大きく吸い込んで、吐いた息は白くのぼった。11月の朝は思っていたより寒くて指先が冷える。赤く染まるそれよりビビッドな赤ソファーでごろりと身体を仰向けに動かした。ずれたヘッドホンから音楽が、腹の上に乗っけた本が落ちる。寒い場所で一人息を吐くと思い出す事が幾つか。決して良い思い出ではないだろう。それでも俺は時々記憶の一番下の層をほじくり返す。そうしなければ忘れてしまうからだ。そうやって痂を剥がさないと痛覚すらも麻痺して機械になるんじゃないかと思う。


少しだけ昔話をしよう。
俺は今よりずっと寒い所に住んでいた。もう十年位前なので具体的には覚えていないけれど、小さかった俺の身体の半分まで雪の降るような所だった。
そんな寒い所にある小さな家の子供部屋が俺の世界だった。壁紙は一面青空だったのに、窓から見えるのはいつも曇天だった気がする。天井からは赤ん坊をあやす回転木馬の玩具がずっとぶら下がっていて、部屋にはなんだってあった。電車の模型、車の玩具、クレヨン、絵本。その時の俺のお気に入りは買い与えられたばかりの1000ピースのジグソーパズルで、それを夢中になってやっていた。絵本の物語は他の誰かの手で完結されてしまっていて、何だがそれがもどかしくて俺はパズルへ手を伸ばした。片手の指で足りる年齢だった俺は千という数の膨大さ等当然知る訳もなく、両手から溢れる量のピースに埋もれ何も見えちゃいなかった。

「お母さん出かけるけど、いい子にして待ってるのよ」

母の顔はもう曖昧にしか思い出せないけれど、とても綺麗な人だった気がする。その日は特別綺麗にお化粧をして出ていったのを何となく覚えている。母はそれっきり、帰っては来なかったのも。何も知らない俺はそのままパズルにのめり込んだ。お腹が空いたらお菓子がある。母が俺に買い与えたのはカラフルな外国産のお菓子ばかりだった。ピンクのマシュマロ、黄色のグミ、ブルーのゼリービーンズ。それらはひとりの寂しさを塗り潰すように鮮やかで、でも口に入れれば皆おんなじ甘さだった。
いつしか暖房も切れて床は冷たくなっていた。寂しいとお腹が空くからお菓子を食べる。赤、青、緑、皆同じ味。寒い、お腹が空いた。缶を揺らせばドロップが零れて、俺はそれをかみ砕く。カロンカロン、ガリガリ。飴ばかり舐めていたら喉はガサガサに擦れてひりひりと痛んだけれどドロップを舐めるのはやめられなかった。ひとりでいると、寂しいとお腹がすくんだ。ガリガリ、バリバリ、ドロップを舐めながらピースをかき集める。つま先が冷えて痛いなあ。ドロップがなくなって俺は今度は指をくわえた。歯に当たるとカチカチ鳴る爪はドロップの立てる音と似ていた。
そうして、母が出ていってどれくらいの時間が経ったのかはわからない。親戚の人達はこの時期の事を地獄だったろうと口々に言ってきたが俺は別に酷い事だとは思っていなかった。俺の最大の幸運は最上を知らなかった事だ。最上を知らないから、今の自分が最低な環境に居るとは思わなかった。とにかくお腹がすいたとしか俺は思っていなかった。ひたすら青い壁紙を見つめながら俺はくまのぬいぐるみを抱いてぼんやりとしていた。きれいな空に守られた檻を開けたのは、じいちゃんだった。
翼、おいで。直ぐには動けなかった。お腹がすいていたからとかではなくて、とても寒かったからだ。フローリングは氷みたいで、そこに裸足だと皮膚がくっつくみたいに俺は動けずにいた。動けない俺を動かしたのはじいちゃんの一言だった。
翼、あったかい所に行こう。

大嫌いな黄色い長靴を履かされて、夜の道を歩いた。じいちゃんのおっきな手が暖かいのにすごく安心していた気がする。じいちゃんは抱っこしてやろうかと聞いてきたけど断った。抱っこされたら手が繋げなくなる。
群青に黒を落とした夜の道に、一定の間隔で立つ電灯がぼんやりと銀色の光を放つ。その数を数えながら歩いていた。じいちゃんは何か詩を口ずさんでいた気がする。白い息が流れていくじいちゃんの眼鏡は曇っていた。ゆあーんゆよーんゆあゆよーん。知らない生き物の泣き声みたいだと思ったのを今でも思い出す。

「……屋外は真ッ暗 暗の暗、夜は劫々と更けまする。落下傘奴のノスタルジアと」

あの時からずっと、回転木馬が俺の頭の上でゆらゆら揺れながらぶら下がっている。

ゆあーんゆよーんゆあゆよーん。

寂しい、絶望的な音で俺の孤独はずっと埋まらないまま。




引用:中原中也「サーカス」より
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