ふと、たまに夢を見る事がある。悪魔が息をするあの惑星で、今日か明日かも分からない命を抱えて生きた日々の事を。そして息苦しさに私がようやく悪夢から目を覚ますと、隣にはあの惑星から共に生きて帰って来た貴方が、乱れた態勢で静かに眠っている。柔らかいベッド、不快にならないよう自動で空調の調整がされた部屋、暖かなオレンジ色の照明の下、そこで穏やかに眠る貴方がいて。それだけで酷く安心するのは、あの日々が今でも私の中でトラウマのように消えないでいるからなのだろうか。 「ん……どうした……」 「マルコス……」 「……また怖い夢でも見たか?」 風も無く静かな夜に、さながら獲物を待ち伏せる蜘蛛のように私がじっと動かずにいると、マルコスは小さく身じろいで目を覚ました。そして焦点の合わない瞳で薄明かりの中で俯く私を見つめると、数秒のタイムラグがあったもののすぐにそう尋ねてきた。私は何も答えずに身体を起こしたマルコスの胸に頭を預け、もう何度も着回されて情けなくヨレたTシャツをギュッと掴む。今は悪夢を見た恐怖をどうこうするよりも、ただ彼の体温に触れていたかった。冷たい雨の中、いつ奴らに襲われるかも分からずに怯え続けた日々はもう来ないのだと、今目の前にいる彼と私が生きているという実感が欲しい。 「……なまえ」 「ごめんマルコス、もう少しだけこのままーー」 「そんなにくっつかれると、俺の健全な男の子の部分が勃っちまうんだけど」 「……最低か!」 「いやいや、男なんて皆そんなもんだっつーの」 じわりと私の目尻に涙が浮かび始めた頃、狙ったように彼が緊張感の無い声でそう言った。すると一瞬で私の涙は引っ込んで、軽蔑の意味を含んだ声で私が抗議すると、マルコスは苦笑を浮かべながら幼子をあやすように私の頭を撫でる。その時「怖くない怖くない」と言いながら頭を撫でているマルコスの左の薬指に嵌る、彼に似つかわしくない程華奢なプラチナの指輪がキラリと光った。火星から地球に戻った数ヶ月後、U-NASAから支払われた多額の報酬金の一部を使って、彼が私に永遠を誓う為に買った指輪。そしてその片割れは、私の左手薬指に嵌められている。 「マルコス」 「ん?」 「……ありがとう」 「はは、急にどした」 「その……私を選んでくれて」 「いいえいいえ、どういたしまして。てか、んだよ、そんな事かよ」 「どういう事だと思ったのよ」 「んーと、マルコス愛してる〜とか?」 「ま、マルコス愛してる〜」 「きもっ」 「は? 殺すよ?」 「ジョーダンだよ、ジョーダン!」 なまえは馬鹿だなぁ、とか言いながら、マルコスはまるで蜘蛛が獲物を捕食する時のように両手を広げて私を抱き締めた。そして真夜中にも関わらず、隣人に壁ドンをされるまで狭いベッドの上を二人でドタンバタンと暴れ回った。隣人からの壁ドンを受けたマルコスは、まだ悪戯っ子のような表情を浮かべたまま「お前が騒ぐからだぞ」なんて言って笑っている。 「そろそろ引っ越しも考えるか……」 「え、どうして? 別にこのアパートも悪くはないと思うけど」 「いや、だってさ……ほら、俺達だけで住むならこのアパートで十分だけど、なぁ?」 「なに?」 「……子供、欲しくない?」 「は……」 マルコスが遠慮がちに呟いたその言葉に、私の頬が一気に赤くなる。それにつられたマルコスの頬も真っ赤になって、少しだけ気まずい空気にお互いが閉口した。けれど徐々に私の胸には、いつか彼との間に産まれるであろう子供への愛情や、チンピラみたいなマルコスにも私との子供を望もうとする気持ちがあった事への喜びに溢れ、じんわりと目頭が熱くなる。私とマルコスの子供かぁ、どっちのベースを受け継ぐんだろう、できればマルコスのアシダカグモがいいかなぁ、あぁでも、私達の子供には火星で私達が感じた恐怖を味わって欲しくはないし、普通に産まれてきてくれるだけで満足かな、なんて。そんな事を想像しながら笑っていると、急にマルコスが抱き締めたままの私をベッドに組み敷いた。 「俺はなまえに似てる女の子がいいかな」 「えー? 私はマルコスに似た男の子がいいよ」 「いやいや、我が子にしろ自分にクリソツな野郎を育ててもな……」 「私だって、アシダカグモを引き継いでる自分とそっくりな女の子なんて嫌だよ?」 「なんで俺のベースが遺伝するの前提なんだよ」 「強くてかっこいいじゃん、その方が」 「お、それってもしかして、俺を褒めてたりするわけ?」 「マルコスってよりアシダカグモを褒めてる」 「なんだよそれ」 お互いに鼻先がくっつく位の距離まで顔を近づけて、そして笑う。それからふとマルコスが笑うのをやめると、真剣な表情で私をじっと見つめてきた。私もそんなマルコスを見つめ返して、何を言うでもなく瞳を伏せる。すると数秒の間をおいて重なった唇に、どうしようもなく胸が熱くなった。触れるだけの口付けはやがて相手を溶かすような深いものへと変わり、マルコスの片手が私の胸にやんわりと触れた。 「んっ…あ」 「は、その声ヤバいってば……」 興奮する、と言って、私の首筋に顔を埋めたマルコス。私の胸を触っていた手がいつの間にか下半身の方まで降りていくのを感じた私は、マルコスが動きやすいようにと少し態勢を変えた。もしかすると私達は、遅くとも一ヶ月以内に引っ越しを急いだ方がいいのかもしれない。私とマルコスと、そしてまだ見ぬ我が子と暮らす日々に想いを馳せながら、私はあの火星で経験した悪夢に怯え、真夜中に飛び起きる事も少しずつ無くなっていくんだろうなと思った。この先もずっとずっと、貴方という人と一緒ならば、きっと大丈夫。 今を生きる人々へ 「マルコス、話が……」 「あ? どうした、また怖い夢か?」 「……できた」 「は?」 「あ、赤ちゃんが、できーー」 た、と。私が最後まで言い終わる前に私はマルコスの筋肉質な両腕によって高く抱き上げられていた。そしてようやく地面に両脚を着いても、両目に涙を浮かべたマルコスにぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱き締められた。子供ができた事がそんなに嬉しいのか、マルコスはずっと私の頭をガシガシと乱暴に撫でながら、「俺、マジで幸せ過ぎて死にそう……」なんて震える声で囁くものだから、私まで嬉しくて涙が出た。 2014.12.21 |