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08

空は土砂降りの雨。仕事を定時で終わらせて降ってくる前に帰ろうと思っていたのに、会社から一歩出た瞬間にバケツをひっくり返したように降り始めた。バス停までは五分くらい歩かなくてはいけないし、屋根もない。小さい折り畳み傘では全然意味ないだろうな、と思いどうしようかと悩んでいたら後ろから声がかけられた。

「みよじさん、今帰り?」
「あ、おつかれさまです。そうなんですけど、この雨で…」

誰かと思いきやこの間のチャラリーマン先輩だった。社の前で、立ち往生していたわたしを見かけて声をかけてくれたらしい。

「参ったな…止みそうにない」
「ウェブで雨雲レーダー見たんですけど、あと2時間は止みませんね…」
「まじで?どうしよっか」
「どうしましょう…」

声をかけてくれても今回はチャラリーマン先輩もお手上げのようでふたりして社前で雨宿り。周りを見て見たらほとんどの人が屋根のあるところに避難していてこの雨の中を歩く勇者はほんの一握りだった。雨がマシになるまではここで待機だなあ、とため息をひとつ零した。

「先輩はなにで帰るんですか?」
「俺は電車だな、でも駅ってここから結構歩くだろ?」
「あー、そうですよね。だからわたしバスにしたんですよー」
「そうなんだ、バス停から会社まで近くだからね」
「そうそう!だから楽なんですよ」

へへへ、と笑えば先輩は何を思ったのかわたしの頭を撫でてきた。それが少しむず痒くて視線を下に逸らす。止みませんねー、なんて誤魔化してみても耳が熱いのは変わらなかった。急に寒い風が吹いて冷たい雨とともにわたしたちに降りかかる。少し濡れてしまった衣服にカバンから取り出したタオルで拭いていく。

「あ、先輩も前髪濡れちゃいましたね」
「本当だ。最悪…」
「少し屈んでください。濡れたタオルで申し訳ないですが、拭かないよりはマシだと思うので」
「こう、か?」
「あ、もう少し…その辺で」

背の高い先輩が、わたしの目の高さまで屈んでくれて、前髪を拭いていく。この行為は先輩に風邪を引かれては困るからで特に深い意味はない。何故か零くんに対して罪悪感を抱いてしまったが、これは会社のエースの先輩が倒れたら困るからであって…なんて心の中で言い訳をする。すると前髪を拭いている手を先輩に掴まれて止められた。その目は少し熱を持っている気がした。

「みよじさんってさ、そういうのわざと?それとも天然?」
「あ、い、いやでした…よね」
「全然。むしろみよじさんなら大歓迎なんだけど」

勘違い、してもいいのかな
そう言われ、気付けば抱き締められていた。零くんとは違う匂い。零くんとは違う体温。零くんとは違う、人。だめだ、わたしの中で零くんは大きくなってる。本当はいない人なのに。全部妄想なのに。感じた匂い、体温、優しさ。全てが彼じゃないと駄目だと告げている。あぁ、なんて痛い女なんだ。

「だめ、です…」
「え…?」
「勘違い、しちゃ。だめです…ごめんなさい…」

ゆっくり彼から離れて見つめあったら急に周りの音が騒がしくなった。スポーツカー特有のエンジン音が鳴り響いて凄いスピードで走り、急にブレーキをかけてわたしたちの前で止まった。あ、この車見たことあるな…なんて呑気に考えていたらその車から見覚えのある人が出てきてわたしたちの元へ来た。

「すみませんが、彼女から手を離していただけますか?」
「れ…あ、むろさん…?」
「全く、雨で帰れないなら僕に電話してくれればいいのに」
「い、忙しいかと思って…」
「そんなの、なまえさんの為ならすぐに駆けつけますよ」

のっけから安室さんモードで現れた零くんは先輩に掴まれていたわたしの手をやんわりと解いて腕の中へ閉じ込める。ちゅ、と頭にキスをされて一気に体温が上がったわたしの心臓はどくどくと鳴りはじめた。すると、鼻を耳元に当てて匂いを嗅いだ零くんは小さく舌打ちをした。置いてけぼりの先輩はその光景を見て全てを察したかのように「はは、そうか…」と切なそうに笑っていた。

