季節の変わり目で雨が降って寒かったりじめじめと暑かったりと気候は落ち着かなくて、その日はとても蒸し暑かったと記憶している。彼女の、夜久の首筋は汗で光っていてそこにいくつか後れ毛が張り付いていた。道場にはなんだか油みたいな、嫌な空気が流れていて、先輩の何人かは面白そうに、俺達は複雑な気持ちのまま夜久を見つめている。唇を噛み締めながら弓を引く。その眉間には宮地に負けないくらい皺が寄っていて、的を睨んでいるくせになんだか泣きそうな顔をしていた。普段はマドンナなんて呼ばれてるけど、俺達から見える夜久はそこから少しズレていて、いつも泣きそうな顔で何かを睨んでいる。俺はそんな顔をする女の子なんて知らなかったから、少しばかり面食らっていた。
きっ、と夜久の視線が強くなって弓から矢が放たれる。けれどもそれは的までは届かずに途中で落ちた。入部してあまり時間は経っていない。一年の中でも的まで届くように弓を引けるのは宮地くらいだから、夜久は女の子だし当然の結果と言えた。ただ、矢が落ちる瞬間の凍る瞳を見たら誰がそんな気休めの言葉を吐けるだろうか。また、届かない。消え入りそうな声が耳に届いて、俺は夜久がいるからなんてちゃらんぽらんな理由で入部した事を初めて悔いた。
そんな俺の横からニヤついた顔の先輩達が歩いてきて、夜久の肩をぽんと叩く。

「だから無理だって言ったじゃん、マドンナちゃん?」
「そうそう、一年でこの時期でしかも女子で、まともに引ける訳ねぇし。あんまり無理しないようにね」
「じゃ、あと掃除よろしく」

そう言うと先輩達はそそくさと更衣室へと消えていった。宮地が物凄い形相でその後ろ姿を睨んでいるのを犬飼が窘める。夜久は弓を置くと曖昧な顔で俺達の所に戻ってきた。

「……なんか、ごめんね」
「なんでお前が謝るんだよ」
「あ、うん、なんか空気悪くなっちゃったし」
「あんま気にすんなよ」
「……うん。掃除、あとは私がやっとくから犬飼君達帰ってていいよ。弓引かせて貰うかわりに、道場掃除するって言い出したの、私だし」
「わかった。じゃあ頼んだわ」

犬飼のあまりに冷静な態度に腹が立ったのと、夜久を放っておけなかったのと。でも、と声を上げると犬飼に無理矢理腕を引かれた。そのまま更衣室まで引きずられる。夜久が見えなくなった所で俺は反論の声を上げた。

「何すんだよ!お前、あの態度なんだよ!俺達一年同士だろ!」

俺とは反対に犬飼の金色の瞳は冷静で、ひんやりと冷えていた。

「じゃあ白鳥、お前はなんて声掛けるつもりだったんだ?」
「それは、」
「先輩達の言う事は尤もだろ。実際俺の矢も白鳥の矢もまだ的まで届かない。だけど夜久が頑張ってる事も知ってる」
「なら!」
「女一人で、自分以外男だらけの中周りに追い付こうと必死で頑張ってるあいつに気休めなんか言って何になるんだよ。わかってやってるふりしたって俺達は所詮男だ。俺達の無意識の言葉があいつを傷付ける事だってあるんだよ、違うか?」

何も言い返せなくなって、口を閉じた。犬飼は他人との距離の計り方が上手い。ここまでは良くて、ここからは駄目。そういうのを弁えている。俺は馬鹿だからそんなのは全然わからなくて、その場の流れや感情のまま行動していてもしかしたらそれが誰かを傷付けている事があったのかもしれない。情けない。自分は無害だと思ってそれが誰かを踏みにじっている。
自己嫌悪に苛まれながら更衣室でのたくたと着替えを始める。八つ当たりと腹が立ったのとで、早々に着替えて帰っていく先輩達の背中に唾を吐いてやりたかった。

そうやって着替えに戸惑っていたせいで更衣室から出たのは俺が最後だった。
鍵を閉めて玄関に向かう。道場の隅に夜久の姿が少しだけ見えた。やっぱり、と俺は進路を道場へと変えた。馬鹿だって分かってる。中途半端な、というかもしかしたら夜久を傷付けるような動機で入部した俺が何か上手い事を言えるとは思えない。夜久が心配なんていうのは言い訳で、殆どが俺のエゴでしかない。後ろめたい気持ちのある俺はこっそり足音を消すように道場へ入った。

夜久は雑巾で床を拭いている。下を向いているのと、長い髪が垂れているのとで表情は見えない。自分から近付いたくせに俺は息を殺してその姿をただ眺めていた。はたはたと、耳に届くか届かないかの音がして、何か水滴が落ちているのだと気付いた。言わなくてもそれが何か、どこから流れ落ちているのかはわかる。やっぱり来るべきじゃなかったかもしれない。そう思った瞬間、先程までとは粒の大きさも色も違う一滴がぼたりと音を立てて床に落ちた。その一つを皮切りにぼた、ぼたぼたと落ちる赤い雫に俺は目を見張ると次の瞬間には夜久に駆け寄っていた。

「っ、おい!」

その肩を掴み無理矢理顔を上げさせれば、弓を引く時と同じ、顔を歪めたまま泣く夜久の下唇からとめどなく血が流れていた。噛みすぎて、切れてしまっただろうそれに何か宛てがう物を探したけれど見付からない。慌てていると血を流したままの夜久がいいの、と掠れた声を発した。

「くやしい」

泣きながら、血を流しながら夜久が言う。まるで喧嘩で負けた子供のような泣き方だった。

「女だからって、練習メニューも皆と違って、気を遣ってくれてるのかもしれないけど、私はそれがすごくくやしい。
時々、すごく惨めになるの。優遇されているのは分かってる、だから私は誰より頑張らなきゃいけないのに、それがいらないみたいに言われる。女のくせにって、言われる。くやしい、くやしい!なんでなのよ、ねえ自分がすごく嫌いになるの!」

俺は呆気にとられて茫然としていた。俺の知ってる女の子はだいたい柔らかくて、お喋りで、笑うとかわいくて。こんなの、知らなかったんだ。
夜久はまた下唇を噛んだ。癖になってしまってるのかもしれない。

「……俺、そんなの知らなかった。夜久がそういう風に思ってたなんて知りもしなかった。ごめん、今まで無意識にいっぱい傷付けてたかもしんない。
でもさ、唇、噛むのやめろよ。女の子だからとかじゃなくて、夜久が痛いのは俺もやだよ。唇の代わりに俺の事噛んでいいよ、噛み千切っていいよ。だから、噛んだりなんかするなよ」

とにかくこの小さく薄い唇から流れる血を止めてやりたかった。ワイシャツの袖を押し当てればみるみる赤く染まっていく。
夜久は驚いたような顔をした後、目元の涙をそのままに笑ってみせた。

「……なに、それ。俺の事噛んでいいなんて変だよ」
「え、そ、そうか?」
「ふふふ、変だよ、すごく、変」

女の子ってやっぱりよくわからない。泣いてたと思ったら突然笑ったりして

「……でも、ありがとう。噛みたくなったら呼んでいいの?」

冗談っぽく言う夜久に俺は黙って頷きながら、でも夜久が何かを噛み千切ってしまいたくなるような事なんかなくなればいいのに、と密かに願っていた。それを口にするには俺はまだ頼りなさすぎるから。