、笑顔で「たくさん食べな」と言った。なまえは渋々話の前にまずは空腹を満たそうと、目の前に出されたピザを頬張る。それからワインを飲む兄に向かって、なまえはようやく意を決したように口を開いた。

「もしも私が、兄さん達の敵になって……兄さんだけでなく、ミッシェルさんの事まで傷付けようとしていたら、兄さんはどうしますか?」
「はは、どうした? そんな冗談を聞かせたくて、俺を夕食に誘ったの? 悪い子だなぁ」
「い、いや……その、確かに冗談と言えばそうかもしれないです。けど、もしもそうなったら、兄さんはどうしますか?」
「……そうだなぁ」

初めこそジョセフは、なまえの話を冗談だと聞き流そうとした。しかし自分を見据える妹の眼差しに、少なからず妹が、自分にその問い掛けに対する本気の答えを求めている事を悟った。そして片手に持ったワイングラスをゆっくりとテーブルの上に置きながら、ジョセフは妹の様子を盗み見る。敵になる、と言うのは、一体どのような状況に置いてなのか。最も考えられるケースは、火星に到着した後、なまえがローマ班だけでなく、アネックス計画に参加する全ての班を裏切り、自分だけが助かろうとする事だ。けれどまさか、そんな事を彼女がするだろうか? という疑問。なまえはジョセフにとって、自分には理解のできない趣味や嗜好を持つ妹ではあるが、それでもやはり芯の一本通った、正義感の強い性分である事をよく分かっていた。だからこそ今日までの間、なまえの事はとても可愛がってきたし、実際いざ彼女が敵になった時、自分が果たして冷酷になまえの首元に剣を突き立てられるかと聞かれればーーきっと、できないだろうと思った。

「無理だね」
「え……そう、ですか」
「おいおい、何その顔。裏切ったからって、兄さんが問答無用で可愛い妹を殺せると思う? 心外だよ、兄さんは冷酷無比な殺戮マシーンじゃないんだよ」
「でも、裏切った私を殺さないと、ミッシェルさんにまで危険が……」
「あー、確かに……まぁ、でもやっぱり俺にお前は殺せないよ。それで結果として、どちらかを失う事になっても」
「……格好悪いですね、そうなると」
「そうだろう? だから、兄さんをそんな格好悪い奴にさせないでくれよ」

祈るように、ジョセフは目の前にいるなまえを見てそう言った。するとなまえは少しだけ安心したように、短く安堵の溜息を吐いた。そんな妹の姿を見たジョセフは、心なしか妹が以前よりも成長したような、そんな感覚を覚えた。自分がアネックス計画に参加する事が決まってから、ならば妹もきっと役に立つだろうと、ほぼ騙すような形で参加させた自覚はあったが、思いの外良い結果になりそうだと思った。以前のなまえはネットの偏った思考に触発され、従来の正義感の強さが変に空回ったような発言やら態度が目立つ子だった。そんな妹に対して頭を抱えるなまえの母親を見ていた分、ジョセフは両者の間に立たされて苦労もしたが、それでもやはり妹はいつもいつも可愛かった。空回り安いのは、単になまえが影響されやすい子だから。良い事も悪い事も、まるでスポンジのように吸収する。けれど、今のなまえはどうやら、いい影響を与えてくれる誰かと出会ったようだと、ジョセフは密かに笑った。

「では兄さん、もう一つ聞いてもいいですか」
「いいよ! 今日の兄さんは機嫌がいいから、何でも答えてあげる」

「……兄さん、もしも大切な人が敵になっても、その人とはずっとずっと一緒にいたいと思う事は、間違いですか?」

「間違いなんかじゃないよ、絶対に」
「兄さん……」
「お前の愛があれば、きっと大丈夫」
「愛って……そこまで大そうな物ではないかもですけど」
「いやいや、愛はどんなに小さな物でも偉大な物さ」
「ふふ、何ですかそれ」

なまえが笑うのを見て、ジョセフも笑った。容姿も、育った国も、国籍も、母親も違う兄妹だけれど、いつだってジョセフはなまえの味方で、なまえもそんな兄を尊敬していた。二人はその後他愛のない会話を交わし、久し振りに兄妹水入らずの時間を過ごした。ジョセフがアネックス計画に参加する事が決まり、その後なまえもそのメンバーに加えられてからというもの、オフィサーであるジョセフとなまえが二人きりになる機会は同じ班でもそうそうない。妹には寂しい思いをさせているかもしれない、とジョセフは忙しい日々の中で密かに心配を募らせていたが、今夜のなまえの様子を見て、それは杞憂だった事を悟った。その証拠に、グラスの向こうに見えたなまえは、とても楽しそうに笑っている。

「(それにしても……)」

「兄さん、ピザお代わりしもていいですか!」

「(大切な人が敵って……ゴキブリにでも恋したのかな……)はいはい、俺が奢るから好きなだけ食べていいよ」
「やった! じゃあ、このお店で一番良いお酒を持ってきてください」

「(兄さん心配だなぁ……)」




監督者の愛




2015.03.15