「だから、勘違いしちゃだめなんだね」
「せ、んぱい…」
「はは、わかったよ。じゃあね、みよじさん。また明日」
「あ、おつかれさまでした!」

まだ雨は土砂降りなのに、先輩は気にせず走って去って行ってしまった。なんだろうこの罪悪感…。ものすごく申し訳ない気持ちでいっぱいだ。先輩が去って行った方を見つめていたら零くんの手がわたし目を塞いだ。

「僕の前で他の男の事を考えるな。…帰るぞ」
「う、うん…」

そのまま零くんに連れられて車に乗り込んだ。シートベルトを締めながら彼の顔を盗み見ると無表情で何を考えているかわからない。お、怒っているのかな。でもわたしは先輩を断った。むしろ褒められるべきなんじゃないか…?と唇を尖らしていたら車は発車された。車内はずっと静かで、雨が車に叩きつける音だけが響く。もう周りの空は真っ暗でどこに向かっているかわからない。多分わたしの家なんだろうけど、まるで異次元に向かっているかのようで少し怖い。そんな状況が20分ほど続き、車が止まったのは見知らぬマンションの駐車場だった。どこだ、ここ…?とはてなマークを出しながら車内から周りを見渡していると「早く降りろ」と零くんに急かされる。慌ててシートベルトを解き外に出ると零くんは車の鍵をかけてマンションの玄関口に向かって行った。おそるおそる付いていくとオートロックがしっかりしてそうな頑丈なドアをくぐり抜けエレベーターに乗る。止まった階で零くんが出て、変わらずそれに付いて行ったらある部屋の前で足を止めた。

「も、もしかして零くんの部屋…?」
「そうじゃなかったらただの不法侵入だぞ、入って」
「おじゃまします…」

部屋の鍵を開けてわたしを中に入れるとすぐさま靴を脱いでわたしの手を引っ張ってきた。いやいや!わたしまだちゃんと靴脱げてないです…!という悲痛な叫びは零くんに届かず、中途半端に脱げた靴は廊下に放り出された。し、神聖なる場所になんてことをしてしまったんだ!と思うも、零くんは気にしていないようでそのままわたしは何故か洗面所を抜けお風呂に到着していた。いや、なんで…?なんて考えていたら急に上からシャワーをかけられて頭が真っ白になる。

「つめた…!え、何…ちょ…!」
「あの男の匂いがして不愉快だ」
「れ、零くん…!つめ、あ、あつっ!熱いよ!?」
「……少し、黙っててくれないか」
「れ、れい…んっ」

か細い声が聞こえて顔を上げたら零くんからのキスが降ってきた。この間のキスとは違ってすぐに舌を絡められ何度も吸われる。普段出さない高い声も口から漏れてものすごく恥ずかしい。もう立ってられなくなって膝から崩れそうになっても、零くんがしっかりと腰を支えてくれている。わたしの手は零くんの首に誘導されてしっかりとしがみついた。

「…は、んっ…れ、く…」
「今は僕のキスだけに集中しろ」
「ん…っ」

い、言われなくても必死です…!と泣きそうになりながらされるがままになっている唇に必死に付いていく。キスが上手すぎるのも問題なのでは…?と激しく議論したいのだけど今はそんなことしていられない。零くんの気がすむまでその行為は続けられた。

「で、ちゃんと断ったんだろうな?」

シャワーを止めながら零くんは質問してくるが、なんの事だかわたしには理解できなかった。あんなキスの後で正常に働く脳ではない。肩で息をしながらへたり込んだ地面から零くんを見たら「…やらしいな」なんて返ってきたものだからそろそろ怒ってもいいだろうか。

「あの男だよ、一緒にいただろ」
「…あ、先輩の、こと…は、言ったよ…?ちゃんと…」
「どんな風に?」
「勘違い、してもいいか、って、言ったから、ダメです…って」

そしたら零くんは湿ってぺったんこになったわたしの髪を撫でて、「よく出来ました」と言ってくれてもう一度、今度は優しいキスをしてくれた。そしたら瞬間、顔つきがキリッと変わって、

「だが、抱き締められたのは感心しないな。あの男の匂いが完全に消えるまでしっかり洗え」

いいな?そう言ってお風呂場から零くんは出て行った。切り替えが早すぎて、怖い。そしてなにをどうしろと言うんだ…このままシャワー借りちゃっていいのだろうか。と言うか服のままシャワーをかけてきたぞ、あの人…!鬼か…。とりあえずこのままだと気持ち悪いから肌にまとわりつく服を脱ぐ。水を含んでいるからとても大変だった。あとで文句言ってもいいよね、うん絶対言おう。