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一回だけ

包まれた腕の中で今起きている状況の整理をする。

窓越しにニジ様と目が合った時、私は心からの笑みを浮かべた。今の自分の、精一杯。それを以前、私が笑わないことを不満に思っていたニジ様に向ける。そしてすぐに後ろを向き、顔をうつむかせてニジ様たちが去るのを待った。現実から目を背けるように強く目を閉じて持っていたジョウロをギュッと抱きしめ、早く時間が過ぎるのを願う。そしたらフワリと何かを包まれて閉じていた目を開けて顔を上げてればそこには青色が広がっていた。

「ニジ、さま…」
「やっと笑ったな」
「ど、して…?」
「俺から逃げたこと、お前から泣きついて謝ってくるまで許さねェって思ってた」
「私、泣きついてもないし…謝ってもいません…」
「あァ、だからまだ許してねェ」
「え!す、すみません…」
「泣きつけよ、召使い女」

俺の怒りはまだ治ってねェぞ、と口調は荒いが、頭を撫でる手付きはとても優しいことに気付いた。優しくは出来ないって言ったくせに。そんなことに嬉しさを感じてしまう私はこの人の宣言通り、もう逃げられないのかもしれない。早くこの国を出なければ、と考えていた思考回路はニジ様によって打ち砕かれた。私はもうこの人の手に落ちたのだ。
腕の温もりに安心感を覚えた私はそのままニジ様に擦り寄る。すると、頭上から嬉しそうな鼻を鳴らす笑い声が聞こえた。ニジ様も、嬉しいって思ってくれてるかな、と考えていたらフワッと香った香水の匂いに顔をしかめる。すぐに距離を取ると、ニジ様は不満気な顔をされた。

「ニジ様…いや、です…」
「は?何がだ」
「…ニジ様から、他の女性の香りがして、嫌…です」

勇気を出して言ってしまえば、少し間があいてニジ様の笑い声がした。そして何を思ったのか、私の持っているジョウロを掴みその中に入っていた水を頭から被った。えぇ!と驚いていると濡れた髪をかき上げながらこれでいいか、と聞いてきた。

「随分、可愛いこと言ってくれるじゃねェの」
「ニジ様!なにを…!風邪を引かれてしまいます!すぐにお着替えを!」
「お前が嫌だって言ったんだろうが」
「まさか!花の水をかけるとは思いませんでした!せめてシャワーで…!」
「めんどくせェんだよ、たくっ」
「とにかく!お部屋へ戻りましょう!」

タオルなんて持っていない私は自分の袖を引っ張ってそれでニジ様の顔を拭く。いきなりデンジャラスな事をしでかしたニジ様を責めながら部屋へ誘導する。今度は私がニジ様を引っ張る番だ。私のせいで風邪なんかひかれてしまえばイチジ様あたりから小言を言われそうで恐ろしい。とにかく早くお部屋へ連れていかなければ、という使命感で歩いていたら、廊下の端で薄紫の髪の女性が立っていた。

「本当に召使いに入れ込んでるのね。ニジ」
「帰ったんじゃねェのか、お前」
「冷たいのね、その子には甘いくせに」
「うるせェ、早く失せろ」
「ふふふ、じゃあまたね、ニジ」
「一生来んな」

ニジ様に冷たくあしらわれても、笑いながら去っていく女性。さすが、今までニジ様を相手にしてきただけあって何を言われても動じてない。大人で心の広い人だ。少しだけあの女性の好感度が上がってしまった私はいやいや違う!と頭を振りながらニジ様の手を握って部屋に急ぐ。そして着いてすぐに扉を開いてニジ様を中へ押し込んだ。

「いいですか!すぐにお風呂に入ってくださいね!すぐにですよ!風邪をひかないように!」
「…で、口うるせェお前はなんで部屋に入らねェんだ?」
「私は今日とてつもなく汚れているのでお部屋に入ることが出来ません。なので、本日はここで…」
「一緒に入れば問題ねェだろ」
「っ、問題だらけです!何言ってるんですか!」

私がニジ様と一緒にお風呂へ入る?罰ゲームにも程がある。仲直り(というのだろうか…)こそしたものの、結ばれてはない!気持ちは認めたけど、境界線を越えるつもりもないから身体を見せ合うなんてそんなこと…!

