今日という日ほどこの研修制度を恨んだことはない。

 肉厚な唇は締まりなく唾液をひと匙零しながら厭らしく歪められる。節と皺の目立つ自分より幾分が大きな手を差し出せば花に誘われた蝶のように優雅な所作で唇が沿えられる。焦らすようなゆったりとした仕草がまた審神者を興奮させたようで生唾を飲む音がこちらまで届いた。
 審神者となる者にとってこの研修制度は避けては通れぬものであった。遥か昔より続く異形との戦は資源に人材にと不足するものが多くまた痛手となる一手を加えられることなく終わる気配をみせやしない。審神者となる素質がある者は確認出来るだけで幾万という数になるが、戦力の決め手となる顕著が可能な刀には限りがある。本体よりその分霊を依代に降ろし使役する方法しか見出だせていない現在では闇雲に顕著させてもその本体の力が弱まる一方であり、無駄だと判断された成績不良の本丸は改善の余地もないままに解体させられる。その中でも残存し続ける優秀な本丸へ幾つか周りこれから審神者となる者が解散した本丸と同じ轍を踏まぬようその教えを請うのがこの研修の目的だ。なまえは研修として周る本丸の五つ目、最後の研修場所でまさかこのような苦難が待ち受けているとは露知らず手取り足取りとその教えを伝授してくれた審神者に好感を抱いていたが、人相手となれば犯罪に片足を突っ込みそうなこの審神者の性癖を目の前で見せつけられていた。研修として本丸を回る中、天才とは矢張り変人と紙一重なのだと実感した中であったため唯一まともな存在だと感じたこの男に感動を覚えたが、どこも同じ穴の狢だと認識を改めることになった。


「三日月、おいで」


寝着の白い着物を身に纏った刀が言われるがまま見を差し出す。見目麗しい男の姿の刀が豚のように膨れ上がっている初老の男に身体を弄られている姿は例え本人――本刀?――の了承の上だとしても、第三者のなまえから見れば気分の良いものではない。呼吸の荒い男の舌が刀の唇を舐め上げ唇に蓋をするよう吸い付く。それはやがて僅かばかりの隙間を開けたと思えば舌と舌がみせつけられるように絡み合い始める。

(カンベンしろ)

率直な感想は口に出さず喉元で潰した。この研修で中々痛い目に合ったなまえだがこの時ほど自分を褒めたことはない。それは自分も身の危険を感じているからであった。絡み合う舌はそのまま、ちらりと男の視線はこちらを向く。


「名前も来るといい、やめられなくなるものさ」


自分の容姿は充分理解しているが、男の姿を成す刀相手にご執着であったためセーフかと思っていたが、相手の許容範囲は存外広かったらしい。夜の帳が折りたこの部屋に審神者と二人きりになった時から薄々と危険は感じていた。
 なまえは両親が国の役人であり”官品”であることから生まれる前より国のために奉公することは決まっていたし、出生後直ぐに行われる適材検査にて高い成績を叩きだしたことにより生みの親元を離れ審神者養成所なる箱庭で過ごしていた。品行方正を掲げるその”箱庭”では邪なものの他娯楽さえも淘汰された場所であったがどこにでも抜け道とはあるもので、子供の好奇心は大人の張った網を潜り抜け所謂外界の物の流通は少なくは無い。そうゆう行為があることもその目的も知らないことはなかったが画面や紙といったフィルター無しで目の前に繰り広げられる光景に吐き気すら催した。やんわりと角を立てずに、それでいてはっきりと否定の言葉を口にする。曖昧に暈すのは日本人の悪い癖だ。そうしてしまえば相手に流れを変えられてしまう可能性もある。


「明日早朝には戻らなければなりませんので」


大変有り難いお誘いではありますがどうぞわたしはお気にせず。というかこんなうら若き少女を食い物にしようとするな。
綺麗な言葉だけ並べて返せば審神者は強引に進めることなく「そうかいそうかい」と気前よくしかし含ませた言い方で返した。飛び火する前にと、とっとと退散したなまえのその後ろ姿を薄っすらと笑みを浮かべた欠けた月だけが眺めていた。







「うわっそれってかなりやばいんじゃない?よかったねなまえ、何もなくて」


ポテトチップスを食べながらぺちゃくちゃとお喋りするのはなまえとカワイイに五月蠅い加州清光であった。その姿はまるで外界でいう女子高生そのものであるが例の研修であった出来事を肴にしているせいか清光の表情はおぞましいものを目の前にしているように歪められっ放しだ。塩と油が付着した手をティッシュに擦りつけていた手を止めてうげぇと眉間に皺を寄せる姿は全くもってカワイくない。当事者のなまえは付着した塩は舐めとる派で親指に舌を当てながら「やばいっしょ」と軽く返答する。


「なまえはさあ、見た目と外ヅラだけは良いから危ないよ」
「引っ叩くぞ」


頬杖をついた清光は確かに可愛い。そんな刀を横目に見ながらポテトチップスを摘まもうと袋に手を入れると何も掴めず終わってしまったようだ。もう一袋開けようとお菓子袋に手を伸ばすと「一日一袋。ニキビできるよ」と人間、というより本当に女子高生のような台詞だ。それでこそ加州清光。
 なまえと清光はかれこれ長い付き合いで、箱庭教育での教習の一環で近侍となる刀を一振り選びそれと共にする習わしだ。無事本丸を持った際に、実際の戦には赴かずシミュレーション程度であるため雀の涙程ではあるが錬度が高い一振りがいたほうが良いと、そして敵になる前に摘もうとする歴史修正主義たちからの攻撃から教育生を守る、といった目的で導入されたらしい。実際箱庭ではお偉い方々の結界に堅く閉ざされているため後者の理由は薄いところだが。


「あー、ああいった輩にはなりたくないからなあ」


思い出される豚さんが見目麗しい刀とまぐわう光景。あの体型だけは勘弁したいところだ、一応女として。


「ところで、そろそろ卒業だね。先生から呼び出されてるんでしょ?」
「正確にはお役人から」
「また面倒事だね、どうせ」


全くの正論に頷くと清光は愚痴を溢しながら綺麗に塗装された紅の爪甲を眺めて悲痛な声を上げた。「剥がれてる!」塗ってくれとの意味だ。渋々清光専用となっているマニキュアを取り出すと猫を被って調子の良い事を口にする。他者の分霊である加州清光は良くも悪くも主には猫を被ると聞くが、この加州清光、主に似て猫は被るが煽てることはどこかに捨ててきたようで調子の良い言葉ばかりが目立つ。いつもの流れに溜息をひとつ零して蓋を開けると独特な匂いが部屋へと染み渡るように広がる。


「まあ死なない程度には守ってあげるからね」
「冗談じゃない。まだ人生を謳歌してないから」


もう一つ上げるとするならば、この清光の錬度は他の刀と違い最高度の錬度を持つ。教育生の近侍は呼び出した主の力量により多少の誤差はあれど、せいぜいそこから十程高い程度だ。しかしなまえの巻き込まれ体質が影響し錬度は瞬く間に上がっていった。トップの成績を持ち本丸獲得は確実であるが、どうしてもその体質だけは気掛かりであった。



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