人払いのされた屋敷の一室で、私は目の前の男に迫られていた。彼は私の身体を壁に追い詰めて逃げ場を奪うと、その大きな肢体で小さな私に圧力をかけている。彼は震える私の顎に手を添えて、そっと上を向かせた。それから唇が触れ合うすれすれの所まで顔を近付け、私に語りかける。

「なまえ」
「……ムーさん、お願いです。放してください」
「それはできない相談だな。君は選ばなくてはならない、今ここで」
「……」

そう言ってムーは、私の髪を一房手に取って口付けた。私はそっと瞳を伏せると、何故こうなってしまったのかとレーム帝国で過ごした日々の事を思い出していた。はじまりはほんの些細な事だった筈なのに、いつの間にかその些細な綻びは大きな裂け目へと変わり、もはや取り返しのつかない場所まで私を連れて来てしまったのだ。思えば二週間前に、夫から帰国を催促する再三の連絡を素直に聞いてさえいれば、今頃こんな事にはならなかったのではないだろうか。

「愛してるよなまえ。君だって、本当は俺の事を愛しているんだろう?」
「……私には、既に夫がいます」
「それはもう何度も聞いた。だが君の夫は、決して君の事など愛してはいないじゃないか。そんな事は、賢い君ならもうとっくの昔に気付いていたんじゃないのか?」
「そんな、そんな事……」

私はムーの言葉に何も言い返す事ができず、そのまま俯いた。すると彼はそれを許さないとばかりに、私の唇に自身の唇を無理矢理押し付けた。

「んっ…ふ……」

薄っすら開いた隙間からムーの舌が咥内に侵入し、逃げる私の舌を強引に捉えて絡めると、わざと音を立てるように吸い上げる。ざらりと歯列をなぞるように彼の舌が撫で、時折上唇や下唇を食まれた。そんな蕩けそうなほど甘い口付けに抵抗しようにも、身体にうまく力が入らない。それを知ってか知らずかムーは無抵抗状態の私を軽々と持ち上げると、そのまますぐ近くにあったベッドへ放り投げた。

「ムーさん! お願いだからやめてください!」
「……いい加減目を覚ませ、なまえ。君にはもう選択肢なんか残されてなどいない。俺を受け入れて、彼を忘れるんだ」
「……」
「なまえ!」

「……でき、ない……!」

本当は分かっている、ムーがどれほど私を愛しているのか。私だってそんな彼に、一時でも心が惹かれなかったと言えば嘘になる。それでも私には、今の夫と別れて別の人と一緒になる事などできないのだ。例えあの人が私を愛していなくても、私を取り巻く物を彼が必要としている以上は、私は決して彼から離れる事などできないのだ。

「何故だ……君をそこまで縛り付ける何かを、彼が握っていると言うのか?」
「……」
「なまえ、君の夫は……シンドバッド王は君にとっての何なんだ……」

彼が私にとって何であるのか、今の私にはもう形容するべき言葉が見つからない。私は何の面白味も無い、単なる孤島の村娘だった。それなのにある日突然シンが私の前に現れて、私にプロポーズをした。私は身分不相応だと彼の申し出を断り続けていたけれど、それでも熱心な彼の愛情に負けて私は彼の妻となった。私はシンを誰よりも愛していたけれど、シンは決して私と同じでは無いと知ったのは、それからすぐの事だった。無論彼は結婚後も変わらず私に愛を囁いてはくれたけれど、彼が必要としていたのは私の愛情では無く、私の中に脈々と流れる血の力だったのだ。

「彼は私を必要としているの……」
「……違う、あの男が欲しいのは君の力の方だ」
「それでもいい、それでもいいのよムー……例え全部が嘘でも、彼は私に優しくしてくれる……それだけで、私は……」
「満足な筈がない、いつまでも自分を騙し続けるのはやめろ! なまえ、俺は君を愛しているよ。頼むからもう、あの男の為に自分を犠牲にするのはやめてくれ……」

そう言ってムーが、私の身体を抱き締める。彼に抱き締められると、何故だかいつも心があたたかくなった。これがきっと、本当の愛情なのだろう。頭の中では分かっているのに、心では私も彼を求めているのに、しかしこのまま私がムーを受け入れたら、彼は他国の王妃と姦通した罪を犯す事になるのだ。いくら愛の為と言えど、どうしてそんな行いを彼にさせられるだろうか。

「愛してる、愛しているよなまえ……」
「……」

ムーの鮮やかな赤の髪へと手を伸ばすと、婚姻の証である銀の指輪が鈍く輝いた。シンは私を抱いて愛情を示すけれど、女が本当に抱いて欲しいのは身体では無くて、肉体に宿る心の方なのだと思う。出会ってから今日に至るまでの間、ムーが私にそうしてくれたように。肉体的な繋がりなど無くても、人は誰かに気持ちを伝える事ができる。シンドバッド王よ、貴方は何て罪な人なのかしら。貴方は婚姻という形で私を自分の国に縛り付けておきながら、残酷にもその心までは縛り付けてはくれなかった。

「ムー……」
「……なんだ?」
「シンドリア王妃と不義を働く事が、どんな事になるかという覚悟はあるの?」
「あぁ、もちろん。例えこの事が誰に知れようと、俺は必ず君をこのレームと共に守り抜く」
「……信じるわ、貴方のことを」

そう言って私は、ムーの唇に自らの唇を押し当てた。それから彼の首に両腕を巻き付けて、隙間を無くすように身体を重ねる。私達は長い時の中で培った寂しさを埋めるように、虚しさを燃やすようにお互いを求め合いながら、柔らかなベッドの上に沈んでいくのだった。




色の罪を重ねて




続きます
2014.08.19