「忘れたわけじゃねェよな、お前はまだ泣きついて謝ってねェぞ。つまり、俺の怒りはまだ治ってねェ。」

だとしたら、することは分かってるよな。なまえちゃん?
ニヒル笑いをしたニジ様に背筋が凍りついた。ご機嫌取り、ということなのだろうか。目を泳がせながら動揺して中々動かない私に痺れを切らしたニジ様はあろう事か、私を持ち上げて部屋に入っていく。必死で抵抗すると動くな、黒焦げにすんぞ、と脅されたので大人しくなるしかなかった。

「あ、あの…百歩譲って、別々に入るというのは…」
「却下だ」
「えぇ…しかし、私は使用人という立場でして…主人と一緒にお風呂に入るなど…」
「じゃあ、使用人なら使用人らしく俺に奉仕しろ」

この人は本気だった。いや最初から本気か。せめてもの抵抗で泡風呂にしてもらった広い浴槽の中、ニジ様からめいいっぱい距離を取りながら湯に浸かる。緊張しすぎてお湯の温度がいつもより熱く感じる。

「もっとこっち来いよ」
「い、行きません…!」
「なんでだよ」
「なんでもです…!」

もう嫌、早く出たい。ここはなんていう地獄ですか。端っこで早く時間よ過ぎろ…とぶつぶつ唱えていたら、フゥとシャボン玉が飛んできて私のおでこにぶつかって消えた。前を向けばニジ様が楽しそうに泡で遊んでいる。そんな可愛いことするんだ…と意外に思いながら私も泡を掬い上げてフゥと息を吹きかける。すると小さなシャボン玉がいくつか出来てそれがニジ様の方へ飛んでいく。わぁ、楽しい!と何回もそうして遊んでいたら突然ニジ様が立ち上がって浴槽から出る。それに驚いて私はすぐに後ろを向いた。出るなら出るって言って欲しい…目のやり場が困る…と困っていたらおい、と声をかけられた。

「背中を流せ」
「わ、私が…ですか…?」
「他に誰がいんだよ」
「そ、そうですよね…」

意を決して私も浴槽から出てタオルを巻き(これだけは譲れない)スポンジを泡立たせてニジ様の背中を洗う。本当、頬を叩いたときにも思ってたけど皮膚が硬すぎる。人間じゃないみたい。まあでもこの人、電気出せるんだよね、人間じゃないのかもしれない。そして筋肉もすごい。こんなに分厚い背筋なんて初めて見た。
静かな浴室に、無言なのもなんか居たたまれなくなったので、美容師さんよろしく痒いところはないかと尋ねてみると「ねェ」と一言だけ帰ってきた。会話のキャッチボールって難しい。

背中を流したあとは本人に任せて私はまた泡風呂を堪能する。フワフワの泡と遊んでいたら先上がる、と言ってニジ様は風呂場から出ていかれた。さっきから少し元気のないように見えるのは気のせいだろうか。最初の方は泡で遊んでて楽しそうだったのに。じゃなくて!主人より長くお風呂に入るなんてダメじゃん!と急いで浴槽から出て綺麗に髪から下にかけて綺麗に洗ってすぐに出る。脱衣所には1着、バスローブが置かれていて身体を拭いてからそれを羽織ると、とてつもなくブカブカだった。そりゃニジ様のやつだから当然よね、と苦笑いしながら部屋に戻ると髪を乾かさずタオルを乗っけた状態のニジ様がいて、あの人何のためのお風呂だと思っているんだ!とドライヤー片手にニジ様の元へ向かう。

「髪乾かさないと風邪引きますよ」
「お前の仕事だ」
「…かしこまりました」

まだ湿っている髪をタオルで軽く拭いて髪の毛を引っ張らないように丁寧にドライヤーで乾かしていく。そういえば、いつも疑問に思っていたけど前髪と後ろ髪の境界線ってどこだろう?と乾かしながら探していくと、ものの数分で何時もの髪型に戻った。…うん、ヴィンスモークマジック。
このままだと私も風邪を引いてしまうのでドライヤーを引き続き借りてていいか聞けば、好きにしろとお許しをもらったのでそのまま自分の髪を乾かす。
このあとはどうしよう、替えの服がないから使用人部屋に帰れない。まさかこのままの格好で出歩くわけにもいかないし、ニジ様に失礼を承知で電伝虫を借りて同僚に服を持って来てもらおうか。そう考えていて乾き終わった髪を手櫛でといていたら櫛を渡されて有り難く使わせてもらう。

「あの、ありがとうございました」
「………」
「し、失礼を申し上げますが、電伝虫をお貸しいただきたく…」
「お前このまま帰れるなんておもってねェよな?」
「…思ってました。今までは」
「背中流したぐれェじゃ機嫌は治んねェよ」
「うわ!」

急に腕を引っ張られベッドに投げ飛ばされ、すぐに私の上にニジ様が乗っかってきて、両手を縫い付けられる。何で急にこんな…と混乱しているとあの時みたいに触れるか触れないか分からないほどのキスをこめかみにされた。

「いいか、一度しか言わねェ。しっかり聞いとけ」
「え、え…?」
「お前が好きだ」
「な…んっ!」

誤魔化すようにくっ付いた唇はとても乱暴で、ニジ様らしいキスだった。角度を変えて確かめ合うそれはずっと待っていたかのように吸い付いて離れない。何度も何度も噛み付かれてだんだん深いものに変わっていく。舌が絡み合い、互いが互いを求めるようにキスをした。

「わ、たし…も…」

酸素が薄く、思考回路もままならない私は熱に浮かされてつい、本音を漏らした。