※嘔吐表現あり




U-NASAから少し離れた、チャイナタウンにある小さな飲食店で、俺は一時間程前からなまえと酒を飲んでいた。アネックス計画に参加してから同じ班の奴以外とこんな機会を持つ事の無かった分、いつもよりほんの少しだけ楽しめた。俺達第四班が、やがてなまえも含めた全ての隊員を裏切る計画である以上、こいつと下手に関わるのは任務を遂行する上で非常に問題だという事はよく分かっていた。それでも懲りずに俺に構うなまえには、いつもながら感心する。できれば……こいつの事だけは裏切りたくない。そんな風に考えてしまう程なまえに絆されかけている俺は、そんな下らない邪念を振り払うように、口に咥えた煙草の煙を勢いよく吹き出した。

「それでさぁ、信じられる? テスト直前になっていきなり、ノート貸してーって、そりゃあないよ」
「そうだな」
「お前がサークルの飲み会で酔い潰れて昼過ぎまで寝惚けている間も、私は毎朝一限に間に合う時間に起きて、毎日真面目に授業受けてんだぞ! って……言ってやりたい」
「言ってやればいいじゃねぇか。何で言わない? 俺にはいつも言いたい事言いやがる癖に」
「言えないよ……ほら今の女の子って、色々面倒臭いから」
「何だそりゃ、俺からしたらお前も十分面倒臭ぇよ」
「え、嘘マジ?」
「冗談だ」

グラスに残ったメコンウイスキーを飲み干して、俺は小さく笑った。すると酔ったせいで顔の赤いなまえは、俺の一言に安堵のため息を吐いた。こいつがどの程度で酔い潰れるのかは知らないが、酒の入ったなまえは普段以上によく喋る。俺は二本目の煙草に火をつけながら、新しいグラスに注がれたウイスキーに口を付けた。ふと視線を横に向けると、トロンとしただらしのない眼差しで俺を見ているなまえと目が合った。吸い込んだばかりの煙を吐き出しながら、「どうした」と問えば、なまえはより一層だらしのない表情で笑う。

「ジェットは特別だから」
「あ?」
「ジェットは私にとって、何でも話せるし、何でも言える相手。こんな風に思うの、身内でも兄さんしかいないんだよ」
「へぇ……そうかい」

ありがたいね、と。グラスを傾けつつ俺がそう言うと、なまえは俺が適当に聞いていると思ったのか、紅潮した頬を膨らませて何やらブツブツと呟いている。少しずつ酔いが回って気分が乗ってきた俺は、そんななまえの頬にブスっと人差し指を突き立てた。「みぎゃあ」と全く可愛くない悲鳴をあげたなまえは、それを見て笑う俺を睨み付けてくる。

「何でそう、適当に流すかなぁ……いつもいつも」
「馬鹿言え、ちゃんと聞いてるだろ」
「嘘だ、私の話なんて、一割も聞いてない癖に」
「そりゃあ、くだらねぇ話には付き合ってられねえからな。一部は聞き流す事もある」

俺は少し嘘をついた。俺が普段から適当に話を流す事がなまえは気に入らないと言うが、そうしていなければいけないのも仕方がない。あまりなまえを知り過ぎては、きっと後で俺自身が辛くなる。けれどそれを分かっていながら、こんな所でこいつと二人きりで酒を飲んでいる俺の行動は、傍目で見ても酷く矛盾している。近付き過ぎず、遠過ぎずと思いながら、いつしか俺となまえの距離はその均衡を破る程密接なものへと変わってしまった。一線を引いていた筈だ、その筈だったのに、その線が見えなくなったのは一体いつからだったろうか。

「好きなんだよぉ、ジェットォ」
「そうかよ」
「ナンプラーと私どっちが好き?」
「そりゃお前、ナンプラーだろ」
「うわ! それ割とマジでショック……」
「冗談だって、本気にすんなよ」




* * * *




「なまえ、聞こえてるか? 俺が誰だか分かるか?」
「うー……じぇ、と、です」
「おし、一回吐け。吐いとけ、楽になるから」
「うっ、」
「ほらこっちだ」

カクテル数杯、ワイン3杯、そしてテキーラの4杯目を飲んだ所で完全に酔い潰れたなまえの肩を持ち、俺達はチャイナタウンを出た。途中なまえが吐き気を訴える度に立ち止まっては、店で散々吐いた空っぽの胃袋から、ほぼ水分だけになった胃液を吐き出すなまえの背中を摩ってやる。何で俺がこいつの介抱をしてやらないといけないんだ、と思いながらも、結局放っておく訳にもいかず、俺は自販機で買ったばかりのミネラルウォーターをなまえに飲ませた。すると少しずつ意識がはっきりとし始めたのか、なまえは覚束ない足取りでよたよたと歩き出す。

「おいおい、勝手に一人で行くんじゃねぇ。危ねぇだろ」
「大丈夫」
「無理すんな、今タクシー拾うから」
「いい……歩ける。歩きたい」

なまえの背中を追い掛けて、俺は再びなまえの肩を支える。正直今夜は、俺もいつもより強めのアルコールを飲んでいたせいか、身体を動かす度に頭がグラグラと揺れる。それでもなまえをU-NASAの女子宿舎に送り届けなければ、きっと後々騒ぎになってしまう。特にこいつの兄貴であるジョセフ・G・ニュートンが、妹が宿舎に帰らなかった事を知れば、恐らく黙ってなどいないはずだ。火星に出発するまで、オフィサーとの間で面倒事を起こすのはなんとしても避けたい所だった。

「……ジェット」
「どうした」
「私ね、本当に、ジェットの事が好きだよ」
「……そうか、嬉しいよ」
「はは、そうやって、また聞き流すんだね。まぁ、でもそれでいいよ」
「聞き流してなんかいねーよ」
「私さぁ、ほんと……こんな風に誰かの前で酔い潰れたのも、女々しく愚痴を零すのも、全部ジェットが初めて」
「俺は迷惑だけどな」
「そう? その割、そういう風には見えないけどね……」
「言ってろ」

なまえの言う通りだった。いや、面倒臭いと思っているのも、迷惑だと感じているのも確かに事実だ。それでも、悔しいが、それらの気持ちよりもこいつの事を好きだと思う情愛の感情が、いつもいつも勝る。なまえが初めて俺に声を掛けてきた時、きっと愛想も悪く、口を開けば相手を罵るだけの俺を、面白がっているだけなのだろうと思っていた。それでもたった数回の会話が少しずつ増えて、気が付けばなまえは俺を「友達」と呼び始めた。今は俺に友達以上の感情を抱き始めている事も、薄々気が付かない程俺は馬鹿でも鈍くもない。

「はぁー……」
「……」
「ジェット、月が綺麗だよ」
「あ? 何て言ったのか分かんねーよ」

不意になまえが、日本語でそうポツリと呟いた。聞きなれない言葉の真意を、俺が理解できる訳も無かったが、ジェット、と俺の名前を呼んだ部分だけは理解できた。それから何となく、視線を上げて空を見上げてみたものの、生憎の曇り空では月どころか弱々しい星の光すら見えやしなかった。

「人類は火星になんて、行かなければ良かったのにね」

俺にも分かるように英語で囁かれたその言葉を、俺はまたいつものように聞こえない振りをした。




曇天の月夜




2015.03.08